大月市梁川の「ちょんまげ道祖神」を見に行く(その2)

 1月5日に山梨県大月市の梁川周辺にあるという通称「ちょんまげ道祖神」を見に出かけた話の続き。

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 梁川町立野の「ちょんまげ道祖神」を拝んで、次は梁川町綱之上の全昌寺に向かう。

 梁川駅前から甲州街道を東京方面へ歩く。

 中央本線の線路を左上に見ながら少し行くと、全昌寺の標柱があり、また線路をくぐるトンネルがある。今度はクルマも通れる幅で、背を伸ばしたままくぐれる高さがある。線路の北側に出て、左へ行くと道の行き止まりが臨済宗建長寺派の龍瀧山全昌寺。

 参道の両側に石仏、石塔がいろいろあるが、本堂脇に繋がれた白い犬が激しく吠えている。完全に不審者と思われている。誰か出てくるかと思ったが、誰も出てこなかった。犬にこんなに吠えられるのは久しぶりだ。

 1秒に1回ぐらいの間隔でずっと吠えられながら、本堂に手を合わせ、そそくさと引き返して、参道の石仏を見る。

 一番目につくのは、コンクリート製の祠の中にある倶利伽羅不動。どことなくユーモラスな像である。

 剣に巻き付く龍の姿をしていて、地元では「龍王」と呼ばれているそうだ。享保十八(1733)年につくられたという。大月市郷土資料館の梁川地区ガイドパンフレットhttps://www.city.otsuki.yamanashi.jp/bunka/shisetsu/files/yanagawa_guide_a3_2021.pdf

によると、前年に長雨による冷夏で飢饉が発生し、この地域でも桂川やその支流が氾濫し、大きな被害が出たため、荒れ狂う水の流れを龍に見立て、その鎮静を祈念して龍王を祀ったもののようだ。

 ほかにも閻魔大王や奪衣婆、地蔵尊などさまざまな石仏があるが、ここにも打ち首に遭って、頭の代わりに丸い石をのせてある仏が少なくない。

 ひとつひとつじっくり見たいところだが、ずっと犬が吠え続けているので、落ち着かない。ざっと見ただけで、寺をあとにする。僕の姿が見えなくなって、ようやく犬は静かになった。怪しいやつを追い払ってやった、と得意になっていることだろう。

 全昌寺は線路際にあり、まもなく電車や貨物列車が通り過ぎる。

  圓通寺境内から見た下りと全昌寺前を通過する上りの石油輸送列車。


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 さて、さらに甲州街道を東京方面へ歩く。今日は1月とは思えない暖かさで、道端には今年初めて見るオオイヌノフグリが咲いていた。

 枯草が絡みついた火の見櫓。

 平成18年3月で閉校になった梁川中学校跡地に残る二宮金次郎

 その傍らに水準点。

 この地点の標高は280.75メートル。位置は東経139度2分45秒、北緯35度35分56秒。

 国道を少し歩いて、すぐ右折。まもなく「月山、湯殿山羽黒山、百番供養」と刻まれた碑が立っている。寛政五(1793)年のもので、地元の人が出羽三山と西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所秩父三十四ヶ所の霊場の巡礼を成就した記念だろう。

 その隣には神社があり、あまり見ない両部鳥居には「小松大明神宮」の額が掛けてある。

 ここは平清盛の嫡男で小松殿と呼ばれた重盛を祀っているのだそうだ。父・清盛より早く病死した重盛の墓が平家滅亡後、源氏の支配下に置かれたため、文治二(1186)年、重盛に心服していた平貞能がその遺骨をこの地に運び、険しい岩山の頂上に改葬したと伝えられている。その後、尊骨が現在の小松神社の地に移されたのは文永十(1274)年のことだという。真偽は不明。それが重盛のものかどうかはともかく、誰かの遺骨が今も神社に安置されているのだろうか。

 さらに道なりに行き、塩瀬大橋で桂川を渡ると、いきなり「熊出没注意」だ。普通なら今ごろは冬眠の時期だが、油断はできない。

 藪の中でガサガサと音がするのはガビチョウか。

 電線にはカワラヒワが2羽。

 このあたりは桂川の南岸側がなだらかな斜面で、山里の風景が広がり、対岸は山が迫って、甲州街道は急斜面にへばりつくように続き、落石防護のシェルターの中を行く。中央本線はトンネルの連続だ。

