嘉陵紀行「阿佐谷村神明宮道の記」を辿る

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)の江戸近郊散策記の道筋を辿るシリーズ。久しぶりの今回は杉並区阿佐ヶ谷である。昔の多摩郡阿佐ヶ谷村。40年前まで母方の祖父母が住んでいたので、馴染みの町でもある。

 嘉陵は文政九年十月四日(1826年11月3日)に阿佐ヶ谷村の神明宮に参詣すべく江戸の三番町の家から出かけている。この時、数えの六十七歳。なお、この日の記録は現代語訳版『江戸近郊道しるべ』には収録されていない。

 江戸の町をあとに内藤新宿から青梅街道への道筋は嘉陵にとっては堀ノ内の妙法寺大宮八幡宮参詣などでたびたび通っている馴染みの道で、文章は青梅街道から妙法寺参詣道が分かれる鍋屋横丁付近から始まっている。ということで、今回は東京メトロ丸の内線の新中野駅からスタートする。

「堀の内村妙法寺へ行べき道の所より、二丁ばかりも青梅の方へ街道をゆけば、道の右に石の傍示たてり、石神井村弁天道、谷原村東高野山道と刻む」

(中野追分)

 「妙法寺へ行くべき道の所」が鍋屋横丁の交差点だとすると、そこから2丁(1丁は約109m)では計算が合わないのだが、すぐに右(北西)に分かれる道があり、ここが昔の中野追分。所沢道などと呼ばれたらしい。ただ、道標は見当たらない。調べてみると、鍋屋横丁交差点の東側にある慈眼寺境内に馬頭観音像があり、台座に「左あふめ(青梅)道、右いくさ(井草)道」と彫られているという。もとは中野追分にあって、文化十三(1816)年に建立されたものなので、嘉陵が歩いた時には存在していたはずだが、これとは別の道標もあったのかどうかは分からない。

 銀杏並木の青梅街道をさらに行くと、街道に面して西町天神・北野神社があるが、創建年代は不詳で、嘉陵はこの神社には触れていない。そこを過ぎると、中野区中央(旧中野村)から杉並区高円寺南(旧高円寺村)に入る。

 やがて左手に杉並区立蚕糸の森公園が見えてくる。1911年に開設された農商務省原蚕種製造所を始まりとする蚕糸試験場の跡地だが、嘉陵が歩いた頃はまだ田畑が広がるばかりだったのだろう。

「猶其さき少しばかりゆけば、又石の傍示あり、阿佐谷神明道とゑり付、そこより右に曲りて、道の左右楢の木たてる中を、行事しばらくにして、打ひらけたる田ある所に出(この間に民戸一二戸あり)」

 蚕糸の森公園の正門の向かい側の交番前で青梅街道から右に分かれるのが嘉陵のいう「阿佐谷神明道」だが、道標は見当たらない。

(「阿佐谷神明道」入口。向こうには環七の高円寺陸橋が見える)

 ここで青梅街道と分かれて「神明道」を行く。昔はナラの木が並んでいたというが、今は緑は乏しく、すぐに環状七号線に行く手を阻まれる。環七に面した一角に庚申塔など民間信仰の遺物が集められている。

 近隣にあったものを道路整備に際して一カ所に集めたのだろう。2基の庚申塔は元禄七(1694)年、正徳三(1713)年の造立。ほかに寛文十(1670)年と享保六(1721)年の阿弥陀如来像などがある。いずれも嘉陵が生まれる前からあるものだ。

 すぐ南側の青梅街道で環七を横断し、「神明道」の続きを行く。いかにも古道らしく、ゆるやかに曲がりくねった道である。台地上の平坦な道だが、北側は土地が低くなっている。神田川の支流・桃園川の谷である。

 往時は道の周囲にクヌギやコナラの林や畑が広がり、坂を下ると田んぼがあり、桃園川に注ぐ小さな流れを渡ったようだ。

 現在はこのあたりは寺町のようになっていて、道の北側に長龍寺、宗泰院、松応寺、西照寺と並んでいるが、いずれも曹洞宗で、明治以降に東京の中心部から移ってきた寺である。

 昔はただのどかなだけの道だったようで、嘉陵は秋の風情を感じつつ、歩みを進める。

「又そこを過て、楢、くの木の中道を行ゆけば、又田あり、左右のながめ前におなじ、猶行ば、左右荻、すすき生たる中に、はぢの紅葉、折しるいろをあらそひ、野菊、竜胆など道もせにさくをみる」

 今は高円寺の隣は阿佐ヶ谷であるが、昔は間に馬橋村がはさまっていた。大雑把に言って、現在の高円寺の西部と阿佐ヶ谷の東部、さらに青梅街道南側の梅里の一部が旧馬橋村の村域だった。杉並区馬橋という地名は昭和四十年の住居表示実施で消えたが、今も小学校名や公園名などに残されている。

