藤沢から茅ヶ崎まで石仏をみて歩く(4)

 藤沢市から茅ヶ崎市にかけて石仏めぐりをした話の続き。

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 小田急線の善行駅からスタートして相模線の北茅ヶ崎駅までやってきた。もう少し探索を続ける。ここからまた『石仏地図手帖・神奈川篇』の「寒川から茅ヶ崎の石仏」を参考に「日本最古の三猿像」を目当てに歩く。

 北茅ヶ崎駅を左に見ながら相模線の東側を北上し、茅ヶ崎市円蔵地区に入る。

 新しい六角堂に道祖神が祀られている。

 これも男女神が互いの肩を抱き、手を取り合う姿で、昭和五十年の作。昭和以降はこのスタイルが流行りということなのだろう。『地図手帖』によると「道祖神塔を小正月の火祭の火で焼くのは、この地方に広くみられる習俗であったが、焼かれ傷んだご神体は、かつてはしばしば更新され、このように新像と置き換えられてきたようである」とのこと。

 この道祖神前を南へ下って突き当りを西へ行き、相模線の踏切を渡って、さらに行くと、山王社があった。

 江戸時代に創建されたこの神社は昭和47年2月、竜巻により倒壊。その年に再建され、さらに18年に社殿が新築され、境内も整備されたとのこと。

 狛犬の代わりに猿。山王信仰で猿は神の使いである。

 その境内にも双体道祖神。安永五年十二月吉日の造営。西暦だと1976年から77年にかけての時期。

 神社入口の左手にも道祖神と刻まれた碑(境内の古い道祖神を更新したものか)があり、その横には「春や春岐路に立てども和合神」の句碑。

 山王社の横を北へ行き、突き当りを左折すると真言宗の輪光寺に行き当たる。ここに日本最古の三猿像があるという。

 境内に入ると、左手に六地蔵など石仏群。

 左端に青面金剛を刻んだ庚申塔。その右隣が舟形後背に烏帽子を被った三猿を浮き彫りにした庚申供養塔。寛永十七(1640)年に造立されたもので、茅ヶ崎市内にある90基余りの庚申塔の中で最も古く、茅ヶ崎市教育委員会の解説板によると「年号からは全国的にも古い三猿塔である」という。

 そして、その隣には勢至菩薩を本尊とする二十三夜供養塔。二十三夜塔には今日初めて遭遇した。

 弘法大師像。

 当地が発祥とされる民話「河童徳利」に因んだ河童像。

 「河童徳利」とは大体次のような話。働き者の五郎兵衛が川で愛馬アオの体を洗っていると、いきなり河童が現れてアオの尻にかじりついた。驚いた五郎兵衛はその河童を捕らえて木に縛りつけたが、河童が泣いて詫びたので、許して解き放ってやった。すると、その晩、河童が五郎兵衛の家を訪れ、礼に酒がいくらでも湧き出るという徳利を置いて行った。ただし、徳利の底を三度叩くと酒は出なくなるという。それ以降、五郎兵衛は酒を飲んでばかりで、働かなくなってしまう。しかし、世話を怠っていた愛馬アオのやせ細った姿を目にして五郎兵衛はようやく我に返り、徳利の底を三度叩いて酒をやめ、また真面目に働くようになった。

 うたかたを川の精霊に獺祭 

 「獺祭」といえば日本酒の銘柄として有名だが、ここでは「だっさい」ではなく「おそまつり」と読む。これはカワウソが捕まえた魚をすぐに食べずに川岸の岩の上などに並べていく習性を指し、それが神様へのお供え物のように見えることから名づけられたもの。春の季語である。獺祭から酒を想起すれば、河童徳利の民話とも結びつき、川の精霊(すだま)を河童と見なすこともできそうだ。


 さて、輪光寺の本堂裏のかつて竹藪に覆われていた一角は立ち入ると祟りがあると言われていたが、昭和三十年代に墓地拡張のために竹を伐採したところ、平安時代のものという蔵骨器が礎石で固められた形で発見された。これを供養して埋納した場所が山王塚で、山王権現の神使の猿の像がある。寛文十二(1672)年の作。

 輪光寺をあとに北へ行き、突き当りを左折すると、すぐに小さなお堂(了覚院)があり、墓石が並んでいる。輪光寺の末寺で、江戸時代に円蔵村を知行した太田氏一族及び歴代住職の墓だという。その奥の農地の向こうにも小さなお堂が見える。『石仏地図手帖』によれば、祇園社だという。

 傍らに古い双体道祖神がある。ひどく風化しているうえに両神の首を刎ねたように石が割れている。

 祇園社をあとに西へ向かうと、神明大神宮。平安末期から中世にかけての広大な大庭御厨の西部にあたり、大庭景親の兄で源頼朝に臣従した景義の館がここにあったと伝えられる。鎌倉に幕府を開いた頼朝が京へ上洛する際、旅の第一夜を過ごしたのが、景義邸だったともいう。

 境内に双体道祖神というが、見つけたのは文字塔のみ。

 今日の石仏めぐりはここまでにして、北茅ヶ崎駅に戻り、相模線で海老名に出て、小田急で帰る。