山梨県大月市の梁川駅付近に「ちょんまげ道祖神」と呼ばれる双体道祖神があるというので、それを見たいと思い、昨日(5日)、出かけてきた。
高尾から10時17分発の中央本線大月行きに乗り、少し遅れていたので、10時44分の定刻より数分遅れて5駅目の梁川に着いた。東京発の10両編成だったので、車内はガラガラだった。降りたのは僕だけ。
今日のルートは庚申懇話会『石仏を歩く』(JTBキャンブックス、1994年)に紹介されているもので、梁川駅からひとつ東京寄りの四方津(しおつ)駅までさまざまな石仏を眺めながら歩く。両駅間は鉄道で3.6キロなので、それよりは遠回りだとしても、大したことはない。
(梁川駅前の案内地図)
さて、梁川駅をあとに、まずは線路の下をくぐる小さなトンネルを通って、線路の北側へ。天井が低いので、背を屈めて歩く。
線路をくぐって、左へ行くと、駅の北側に観音堂がある。駅でもらった観光案内によれば、彦田観音といい、武田勝頼の愛馬白龍を祀ったものだという。本尊は木造馬頭観音で、郡内観音霊場の二十六番札所となっている。
山の上に続く細い石段があり、その登り口に庚申塔と「念三夜」と彫られた二十三夜塔がある。
(二十三夜塔)
石段の中腹の左手にはお仮屋の下に丸い石が置かれている。これは丸石道祖神。『石仏を歩く』によると、「正月十四日の午後に前年のお仮屋を焼いて新しくする」と書いてあるが、見たところ、お仮屋は金属製だ。一月十四日の小正月に集落の一か所に門松や正月飾りを持ち寄り、これを燃やして、その炎の中に道祖神を投じるという道祖神祭りが各地で行われるが、ここでも焼くのは丸石のほうではないか。現在も行われているのかどうかは分からない。
お仮屋の一段上にも石仏や墓石らしきものが並んでいる。
なにやら野生動物の糞がある石段を登りきると、正面にお堂があるが、戸が閉ざされ、中は見えない。なんとなく荒れた雰囲気でもある。正月なのに、掃除された様子もなく、花が供えられているわけでもなく、人々から忘れられた存在のようにも感じられるが、とりあえず手を合わせておく。
お堂に向かって左手には馬頭観音が3基、そして七夜待供養塔がある。村の人々が一堂に集まり、念仏を唱えたり、神仏に祈ったりしながら月の出を待つ民間信仰では真夜中に月が昇る二十三夜が最も多いが、ほかに十九夜とか二十六夜の供養塔は過去に見たことがある。でも、七夜というのは初めてのような気がする。そもそも七日目の月は日中に昇ってしまう。調べてみると、七夜待は十七夜から二十三夜まで七夜にわたって月待をする民間習俗だという。なるほど。
宝暦七(1757)年の七夜待供養塔。
(安永二年、1773年の馬頭観音)
まるで人の気配がない観音堂をあとに再び線路下のトンネルをくぐって、駅前を通る甲州街道(国道20号線)を渡り、桂川の峡谷にかかる梁川大橋を渡る。桂川は富士山麓の山中湖を水源とする河川で、神奈川県に入ると相模川を名前を変えて、相模湾に注いでいる。
次に行くのは桂川対岸の立野にある圓通寺。臨済宗南禅寺派の寺である。
ここには十王像や奪衣婆、地蔵の石像があるというが、本堂は閉め切られ、拝むことができない。ここも無住の寺のようで、人の気配はない。
境内にも石仏がいろいろ。
首から上が妙に新しいお地蔵さん。サイズが合っていない。このように頭部を失った石仏はあちこちで見る。胴体を斜めに切断されたものもよく見かける。明治の廃仏毀釈の狂乱の中で、手当たり次第に破壊された結果だろうか。
ツグミ。
高台に立つ圓通寺の下の路傍にも石仏がずらりと並んでいる。
石垣の上には馬頭観音が並ぶ。文字だけのもの、尊像を刻んだものなどいろいろ。
そして、石垣の下には今日の石仏ウォーキングの目玉ともいえる通称「ちょんまげ道祖神」(その1)。
しかし、全体が白っぽいカビ(?)に覆われて、よく分からない。
手を取り合い、互いに肩を抱く仲睦まじい男女神。
文字も読み取れないのだが、資料によれば、下部に横書きで「道祖神」、側面には「宝暦二年」(1752年)、「申六月吉日」と刻まれているらしい。
このような石仏は博物館の展示ケースの中に閉じ込めておくようなものではないし、路傍にたたずんで、道行く人々を見守っているからこそ、有難いのだけれど、その結果、どんどん劣化が進んでしまうのも悲しい。そのような場合、新しいものを作り直すことも古くから行われていたようで、尊像を彫る手間を省いたためか、「道祖神」の文字だけの石塔が年代の新しいものほど多いのが実情だ。
その隣の石祠は内部に尊像が安置された珍しいもの。元禄九(1696)年建立で、「奉庚申供養」と刻まれているようだ。
再び梁川大橋を渡って駅前に戻り、甲州街道を東京方面へ向かう。
つづく