嘉陵紀行「千束の道しるべ」を辿る(その1)

 江戸の侍・村尾嘉陵の紀行『江戸近郊道しるべ』を手にその足跡を辿るシリーズの第三弾。今回は「千束の道しるべ」である。大田区の洗足池まで行くので、けっこうな距離がある。

 文政十一年文月二日1828年8月12日)、六十九歳の嘉陵は中延村の八幡宮に参拝すべく、朝9時頃、三番町の家を出立。本来なら暑い盛りのはずだが、数日来、雨風が強く(台風か?)、この日は朝から晴れたものの、まだ風があるので、日中も涼しいだろうということで、出かけることに決めたようだ。雲の動きがはやく、天気に不安もあったようだが、自ら占って「天火同人の四爻」であることから雨の心配なしとの結論を得て、家を出ている。

「平川天神の前より虎の門を出、金比羅権現の前を過、西の窪より赤羽橋に至り、聖坂を登り、白銀台の町を行、二本榎より西に横折、猿町の坂を下りに雉子の宮を拝し奉る、この社は岡の上に西に向て立せ給ふ、何の神を斎き祭り奉るやしらず」

 

 地下鉄半蔵門線九段下駅から清水門~日本武道館~田安門~嘉陵の旧居跡と巡った後、「三番町のやどり」(千代田区九段南三丁目七番地)を嘉陵より1時間遅れの10時頃にスタート。

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 靖国通りから大妻通りに入って、これを南下。麹町を過ぎ、平河町に入ると、まもなく右手に平河天満宮がある。

 さらに南下して青山通りを渡ると、永田町で、国会議事堂などがあり、警察官が多く、物々しい雰囲気なので、いったんお濠端に出て、桜田門まで行き、ここから桜田通りに入る。国道1号線である。

 霞ヶ関の官庁街を抜けると、外堀通りと交わる虎ノ門の交差点。その一本北側の道が千代田区と港区の境界となっているので、そこに外濠があり、虎ノ門があったようだ。
今は門も濠も存在せず、交差点に虎ノ門の碑があるばかりである。

 虎ノ門交差点を過ぎて、さらに桜田通りを南下する。すぐ右手に金刀比羅宮がある。

 当時、ここには讃岐丸亀藩主・京極家の屋敷があり、その邸内に讃岐の金刀比羅神を勧請して祀っていた。それが文化年間(1804-18)の末頃から一般の参拝が許され、当時、参詣者で大変な賑わいだったという。

 その金刀比羅宮を過ぎ、さらに南下。当時、江戸の最高地点だった愛宕山(標高26m)を左に見て、嘉陵の文章では次に「西の窪」が出てくる。愛宕山の丘陵の西側の窪地が西久保(西窪)で、今の日比谷線神谷町駅付近である。山裾には今でも寺院が並んでいるが、街道沿いには町屋が成立していたようだ。虎ノ門五丁目の西久保八幡神社にその名が残っている。境内からは縄文時代貝塚が発見されており、当時はこのあたりまで海が入り込んでいたことが分かる。

(西久保八幡。桜田通りの西も東も丘になっていて、道はその間の低地を行く)

 左に東京タワーを見上げながら行くと、まもなく赤羽橋で古川(渋谷川下流)を渡る。頭上は首都高である。この古川の一帯も縄文海進の時代には海面下だったのだろう。

 赤羽橋を過ぎ、左は芝、右は三田となる。やがて右に春日神社、そして慶應義塾大学があり、慶大を過ぎると桜田通りは右折する。しかし、これは新しい道で、古道は一つ先の角を右折し、その先の分岐を左へ行き、聖坂を登る。

 坂名の由来は「古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある」とのこと。とにかく、嘉陵の時代から聖坂と呼ばれていたことは確かである。

 ここから三田、高輪と台地の尾根筋を行く。聖坂の説明にあった通り、古代中世からの道で、江戸時代に海岸沿いに東海道が整備される以前の東海道だという。

 聖坂の途中、右手に亀塚稲荷神社があり(三田4-14)、境内に鎌倉期~南北朝期の弥陀種子板碑(五基あるうちの二基は摩耗が激しく年代不明)が保存されており、この道の古さを物語っている。

