碓氷峠を横川から軽井沢まで歩く(その1)

 使用期限が9月10日までの「青春18きっぷ」があと1日分残っているので、9日(土)に出かけてきた。まだ台風13号の影響があちこちに残っていて、多少心配もあるが、記録的な豪雨で鉄道が止まっている千葉県や茨城県は避けて、山の方へ出かけようと思う。久しぶりに温泉でも行くか、ということで、草津温泉あたりを思い浮かべながら、小田急の始発で出かけ、上野5時43分発の電車で高崎に7時29分に着いた。

 このまま吾妻線草津へ行くのはルートが単純すぎるので、軽井沢を回っていくことにした。高崎では1分の接続でホームの向かい側から横川行きが出る。

 長野新幹線(現・北陸新幹線)が1997年10月1日に開業して、信越本線の横川~軽井沢間が廃線となって以来、高崎から信越本線に乗るのは初めてだ。信越本線は元は高崎から長野、直江津を経由して新潟へ通じる幹線で、信濃と越後を結ぶから信越線である。しかし、新幹線の開通で並行在来線第三セクター化されたり、一部廃線となったりで、信越本線はズタズタに分断されてしまい、高崎~横川間は名称は「信越本線」のままだが、全区間「信」でも「越」でもない群馬県内を走り、実態は「横川線」ないしは「安中線」とでも名乗るべきローカル線となっている。

 今にも降りだしそうな曇り空の下、高崎を発車した4両編成の211系電車は安中で地元の高校生の一群を降ろし、松井田を過ぎる頃にはほぼ旅行者風の客ばかりになって8時03分に横川に着いた。

 横川駅といえば、駅弁「峠の釜めし」で全国的に有名。信越本線群馬県の横川と長野県の軽井沢の間で碓氷峠越えがあり、最大66.7パーミルという普通の列車が登れないほどの急勾配であった。そのため、横川で列車の後部に強力な電気機関車EF63を2台連結して軽井沢まで列車を押し上げ、軽井沢からは機関車が列車の先頭で踏ん張りながら速度を抑えつつ坂を下ってくるということをすべての列車でやっていた。特急列車でも横川で機関車の連結、切り離しで数分の停車時間があったために、乗客がこぞって釜めしを買ったわけである。列車が動き出す時に釜めしの販売員がおじぎをして見送るのもおなじみの光景だった。

 そのように列車を走らせるのが大変な区間だったがゆえに採算が合わないとして横川~軽井沢間11.2キロは新幹線開業に伴い廃止されてしまった。釜めしは国道沿いのドライブイン上信越自動車道のサービスエリア、新幹線車内、全国各地の駅弁大会などで今も販売されている。横川駅にも釜めしの売店があるが、時間が早いせいか、無人だった。駅前店舗も閉まっている。


(次の駅「軽井沢」の文字は消えてしまった。海抜386.56m)

(軽井沢、長野、新潟へと通じていた線路も今はここで行き止まりになっている) 

 今はもう鉄道では先に進めないが、そのかわり、この区間にJRバスが運行されていて、次の軽井沢行きは8時10分発である(所要時間34分、運賃520円)。ここまで電車で来た人のほとんどはそれに乗るようだ。

 しかし、横川には横軽専用の電気機関車EF63のほか、さまざまな鉄道車両が保存された「碓氷峠鉄道文化むら」という鉄道ファン垂涎の施設があり、また、廃線跡もそのまま保存されているらしいので、ちょっとだけ見物して、次のバスに乗ろうと思う。次のバスは10時05分発。その次は11時05分発で、これは時刻表に「旧道、めがね橋経由」と書いてある。めがね橋とは横川~軽井沢間に残る古いレンガ積みのアーチ橋のことである。実は最近、父の古いアルバムにこのめがね橋を渡る列車の写真があるのを発見したので、ちょっと現地で実際に見てみたいとは思っている。めがね橋まで廃線跡を歩けるのなら、そこから旧道経由のバスに乗ってもいい。