 また「熊出没注意」。最近は各地で餌を求めて人家のそばにまで出没しているというし、実際にこの付近でも出没しているのだろう。

 塩瀬地区の中心集落に入ると、石仏がいくつか。力石のような丸い石には台石に右から「道祖神」と刻まれている。その右隣は壊れているが、二十三夜塔のようだ。

 庚申塔

 八幡神社

 ここでも拝殿の戸が開いていて、手を合わせてから、上を見上げると、巨大なスズメバチの巣があった。

 さらに桂川南岸を東へ歩き、金畑橋を渡り、再び北岸へ。丹沢山地側から関東山地側へ渡ったと言ってもいい。

 遠い昔、遥か南の海で海底火山として誕生した丹沢地塊がフィリピン海プレートにのって北上してきて、今から600万年ほど前に日本列島に衝突した現場である藤ノ木愛川構造線が通っているはずで、桂川はその断層に沿って流れている。

 丹沢が日本列島に衝突したと軽々しく書いたが、その頃、もしこの列島に人が住んでいれば、途轍もない災害となったのは間違いない。しかも、それは数百万年もの長期にわたって続き、今もこれからも続いていく。丹沢の後には伊豆半島がぶつかってきて、現在も列島をぐいぐいと押しているはずだが、その変化の速度はあまりにもゆっくりとしているので、ふだん我々は気がつかない。しかし、それが突如として地震や火山噴火などの激しい現象を引き起こすことで、壮大な大地のドラマが進行中であることを思い知らされるのである。元日に発生し、大変な被害を出した能登半島地震もまさにそれである。数年前から能登半島の地底でうごめく謎の「流体」が引き起こす地殻変動は日本列島の大地のドラマの新たな章の始まりを告げるもののような気がする。 

 

 とにかく、対岸に渡って、国道を東へ行くと、すぐにまた線路をくぐるトンネルがあり、北側に出て、右へ行くと、すぐに小さなお堂がある。これが梁川町新倉の薬師堂だ。新倉は「あらくら」と読むと現地にきて知った。

 ガラス越しに堂内をのぞくと、二段になった棚が正面と左右に設えてあり、上段の中央には薬師如来らしき頭部のない仏像、その左右には眷属の十二神将が並んでいる。そして、下段には冥界の裁判官である閻魔大王をはじめとする十王や奪衣婆などの像が並んでいる。いずれも小さな像だ。かつてこの土地に寶泉寺という真言宗寺院があり、その境内に薬師堂や十王堂があったということなので、この薬師堂に安置されている仏像は今は存在しない寶泉寺のものかもしれないとのこと。

 ところで、ここまで梁川駅からずっと歩いてきて、気づいたことだが、この土地では門松やしめ飾りをしている家が意外に少なく、代わりに「賀正」の文字と門松と日の丸が描かれた紙を玄関に貼り付けている家が多い。梁川町社会福祉協議会と書いてあるから、各家庭に配られたのだろう。

 さて、薬師堂からさらに東へ上っていくと、今日の石仏ウォーキングの目玉である「ちょんまげ道祖神」があるという有倉神社の前に出る。『石仏を歩く』では新倉神社となっているが、有倉神社である。「あらくら」と「ありくら」で、元は同じかもしれない。

 南向きの明るい斜面に杉木立に囲まれた神社があり、鳥居の脇に双体道祖神があった。

 その隣には丸石道祖神と上半分が失われた石仏。

 延享四(1747)年の造立で、北都留地方では現存最古の道祖神だそうだ。伝承によると、昔、どこからか駆け落ちしてきた若い男女がこの地で息絶えたので、二人の冥福を祈るとともに、夫婦円満、縁結びの神として祀ったのだという。

 有倉神社。祭神は大物主命。

 これで梁川にある2体の「ちょんまげ道祖神」を見たことになる。有倉神社も拝んで、もと来た道を戻る。またどこかで犬が激しく吠えている。集落によそ者が入り込んだことを察知したのだろう。仙人のような髭を生やしたお爺さんが道まで出てきて、僕の姿を確認して、また戻っていき、庭で吠えている犬を叱ってから、家の中に姿を消した。

 

 つづく

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