嘉陵紀行「羽沢氷川・渋谷八幡・伊勢野 道の枝折」を辿る(後編)

 江戸の侍・村尾嘉陵が渋谷付近の寺社を訪ねて歩いた道筋を実際に徒歩で辿る話の続き。

peepooblue.hatenablog.com

 嘉陵は渋谷最古といわれる氷川神社に参拝した後、別当寺の宝泉寺へも立ち寄っている。

 (氷川神社の)大門の東、林をへだてて薬師堂、其こなたに坊あり、寂寞として一人の来るを見ず。

 氷川神社に今も隣接する宝泉寺は正式には慧日山薬王院宝泉寺といい、天台宗の寺院である。寺伝によれば、慈覚大師円仁が氷川神社を参詣した際に創建したというが、確かなことは分からない。江戸時代には門前に薬師堂があり、源義朝の愛妾・常盤御前の守護仏とされる薬師如来(常盤薬師)が奉安されていた。常盤の守護仏というのが本当かどうか分からないが、そういうことで信仰を集めていたのだろう。現在は薬師堂はなく、本堂に安置されているようだ。

 嘉陵が訪れた時は誰もおらず寂寞としていたというが、僕が訪れた時も同じだった。ただ、寺の外に出れば、そこは渋谷の町はずれなので、人は多い。当時は周辺には田畑が広がっていた。下の切絵図では「畑」となっているが、門前はもう渋谷川(画面左端)の低地なので、水田もあったと思われる。当時の渋谷は田舎だったのだ。

 もとの道をもどり、石の鳥居を出て、はたの細道を乾(北西)に向てゆく。はたの西は松平備前守どののやしき也と云。其垣にそひて木の下道をたどりゆけば、渋谷八幡宮の少しこなたなる町屋の前に出たり。


(「東都青山絵図」)

 氷川神社の脇参道から北に出て、通りを渡って直進する。現在は渋谷(金王)八幡宮までまっすぐに通じているが、当時の道は渋谷区立常盤松小学校、実践女子学園の敷地に沿う折れ曲がった道しかなかった。これらの学校の敷地は当時は畑だったが、反対側は上の切絵図では松平美濃守の下屋敷だった。松平と称しているが、筑前福岡藩主・黒田家で、この図が作成された幕末の嘉永年間の時点では十一代藩主、黒田斉溥(なりひろ。のち長溥)で美濃守だったが、嘉陵が歩いた時は先代の斉清で、備前守だった。

 やがて、突き当りが今の八幡通り。昔の鎌倉街道だという。右に行くと六本木通りを越え、青山学院の西側を通り、青山通りにぶつかったところで、その先は消えているが、昔は原宿村を通り、勢揃坂から千駄ヶ谷方面へ抜けていた。一方、左へ行くと、坂を下って、渋谷八幡宮金王八幡宮)の前に出る。その先は並木橋を渡って、目黒、世田谷方面である。

 八幡宮に参る。松の木立ものふりたる姿、前の氷川の社とおなじ。年暦にやと思はる。境内ながめなし。

(『江戸名所より「金王八幡社」)

 往時、八幡宮の前には町屋があり、参道を行くと、小さな谷(黒鍬谷)があって小川が流れ、橋を渡ると石段を上り、境内に入ると、正面に社殿。その右隣に別当東福寺が並んでいた。今も谷の地形は残っているが、流れは失われ、橋もない。また、東福寺は今も八幡宮の隣にあるが、明治以降の神仏分離で、関係が断たれ、敷地は別々になっている。

 そもそも渋谷八幡宮は社伝によれば、平安時代に遡る古社である。桓武平氏のうち秩父氏の流れをくむ武蔵の豪族・河崎土佐守基家が後三年の役(1083‐87)において源義家の軍勢に加わり、その軍功により渋谷を含む谷盛庄を賜り、寛治六(1092)年に八幡神を勧請したのが、渋谷八幡宮の創建と伝えられている。河崎氏は相模国高座郡渋谷庄(小田急江ノ島線高座渋谷駅あり)にも領地を得て、渋谷氏と名乗るようになり、その一族が谷盛庄にも居館を構えたので、渋谷の地名が生まれ、八幡宮は渋谷八幡宮と称したという(渋谷の地名の由来には諸説あり)。

 平安末期の永治元(1141)年、この渋谷の地で生まれた渋谷金王丸源義朝源頼朝の父)に従い、17歳で保元の乱(1156年)に出陣して活躍し、続く平治の乱(1159年)で敗れた義朝が東国へ敗走中に尾張長田忠致に謀殺されると、金王丸は出家して、義朝の霊を弔ったという。この金王丸の名声に因んで渋谷八幡宮金王八幡宮と呼ばれるようになった。神社では、源頼朝に命じられて源義経の館に討ち入り、逆に斬られた土佐坊昌俊を金王丸の出家後の名前であるとして同一視しているが、同一人物であるという証拠はないようだ。

 現在の社殿は三代将軍・徳川家光の乳母・春日局と守役の青山忠俊が寄進したもの。二代将軍・徳川秀忠が嫡子の竹千代(後の家光)よりも弟の国松を寵愛し、国松が次の将軍になるのではないかとの風聞が流れたため、春日局と忠俊が八幡宮に祈願し、願いが叶って家光が将軍に就任した際に神様への御礼として新たな社殿を造営したものと伝わる。この社殿はその後も修理を重ねているものの、江戸初期の建築様式を留める渋谷区最古の建築として区の有形文化財に指定されている。