 駅前から歩き出したら、雨がポツポツと降りだした。

 横川駅構内跡地に線路が残っていた。線路は鉄道文化むらへ通じている。

(ツバメのマークのバスが軽井沢駅行き)

 まだ朝早いので鉄道文化むらは開園しておらず、人の気配はまるでない。ただ、園内の車両は外から見ることができる。

 「峠のシャルパ」と呼ばれたEF63形電気機関車。常に2台ペアで活躍した。急勾配を登る列車は強力なパワーで押し上げ、軽井沢まで11.2キロ、標高差552.5メートルを所要時間17分。横川へ下る列車は急坂での暴走を防ぐために強力なブレーキで列車速度を抑えながら下り、24分ほど要した。特殊な装備をもつ横軽専用の機関車であったため、この区間の廃止とともに役目を終え、廃車となった。

 横軽ではEF63の機関士が電車の運転操作も総括制御で行ったため、機関車の軽井沢寄り(上写真)にはケーブル接続用の装置がたくさん付いているが、横川側(下写真)には付いていない。この区間、電車の運転士は前方注視と信号確認だけを行い、運転操作はすべて機関士に任せていた。当然、両者は常に交信しながら、機関車と電車の協調運転が行われた。従って、電車もEF63との協調運転に対応し、連結器の強化などの対策を施した形式のみがこの区間に乗り入れできた。

 貴重な車両が数多く展示された鉄道文化むらを横目に見ながら、「アプトの道」と名づけられた廃線跡を歩き出す。道の入口に終点の「旧熊ノ平駅」まで6キロ、115分とあった。

 そもそも東京と新潟を結ぶ信越線の横川~軽井沢間が開通したのは明治二十六(1893)年のこと。この時、2本のレールの間に歯のついたラックレールを設置し、機関車に取り付けた歯車と嚙み合わせて急勾配を登り下りするアプト式を採用して、当時の日本最急勾配となる66.7パーミルを克服した。しかし、当初は単線、非電化で蒸気機関車だったため、平均時速は9キロほどで、11.2キロに約75分を要していた。また、26ものトンネルがあり、蒸機の煙が乗務員や乗客を苦しめたため、明治四十五(1912)年には日本の幹線鉄道として逸早く電化され、電気機関車が投入され、所要時間は約40分と大幅に短縮された。

 さらなる輸送力増強をめざして、昭和三十八(1963)年にはアプト式ではない粘着式による新線が開通して、この時、EF63形電気機関車が登場。複線化された横川~軽井沢間の所要時間はさらに約半分に短縮されたのだった。

 粘着式というと、何か線路に粘りつくようなものを利用するみたいだが、鉄のレールに回転する鉄の車輪を接触させて、その摩擦によって空転せずに前へ進むことを指して「粘着」というのである。要するに普通の線路である。

 ということで、「アプトの道」というのはアプト式時代の旧線の跡が遊歩道になっているようだ。

 雨はやんだ。コスモスが咲き、エンマコオロギなどの声がして、しっとりとした秋らしい空気感。暑くはない。

 こんなものも見つけると、つい写真を撮ってしまう。

 左側に現役当時のままの線路が残り、並行する上り線の跡がレールを残したまま遊歩道となっている。軽井沢へ向けて坂を登るほうが「下り線」で、坂を下ってくる方が東京方面なので「上り線」であるところがややこしい。とにかく、上り線跡をいく。最初からけっこうな急勾配だ。66.7パーミルというのは鉄道では超急勾配だが、自動車にとっては普通の坂道だ。登山道路としては勾配を緩く抑えて造られた山梨県富士スバルラインの平均勾配が5パーセント(50パーミル)、最高が8パーセントである。