秩父青石と呼ばれる緑泥片岩に刻まれた板碑。三基は1266年、1313年、1361年のもの。港区指定文化財
 
 まもなく、左手に亀塚公園。園内に亀塚がある。古来、古墳と考えられてきたが、古墳である証拠は見つかっていないという。亀塚神社は元はこの亀塚の頂部にあった亀の姿の霊石を祀ったものという。

 歩いていると、この道沿いには寺院が多いことに気づく。その門前には町屋が形成され、また大名屋敷も多かったようだ。

 伊皿子の交差点を過ぎると、高輪に入る。高台にあるまっすぐな道を意味する高縄手に由来する地名で、古くは高縄とも書いた。いま歩いているのが、まさに高縄手で、昔は東に海を望む道でもあった。

 大永四(1524)年に当時、江戸城を守っていた上杉朝興と小田原から進攻してきた北条氏綱の軍勢が激突した高縄原の合戦の舞台が、このあたりで、ここが戦場になったのは、ここが小田原と江戸を結ぶ街道上に位置していたからでもあるのだろう。敗れた上杉軍は江戸城に撤退するが、そこも支えきれず、河越城まで敗走し、江戸城は北条氏が掌中に収めている。

 さて、嘉陵が「白銀台(白金台)の町」と書く道を行く。右手に昨年まで上皇上皇后両陛下が仮御所としてお住まいだった高輪皇族邸(旧高松宮邸)があり、その先には「大石良雄等自刃ノ跡」の碑が立っている。赤穂浪士四十七士のうち、大石内蔵助(良雄)ら16名が元禄十六(1703)年二月四日、この付近にあった肥後熊本藩下屋敷切腹している。彼らが埋葬された泉岳寺はこの台地のすぐ東側である。

 さらに行くと、承教寺(日蓮宗)の入口に「二本榎の碑」がある。

 高輪二本榎町会の説明板によると、江戸時代、高縄手に榎の大木が二本あり、旅人のよき目標となっていて、そこから「二本榎」の地名が生まれた。榎が枯れた後も地名だけは残った。戦後、地番変更で高輪何丁目などと町名が変わっても、「二本榎」の名前をいつまでも忘れないように町内の黄梅院の境内に昭和四十二年に夫婦の榎を植樹し、石碑を建てた。石碑は平成二年に現在地に移されたが、榎の木は黄梅院で今も大切に育てられているとのこと。

 ということで、実際に斜向かいにある黄梅院に行ってみたが、榎らしい木は見当たらない。しかし、裏手の谷にある墓地の垣根で仕切られた別の寺(正満寺)の墓地に榎の大木が二本並んで生えていた。

 二本榎の中心といえる「高輪警察署前」交差点の角に高輪消防署二本榎出張所の建物がある。昭和八年の建築で、地上三階建て。さらにその上に灯台を思わせる円筒形の望楼があり、火の見櫓の役目を果たしていた。建設当時は周辺に高い建物がなかったため、眼下に東京湾を望むことができたという。東京都の歴史的建造物に選定されている。嘉陵とは関係ないが、ここに来たら見逃せない建物だ。

 嘉陵は二本榎で西に折れたと書いているが、右折地点はもう少し先。

 左に慶長年間の1596年に高野山の江戸在番所として創建された高野山東京別院を見て、高輪三丁目(9番地と10番地の間)で右折する。古代~中世の東海道はここを直進し、御殿山を経て大井町方面へ通じていたようだ。

 二本榎通りから西へ行くと、すぐに桜田通りと再び出合い、そこに都営浅草線高輪台駅がある。このあたりが嘉陵の書く「猿町」で、白金猿町といった。

 古くは白金村のうちの増上寺領であったが、夕方になると辻切りや追剥ぎが出て、人の往来が途絶えたので、住民が慶安四(1651)年に「商人町屋にしたい」と願い出て、許可されたという。町名の由来は、台地の南端に位置し、白金台町を「去る」という意味で「去り町」と俗称されたのが「猿町」となったという説や町内の了真寺に祀られた帝釈天庚申信仰と結びつき、「申」から「猿町」になったという説などがある。白金猿町という町名は昭和四十四年まで存続したが、住居表示の実施で、高輪や白金台などの一部に組み込まれ、今は町会の名称や白金児童遊園の通称(猿町公園)に名を残すだけである。

