村尾嘉陵「井の頭紀行」を辿る(その3)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が文化十八年九月十五日(1816年11月4日)に井の頭弁才天に参詣した道筋を辿った話の3回目。たぶん最終回。杉並区の古社・大宮八幡宮に参拝したところから。

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「今日は十五日なれど、ここには参る人もなし、広前にぬかづきて、ここの裏門より出て、西に向て行」

 前の記事で大宮八幡宮は徳川の歴代将軍の崇敬を受けるなど広く信仰を集めたと書いたが、嘉陵が訪れたこの日は参拝者もおらず、ひっそりとしていたようだ。

 嘉陵は裏門から出たというが、現在は八幡宮の裏手は高千穂大学の敷地となっているので、南門から方南通りに出て、すぐ八幡宮の敷地に沿う細道に入る。これが旧街道である。右手は八幡宮から高千穂大学に変わり、やがて道が三方に分かれる地点がある。ここで北西に向かう真ん中の道も古いようだが、ここは左側の道を西へ向かう。大宮八幡宮の参道を直進して境内を突っ切ると、この道にスムーズに繋がるが、八幡宮が創建されたためにその南側を迂回する形になっている。いま辿っている道筋は大宮八幡宮が創建される前、古代からある大変古い街道だとされ、武蔵国府から下総国府に通じていたとも考えられているようだ。

 道はやがて杉並区大宮から浜田山に入る。浜田山は旧下高井戸村の一部だったようだ。

 浜田山駅入口の交差点で井の頭通りと斜めにクロスして、ここから正式に「人見街道」となる。江戸時代に井の頭通りは存在せず、交差点もなかった。ちなみに人見とは今の府中市にあった旧人見村に由来する。

 現在の人見街道は交通量の多い2車線道路だが、随所にケヤキの並木が残り、武蔵野らしい風情を感じさせる道である。

「道の北側は、林の間に人家あり、南側はみな畑也、大宮より二十丁ばかりも行けば、下高井戸村(府中通りの下高井戸の裏手也)、左右民家、又は畑ある処もあり、多く杉をうえて柱の料とす」

 当時は左右に民家が点在し、畑があり、各家では建築資材用に杉を植えていたようだ。

 大宮八幡から20丁。1丁は約109メートルだから、2.2キロほどになるが、どの程度正確な数字なのかは不明。大宮八幡から2キロも歩けば、すでに下高井戸を通り越して上高井戸村に入っていた可能性もある。嘉陵が言う「府中通り」というのは甲州街道のことであり、下高井戸と上高井戸には宿場があった。それに対して、いま辿っている人見街道は裏街道にあたるわけだ。

 道はやがて浜田山から高井戸東に入る。

 高井戸東には松林寺という曹洞宗の禅寺がある。文禄二(1593)年開創なので、嘉陵もその門前を通ったはずである。

「道の北側に石地蔵あり、其側に剃頭店あり、ここを上下高井戸の境とす」

 旧下高井戸村と旧上高井戸村の境がどこだったのかよく分からない。当時はなかった環状八号線で現在は高井戸東と西に分けられるが、その東側を南北に走る旧道は当時からの道である。しかし、それより東に位置する松林寺の所在地も昔の上高井戸村だったという。いずれにしても、この付近の路傍に石地蔵は現存しない。ただ、松林寺の境内に周辺から集められた石仏が保存され、その中に道標を兼ねた地蔵尊がいくつかあるそうなので、嘉陵が見た上下高井戸の境の石地蔵もそのうちのどれかと思われる。

 環八旧道を越え、環八を渡ると高井戸西に入る。人見街道をひたすら行くと、庚申塔がある。

「上高井戸村、ここも下高井戸と同じく、民家また杉林の際を行て、久我山村、村の入口に岐路あり、庚申塚あり」

 この久我山庚申塔は嘉陵が見たままの姿で今もある。

 享保七(1722)年に造立された庚申塔は道標を兼ねていて、側面に「これよりみぎいのかしら三ち」「これよりひだりふちう三ち」と刻まれている。しかし、嘉陵はここで右へは行かず、左へ行っている。道票を見逃したのか、あえてそうしたのかは分からない。ちなみに右へ行く井の頭道は現在は井の頭線切通しで分断されてしまっている。

 庚申塔を過ぎて左の人見街道をさらに行く。まもなく、井の頭線の踏切が見えてくるが、その手前で右に分かれるのが旧道である。

「ここ(庚申塚)より左に行て少し民家の間をゆきて、小坂を下れば、右手は山にて、山のこしをめぐりめぐりて、田畝へ出る、田中の細道を南に向て行ば、細き流れあり(此流れ即井ノ頭上水なり)、小橋を渡りてゆけば、少し高みにのぼる、のぼりはつれば上に玉川上水のほりわりあり、水勢懸河のごとし」

 今は久我山の商店街になっている道を行き、久我山駅の西側の踏切を渡って、坂を下っていく。

 このケヤキの樹齢はどれぐらいだろうか?