 ところで、僕もこの線路を列車が走っていた時、何度も通ったことがある。1975年3月に家族旅行で長野からの上野行き特急「あさま」で通ったのが最初だった。最後に通ったのは廃線の1年前、1996年夏に直江津から夜行急行「能登」に乗った時のことだったが、夜中で眠っていたので、知らずに通り過ぎてしまった。その前は1993年5月の信州旅行の際に軽井沢から下ってきた。列車はいま歩いている線路跡を走っていたわけだが、車窓から隣の線路の上にちょこんと座っている子ザルが見えたのを覚えている。

 いずれにしても、この碓氷峠越えは信州旅行の最初と最後の通過儀礼のようなもので、この「儀式」があることで旅先としての信州・長野県の特別感が増していたように思う。関東の人間としては碓氷峠を越えていよいよここから信州だ、という気分になったのである。現在は新幹線が勾配を緩和するために大回りをして長大なトンネルと最大30パーミルの勾配で軽井沢に達している。日常的な利用者にとっては速くて便利な方がよいに決まっているが、非日常的な旅で信州方面に出かける者にとっては、かなり味気ない。

 信越本線の起点、高崎から30キロ地点。

 この区間の鉄道施設は国の重要文化財に指定されており、往時のまま保存されている。また、隣の線路は実は今も現役で、途中まで観光用トロッコ列車が運転されている。66.7パーミルの勾配が始まる手前までの運行らしいけれど。

 横川方面を振り返る。僕以外に誰も歩いていない。このあたりならクマが出てもおかしくないし、そう考えるとちょっと不安にもなる。

 静かな道で、聞こえてくるのは虫の声と野鳥の声ばかり。虫はコオロギやカンタン。セミはもう少なくて、ツクツクボウシの声を何度か聞いただけ。野鳥はシジュウカラヤマガラコゲラアオゲラなど。

 スタートして25分ほどでレンガ造りの建物が見えてきた。

 丸山変電所跡。明治45年の電化時に建設されたもので、これも重要文化財である。

 2棟の建物は手前が機械室で、奥の建物が蓄電池室だという。機械室では発電所から送られる電気を交流から直流に変えて、線路を走る機関車と蓄電池に送電し、蓄電池室には急勾配にかかる機関車に必要な電力を補うため、312個の蓄電池が並んでいたという。説明板には「充電中は室内に水素と有害物質の硫酸雲霧が大量発生するため、窓・引き戸などは通風に適するよう工夫されていました」と書いてある。有害物質を屋外に放出していたということか。

 1963年の新線開通とともに役目を終え、一時はかなり荒れ果てていたはずだが、1994年に国の重要文化財に指定され、2000年に復元工事がなされている。

 この旧丸山変電所前にはトロッコ列車の「まるやま駅」がある。

 変電所跡を過ぎて、さらに歩き続ける。旧線はこの付近からアプト区間だったらしい。

 鉄橋を渡る。霧積川橋梁。高崎起点31.255キロ地点である。

 それにしても、本当に人間に会わない。横川を出てから、まったく人の気配がない。動物たちがこちらを見ている。

 まもなく線路跡が草むらの中に消えていた。

 ここで遊歩道は線路跡をはずれ、下り線の下をくぐる。そこに何やら建物があって、どうやら温泉施設らしいのだが、ここも人がいるのかどうか。ひっそりとしている。

 左へ分岐した線路の先にトロッコの終点「とうげのゆ駅」がある。

 横川駅から2.9キロ、旧丸山変電所から1.2キロ地点。ここから0.9キロ先に碓氷湖、1.9キロ先にめがね橋があるようだ。

 ここから遊歩道は線路から離れて続く。横川からここまではアプト式の旧線と新線のルートは重なっていたが、ここから別々のルートになるようだ。「アプトの道」は新線のレールを右に見送り、1963年に廃止され、もはやレールも残っていない旧線跡をたどっていく。

 最初は横川からちょっとだけ歩いてみるつもりだったが、ここまで来たら、最後まで歩くしかあるまい。

 

 つづく