 また、社殿脇には一枝に一重八重の花がまじって咲く珍しい「金王桜」(渋谷区天然記念物)があり、江戸時代から名木として知られていた。これは長州緋桜という種類で、源頼朝が父・義朝に仕えた金王丸の忠節を偲び、鎌倉亀ヶ谷の屋敷から移植させたものと伝えられ、現在の桜は実生により代を重ねてきたものである。この桜について、嘉陵は金王丸が自ら植えたという伝承を記しているが、確かなことは分からない。ただ、訪れた時は想像に反して、まだ植えたばかりの若木だったようだ。

 今日、境内に尋もとむるに、それと覚しきは見へず、社の前鐘楼のかたはらに、さくら一もとあり、こは近比うえしとみへて、木のもとに、例の徘徊の徒の句彫りたる石を建て、何やらんかんな文字してかいつけたるも、たしかならぬは、しらぬのちの世をあやまる、よしなきわざと思はる。

 鐘楼は隣の東福寺境内にあり、金王桜は今も八幡宮の社殿の傍らにあるが、さほどの古木には見えないので、嘉陵の見た桜からさらに世代交代したものだろう。

 「例の俳諧の徒の句彫たる石」とあるが、松尾芭蕉(1644-94)の句碑である。これは今も桜のたもとにある。

 しばらくは花のうえなる月夜かな

 文化十四(1817)年建立なので、嘉陵が訪れる5年前だ。「例の俳諧の徒」という書き方からすると、現代の我々にとっての芭蕉像とは少し捉え方が違うようにも感じられる。

 嘉陵の見た金王桜は花見客の中にいた枝を折って持ち去る「心なき者ども」のせいで、「見るかいもなきさましたるは、いとわびし」という状態であったらしい。

 さて、境内には金王丸御影堂があり、金王丸が出陣の際に自分の姿を刻み、母に形見として遺したという木像が安置されている。

 ここに金王丸の像あり、鉄衣に双刀を帯したり、平治元年十二月、渋谷冠者常光と号す、保元の乱後遁世す、死生しらずと云伝とぞ。

 

 嘉陵は金王八幡宮をあとに門前の茶屋で休憩し、法如庵へ向かう。

 八幡宮の前の茶屋にやすらひ、伊勢野といふは何方ぞととへば、ここの路の東側に少しのぼる所、垣の内に木立あり、其木のもとにちいさき祠あるが伊勢大神宮にて、ふるくよりここに祝ひ奉るゆへ、そこを伊勢野とよぶ、法如庵は大神宮のただにうしろ也とあるじの女いふ。

 

 上の切絵図で氷川神社から八幡宮へ向かう途中に「神明宮」と書かれ、赤く塗られた場所が伊勢大神宮である。嘉陵はその前を通ってきたのに気づかなかったほど、ささやかな存在だったのだろう。嘉陵は「伊勢野」と書いているが、この付近には「伊勢山」という地名があったようだ。記憶違いかもしれない。

 

 ここから原文だとちょっと分かりにくいので、阿部孝嗣氏による現代語訳。

(茶屋の女主人の)言葉にしたがって行ってみると、初めに羽沢からここに来る時に通った畑の細道を、黒田殿の屋敷に沿って通り過ぎた所の、狐兎の道のはずれにある、ちょっと見つけにくい小祠がこの大神宮であった。祠は五、六尺四方ぐらいの茅葺きで、雨が漏ってきそうな建物で、丸木の鳥居も形だけのものである。

 大神宮というわりには、1.5~1.8メートル四方の小さな祠で、簡素というより粗末ともいえる社であったようだ。

 いったん祠の前に戻って、それから祠の後ろにある、白土をきらきらと塗り込めてある所に沿って木の陰を北の方に回って行くと、法如庵の門の中に出た。

 法如庵は本郷にある圓満寺(真言宗、文京区湯島1丁目)の隠居所で、嘉陵はここからの眺めが素晴らしいという話を聞いて、ぜひ訪ねてみようとやってきたのである。ようやく目的地に辿り着いたわけだ。 

 庵は、広くはないがきれいに手入れして住んでいる。庭から前は畑が見下ろせ、遥か向こうには羽沢の氷川の松林も見える。またその手前には内藤紀伊守殿の屋敷の杜をも望むことができる。屋敷の様子、庭の造りなどから、庭師の住居とも見受けられる。門は北向きで、畑を隔てて四、五丁ほどの所に松平左京大夫殿の屋敷のはずれが見渡せる。都の喧騒と田舎の閑寂さとの境であるが、たいした眺望はない。祈祷を頼んでいない者が、いたずらに孔雀明王を拝することはできないという。

 孔雀明王は拝観させてもらえなかった上に、法如庵からの野の見晴らしが素晴らしいと聞いて訪れたのに、期待したような眺めではなかったようだ。嘉陵は広々とした田園風景の彼方に遠く山並みが望めるような風景を想像していたのだろう。

 ここを伊勢野と呼ぶようになったのは古いことであるが、この庵はその頃からここにあったものとは思われない。にもかかわらず、畏れ多くも皇太神宮の宮居を自分の住坊の一部ででもあるかのようにして、その東南を覆い隠し、勝手に住みなしていることはどうかと思う。神は万人のためにあるものである。

 期待外れで面白くない気分の嘉陵は最後に歌を三首詠んでいる。

 おひしげるあらぬくさをも其ままに伊勢ののはらの神はへだてず

 道のべの一むらすすきかりそめにいつより神の宮居せるらん

 たづねきて神のいかきはいづこぞと問ばこたふる萩の夕風

 

 ちなみに法如庵は現存せず、神明宮の旧所在地は実践女子学園の校地の一部となっている。氷川神社の祭神に天照大神が列しているので、合祀されたものと思われる。

 また法如庵と神明宮のあった豊島郡下渋谷村伊勢山は現在は渋谷区東一丁目という味気ない地名に変わっている。