 馬橋稲荷神社の案内標識が現れた。脇に「この道は鎌倉みちです」と書いてある。

 坂を下ると、弁天湯という銭湯がある。近くに弁天池があったので、それに由来するのだろう。

 このあたりには桃園川に注ぐ細流が南西から北東へと流れており、谷戸の地形になっている。「打ひらけたる田ある所」というのは、このあたりだろう。ただ、当時は水量は少なく、馬橋や高円寺、中野の各村は水不足に悩んでいたようである。その後、天保の大飢饉1840年頃)をきっかけに三つの村は水不足を解消すべく、水量の多い善福寺川から水路を引く計画が立てられ、青梅街道の通る尾根筋など2カ所のトンネル水路を掘る難工事の末にこの谷戸に水を引き入れ、「新堀用水」と呼ばれた水路が馬橋から高円寺、中野の水田を潤すことになったのだった。この付近では用水は二筋に分かれ、道は二つの橋を続けて渡っていたようだが、嘉陵が歩いた当時のことは分からない。用水は今はすべて暗渠になっている。

 新堀用水跡。

 用水跡を過ぎて、再び上りとなり、すぐに左側に馬橋庚申堂がある(高円寺南3-27-1)。

 庚申塔は2基あり、いずれも馬橋村の人々が建立したもの。右の青面金剛像のほうは享保元(1716)年、左の「奉供養為庚申講二世安楽」の文字と三猿を刻んだものは延宝元(1673)年のものだから、かなり古い。

 道の向かい側には小さな石柱があり、「此地者約三百年前庚申奉祭之遺跡也」と刻まれている。昭和四十八年建立。昔はここに庚申塚があり、その後、現在地に移されたのだろう。いずれにしても、嘉陵が歩いた時にもここに庚申塔はあったはずである。

 さらに進むと、「杉並六小前」の交差点で馬橋通りを横切り、ここから阿佐谷南に入る。母の実家はこの近所にあった。ちょっと寄ってみたが、すっかり変わってしまっていた。

 さて、杉並第六小学校の北側を通り、少し行くと、馬橋稲荷神社の案内に従って、右へ折れる。

「道の東の木立のおくに、小社あり、行て拝す、鳥居はあれど、それにも社頭にも、神の御名かかげたる額などもなければ、何の神ともしられず、されど社のうちに狐の絵かきたる額あるを見れば、いなりの社にや、ここに大なる松三もとばかりあり、参る人もなければ、楢の葉にその実さへ落て、あまたあるをひろひもて、いとけなきもののつととす」

 すぐに右手に神社がある。参道の奥に赤い社殿が見える。ここは子どもの頃、祖母に連れられてお参りした記憶がある。正月だったか、お祭りだったか、賑わっていたのを覚えている。嘉陵が訪れた時は小さな社であったようだが、今はかなり立派な神社で、言うまでもなく、これが旧馬橋村の鎮守、馬橋稲荷神社である。

(「道の東の木立のおく」という記述のままの長い参道)

 創建年代は不詳ながら鎌倉末期の創建との伝承があり、江戸初期にこの地にあったことは確かなようだ。馬橋稲荷という名称は昭和四十年の住居表示で、馬橋という町名が消えるのを惜しみ、神社名に名を残すことにしたそうで、それ以前は「正一位足穂(たるほ)稲荷大明神」と称していたという。この御神号は天保二(1831)年、拝殿改築に際して氏子53名が拠金して京都白川神祇伯家御役所に上申して、翌年拝受したということなので、嘉陵が訪れた時はその名前でもなかったことになる。嘉陵の言う通り、名前も分からないような小さな社だったのかもしれない。

 参道にある石造りの二の鳥居は昭和七年に杉並が東京市編入されたことを記念して建立されたもので、昇り龍・降り龍の彫刻が施され、東京三鳥居のひとつとされているとのこと。

 また参道の脇には水路があり、メダカが泳いでいるが、これは神社の近くを流れていた桃園川が都市化とともに暗渠化されてしまったことから、失われてしまった流れに思いを馳せて造られたものだという。

 嘉陵が参拝したころは清らかな水が流れ、あたりには水田が広がっていたことだろう。

 嘉陵は境内でドングリを拾い、幼い子(孫か)の土産にしたようだ。

 稲荷神社をあとにさらに進む。川跡らしい細道を横切る。

 まもなく、前方に中央線の高架が見えてきた。阿佐ヶ谷駅の東側である。そこから道は下り坂になる。

「ゆき行程に、又田あり、向ひに見ゆる木立の蔭に、かやふける長や門、のきばたかく作りなしたる家あり、その家の前の木のもとに、稲の穂をこきなどして、老たる女のありつるに、この屋にすむ人は何といふぞと門ば、相沢喜兵衛といひて、村の名主を勤むるよしを答ふ、門のうち見入れは庭ひろく、出居、馬や、白土ぬりたる蔵など、つきづきしく作りなして、いとものどやかにみゆ」