 とにかく、嘉陵が歩いた頃にはすでに町として栄えていたようだ。

 まもなく港区から品川区東五反田に入る。昔の下大崎村である。ここから桜田通りは相生坂で台地から目黒川の低地へと下っていく。今はクルマが行き交う片側4車線の道路で、勾配も緩和されているが、昔は幅もずっと狭く、勾配も急な険しい道であったようだ。

 左に保延元(1137)年創建と伝わる古社・袖ヶ崎神社(旧称は忍田稲荷大明神)、本立寺(日蓮宗)、右に了真寺(曹洞宗)などの寺社を見ながら坂を下っていくと、まもなく左手にビルの中に取り込まれた雉子神社がある。これが嘉陵が立ち寄って拝んだ「雉子の宮」である。

 嘉陵は何の神が祀られているか分からないと書いているが、主祭神日本武尊である。伝承によれば、文明年間(1469~87)、白いキジがこの地に飛来して死んだ。その夜、村人の夢に日本武尊が現れ、この地に自分を祀れば国家を守護し、村民の安全を守るであろうと告げ、白いキジに姿を変えて飛び去った。そこでそのキジを埋葬した場所に日本武尊を祀り、大鳥明神と称したという。その後、徳川家光が鷹狩りで当地を訪れた際、一羽の白いキジが境内に飛びいるのを目にし、これを奇瑞として「今後は雉子宮と称すべし」と命じたという。

 今も神社が西向きなのは嘉陵が参拝した時と変わらないが、当時は丘の上にあり、境内も広かった。しかし、明治時代以降、桜田通りの拡幅や改修で地形が改変され、境内も削られ、ついにはビルの中に取り込まれてしまったわけだ。

「岡の上より西南を望めば、青田目のかぎり見わたさる」

 この先の低地は見渡す限りの田圃が広がっていたということだが、今は五反田の街である。前日までの強い風雨でも、まだ稲穂が出ていないので、被害はないと書き留めている。

(眼下に見渡す限りの田圃が広がっていたが、今は見上げるようなビル群)

「岡の下に高野大師の堂あり、堂の南に坊あり」

 この「高野大師の堂」を現代語訳では二本榎通り沿いにあった高野山東京別院のことと解釈しているが、雉子ノ宮の立つ丘の下にあるのだから、明らかにおかしい。現地を訪れると、丘の下には雉子ノ宮の別当寺だった宝塔寺がある。真言宗なら弘法大師を祀ったお堂があってもおかしくないが、天台宗である。そこにあるのは大師堂でも弘法大師ではなく元三大師が祀られている。嘉陵も勘違いをしたのだろう。

 元三大師は比叡山延暦寺中興の祖といわれる第18代天台座主・良源(912-85)のことで、慈恵大師と称されたが、正月三日に亡くなったので元三大師とも呼ばれ、厄除けの信仰を集めた。東京で元三大師というと、深大寺が有名だが、宝塔寺の元三大師堂もそれなりに信仰を集めたようで、特に品川周辺の漁民が豊漁祈願に訪れたようだ。今は大師堂はなく、本堂の前に「元三大師」の石碑がある。寛政二(1790)年の建立なので、嘉陵が訪れた時にもあったものだ。

 本堂裏の高台は墓地になっているが、ビルばかりで、眺望といえるほどの景色ではない。昔は眼下に田園風景が広がり、その中を目黒川が流れていたわけだが、五反を1区画とする田圃に由来するとされる五反田という地名だけが、往時の記憶を留めている。

(『江戸名所図会』に描かれた雪景色の雉子宮。丘の一段下に元三大師堂のある宝塔寺

 宝塔寺前の山裾の通りには別荘風の二階家があったりしたようだ。雉子ノ宮の山続きの高台には当時、仙台藩伊達家の下屋敷(別邸)があり、桜田通りを挟んだ北側の山には岡山藩池田家の下屋敷があったから、このあたりは町と田園の境界に位置する別荘地帯でもあったのだろう。伊達家下屋敷跡は明治時代には島津家の所有となり、今は清泉女子大学のキャンパスとなっているが、島津山という呼称が伝わっている。一方、池田屋敷の跡は池田山と呼ばれ、その中には上皇后美智子さまのご実家、正田家があり、今は跡地が「ねむの木の庭」として公開されている。

 つづく
 

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