 まもなく、右手に久我山稲荷神社。創建年代不詳。

 傍らに元禄十六(1703)年に造立された庚申塔が祀られている。嘉陵は見逃したかもしれないが、庚申様は街道を行く嘉陵の姿を見ていた。

 坂を下れば、神田川を宮下橋で渡る。橋を渡ってすぐに旧河道が遊歩道として残っている。当時は「細き流れ」であり、周囲は田んぼだったことが分かる。

 神田川を渡り、坂を上ると、旧道は現在の人見街道に合流し、さらに上っていくと、玉川上水に出る。この付近は最近、新しい道路が開通し、すっかり風景が変わってしまった。

「石橋をわたす、橋の側に、この水にて魚とるべからず、水あびすまじ、芥すてべからずなど書て、制札を立ちる、橋をわたらず上水に傍て、西行する事凡半里余、この間上水の端芝生に小松あり、払ざるに塵なし」

 この石橋は現在の牟礼橋。ここで杉並区から三鷹市に入る。車道の上流側に旧牟礼橋が残り、「どんどん橋」とも呼ばれている。現在よりずっと水量が多く、流れも速かった上水の水が橋に打ちつけられて、どんどんと音がしたからだという。

 現代の橋には文明のニオイしかしないが、昔の橋には文化の香りがする。

 この橋は大正時代に架けられたもので、現在の道路は上水を斜めに渡っているが、旧道は架橋の原則通り直角に渡っている。橋はそれ以前にも何度か架け替えられてて、嘉陵が訪れた時は寛政九(1797)年に架けられた石橋であったようだ。
 橋の袂にあったという制札から、多摩川の水を江戸へ送る重要な水路であった玉川上水が厳重に管理されていたことが分かる。
 現在も貴重な歴史遺産である玉川上水の環境を保全するためゴミを捨てたり、水路を傷めたりしないようにという看板が立てられている。

 嘉陵は橋を渡らずに上水に沿って西へ向かっているが、この上水沿いの道について、次のように書き加えている。

久我山より向へわたる玉川上水ほりわりの縁を、井ノ頭へ行迄の道、芝生南を請て暖なるゆへ蝮、蛇多し、五歩十歩に必行逢、小竹を打切、梢に葉を残し、追ながら行、日入ば寒きゆへ不出と云」

 晩秋とはいえ日当たりのよい草道では五歩十歩進むごとにマムシやヘビに遭遇したようだ。今でも井の頭公園ではしばしばアオダイショウを見かけるから、たぶんこのあたりにも蛇はいるだろう。

 この上水沿いの道は今は遊歩道となっている。雑木林に囲まれた気持ちのよい道で、今回のコースのうち、嘉陵が歩いた時代の雰囲気に一番近い道だろう。道沿いにはわずかながら農地もある。

「前の石橋より、はし三つあり(二ツ目の橋をわたりて、南へゆけば、牟礼と云所へ出る)、その三ツめの橋の所にて、上水端をはなれて右へ行道の左右皆並木あり、七八丁行て井ノ頭弁才天の大門へ出る」

 現在、牟礼橋の上流には長兵衛橋、東橋、宮下橋、若草橋、井の頭橋の順に架かっている。当時からあるのは長兵衛橋、宮下橋、井の頭橋だろう。南に行けば牟礼に通じるのは宮下橋で、牟礼神明神社に由来する名称だ。この橋が渡すのは三鷹台駅前通りだが、芳賀善次郎氏は『旧鎌倉街道探索の旅・中道編』(さきたま出版会、1981年)でこの道を武蔵国府から下総国府へ向かう古代官道のルートと推定している。この区間には「乗瀦」という宿駅があったとされるが、その読み方も定かはなく、場所についても諸説ある。有力な説は「ノリヌマ」と読んで練馬に比定する説、もうひとつは「アマヌマ」と読んで杉並区天沼に比定する説である。芳賀氏は天沼説で、府中から人見街道で牟礼まで来て、そこから杉並区と武蔵野市の境界を北上して天沼へというルートを想定している。それが今の宮下橋のある地点を通っていたというわけだ。もちろん、当時は玉川上水など存在しないから、橋もなかった。

 とにかく、嘉陵は牟礼橋から三つ目の井の頭橋で上水端を離れ、右折する。人見街道から牟礼の中心部で分かれてくる井の頭公園通りで、古くから弁才天への参詣道として発展した道である。当時は並木道だったようだが、現在は住宅街を行く。それでも古道らしさは感じられる。