 高架下で急に下った先が田んぼだったのだろう。阿佐ヶ谷駅周辺は昔は低湿地だったことが分かる。駅の近くに大正時代から続く釣り堀があるのも、そうした地形と関係があるのだろう。

 中央線を挟んで町名は阿佐谷北となる。そして、ケヤキなどの巨木に覆われた広い敷地が阿佐ヶ谷村の名主だった相澤家の土地である。

 古い屋敷は戦災で焼失し、屋敷林の巨木も大半が焼失してしまったというが、今も立派なケヤキが残っている。ただ、広大な敷地はフェンスで囲まれ、何やら工事が行われているようだった。

「神明宮はいづかたぞと問ば、この屋の垣にそひて、うしろのかたに行ば、鳥居たてるぞ、神明宮にてましますとおしゆ」

 その通りに敷地に沿って行くと、正面に鳥居が見えてきて、それが阿佐谷神明宮である。

 『江戸名所図会』によると、日本武尊が東征の帰途に休息した場所に尊の武功を慕う村人たちが社を建てたのが始まりだと伝わり、また、建久元(1190)年頃に土豪横井兵部(正しくは横川兵部か)が伊勢神宮に参拝した際、神のお告げにより宮川の霊石を持ち帰り、神明宮に奉安したともいい、この霊石は今も御神体として祀られている。この 霊石は縄文時代の石棒だとの説もあるようだ。

 旧社地は現在、「お伊勢の森」と呼ばれる阿佐谷北五丁目にあったが、江戸中期に祇海という僧が現在地に移したという。

 神明宮は明治以降は「天祖神社」と呼ばれたが、平成二(1990)年に社号を「神明宮」に戻し、平成二十一(2009)年に「平成の大改修」を終えて、境内もすべてが刷新されたようだ。

「鳥居の左右杉の植なみたるも、まだ若木なれば、木の間まばらにて、蔭くらき迄にはなし」

 嘉陵が参詣した時も木々は若く、鬱蒼とした印象はなかったというが、これは現在地に遷座して、まだ年月を経ていなかったからだろうか。

「鳥居のかたはらに、石を建て、橋二十三ヶ所造かへたるよしの供養にすなると、おもてに彫、かたはらに宝暦九年卯十月相沢又四郎、村主清左衛門など、四人斗の名をも刻む、社はかやもてふき、なべて板の羽目にす、社のうしろの西の隅に、けやき二本、根は一つ所に寄たるがあり、また東の隅には、猶大なる杉一本立、かこみ三かかへ斗もありぬべし」

 ご神木の「夫婦けやき」。

 寄り添って生える二本のケヤキが長い年月の間にしっかりと一つに結ばれたのだという。嘉陵が書いた「けやき二本」はこれのことか。

 さて、神明宮の隣には世尊院がある。

社の西に、小道あり、向にかやふける門あり、棟高く折廻して造れるあつがやの家もあり、是も前の相沢が宅に似たれば、主の名を問に、寺也けり、実相院といふよし答府、当所は山王権現神領のよし、畑うつおのこいへり」

 嘉陵は寺の名を実相院と書いているが、この付近にそのような名前の寺があったという記録は見当たらないので、聞き間違いか記憶違いだろう。この土地を所領とした山王権現とは江戸の日枝神社か。

 世尊院は真言宗豊山派の寺院で、正覚寺とも号するが、現在は中野の青梅街道沿いにある宝仙寺がかつて阿佐ヶ谷村にあった頃の子院の一つと言われている。創建は宝仙寺が中野に移転した永享元(1429)年頃と伝わり、神明宮の別当寺でもあった。

 中杉通りを挟んだ向かい側の墓地に嘉陵が書き残した石橋供養塔があった。

 正面には薬師如来の座像が彫られ、「奉掛石橋廿三ヶ處供養成就所」の文字が刻まれ、右側面には「武州多摩郡阿佐ヶ谷村惣講中」「願主 相沢又四郎母 村主清左衛門」、左側面には「宝暦九己卯星十月吉祥日」「願主 横川武兵衛母 横川七郎左衛門母」とある。

 

「ここに至るに、田ある所を三たび過、そのあひだあひだは、はた或は木だちのみにて、させるながめなしといへども、繁華に遠き境なれば、おのれが如き山林閑寂をあまなひ、淡白をほりするものは、たのしからざるにあらず、のちのおもひ出に、あらまし書つけ置ものならし」

 明治13年の地図に加筆