 やがて、右手に黒塗りの鳥居が現れる。嘉陵のいう「井ノ頭弁才天の大門」で、一般に黒門と呼ばれる。

 今は井の頭弁才天へは吉祥寺駅から歩く人が圧倒的に多く、この黒門の位置は裏手に当たるが、鉄道が存在しなかった時代にはこちらが表参道であった。

 嘉陵はそこに井ノ頭弁才天明静山大盛寺などと彫られた石の牓示が立っていると書くが、実際には正面に「神田御上水源井頭辨財天」と彫られ、右側面に「武州多摩郡野方領牟禮村 明静山大盛寺寛祐代 是より社まで一丁半」とある。延享二(1745)年に建立され、天明四(1784)年に改修されているから、嘉陵が見たのもこの道標だろう。

 台座にはこの道標を寄進した92名の個人名と10組の団体名が刻まれ、その中には歌舞伎の中村座や俳優・中村勘三郎(七代目)などの名が見られる。

 道標の傍らに大黒天も祀られており、『新編武蔵風土記稿』にも記載されているので、当時からあったものだろう。

 黒門から参道を一丁半(約160m)行くと、左手が別当の大盛寺(天台宗)。

 ここから石段を下ると、井の頭池に浮かぶ弁才天がある。

「この牓示(道標)ある所より石の鳥居ある所まで一丁程あり、石のとり居の所より坂を下りて石橋あり、この坂道けはしき上に、崩れて下る事あたはず、石ばしも橋桁ばかり在て、石はみなくづれて、池のほとりにあるのみ也、そこより左りに廻りて林間を下り、社の左に出る」

 現在は石段も石橋もしっかりしたものがあるが、嘉陵が参拝した時はことごとく崩れて、かなり荒れた様子であったらしい。

 石橋の手前にある一対の石燈籠は天保四(1833)年、石橋は嘉陵が参拝した翌年の文化十四(1817)年に江戸の商人らによって寄進されたものである。

「本社は、こけらぶき、拝殿は萱ぶきにて、間口四間半ばかり、本社は直に池の岸に石ずへして、鎮もりし給ふ、みな近頃いとなみたるにや、いまだ全くととのはず」

 井の頭弁財天(嘉陵は弁才天と記すが、弁財天が正式であるようだ)は平安時代の天慶年間(938-47)に源経基が創建したとの伝承があり、源頼朝が建久八(1197)年に社殿を建立したと伝わるが、その後、戦乱で焼失するなど衰微し、江戸時代になって徳川家光により再興される。玉川上水が開通する前、江戸の上水道の第一の水源として「井の頭」と命名したのも家光だという。

 しかし、嘉陵が訪れた時には再び荒れ果てて、整備も全くされていない状況だったようだ。翌年に石橋が架け直されるなど、その後、整備が進んでいったのだろう。家光の時代に建てられた社殿は大正十二年に関東大震災で大破し、翌年、焼失。現在の社殿は昭和二年に再建されたものという。

 嘉陵によれば、当時の井の頭池は上野・不忍池の半分ほどの広さに見えたようだが、それに続く沼地はとても広く、葦などが生い茂り、また、池もその大半は葦などに覆われていたようだ。雁や鴨が多いと書いているのは、秋で渡り鳥が多くやってきていたのだろう。紅葉も見頃だったようだ。

 ところで、近年、地形マニアの間で窪地をスリバチ地形と呼ぶことが一般化しているが、嘉陵も井の頭の地勢を「すりばちの底」のようだと形容しているのが興味深い。

 とにかく、新宿から井の頭池まで歩いてきた。到着は15時過ぎ。新宿から5時間ほど。約3万歩。僕は吉祥寺駅に出て、電車で帰るが、嘉陵は帰りもまた徒歩である。彼の家は新宿よりずっと先の浜町にあり、家に帰りついたのは四つの鐘が打つ頃ということなので、午後10時頃であった。往復12時間の徒歩旅行。

 嘉陵の井の頭紀行は彼が五十七歳(満56歳)の時に書かれたものである。彼はこの文章を八十二歳の時に読み返している。

「今日相州の住綱広が打たる刀、長二尺五寸(75㎝)、重さ七百五十匁(約2.8㎏)、無銘の脇ざし一尺五寸(45㎝)、重さ三百五十匁(1.3㎏)、大小合せ壱貫弐百匁斗、去歳造りいでたるを帯て往返す、正靖今年五十七、いまだ是を重しともせず、年を歴(ふる)につけて、重き刀詮なければ、人の請に任す、わきざしは弟の嫡孫承祖貞和に与ふ、是も一時彼も一時、夢中に夢を見るが如し、天保十二年辛巳春日、病事ありてたまたまこの文を見て、八十二翁しるす」

 25年前、前年に新調した大小の刀を差して颯爽と歩いていた村尾正靖(嘉陵)も年老いて刀が重く感じられるようになり、もはや無用と手放してしまい、この年、五月二十九日に世を去っている。