上野原市川合の庚申石祠と「山梨のマチュピチュ」

 山梨県大月市梁川駅から上野原市四方津駅まで石仏をみて歩いた話の続き。

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 梁川町の立野と新倉に残る髷を結った男女の双体道祖神(ちょんまげ道祖神)を訪ね、とりあえず今回の目的はほぼ達したが、今回参考にした庚申懇話会監修『石仏を歩く』によると、四方津駅に近い上野原市の川合地区にある流造の庚申石祠も見逃せないと書かれている。

 

 大月市のマンホール。有名な猿橋を中心に富士山などがデザインされている。ちなみに、このあたりからは手前の山々に遮られて富士山は見えない。

 新倉薬師堂の前を走る中央本線の下り列車。この区間、上り線はトンネルの中を走っている。

 さて、線路の下をくぐって、国道に出て、四方津方面へ歩く。廃業したガソリンスタンドというのは最近、よく見かける。

 少し行くと、右後方に下る道があり、それを行くと新倉橋がある。右側(上流側)に吊り橋もあるが、こちらは通行禁止になっている。近くでエナガの声がする。

 向こうに先ほど渡った金畑橋が見える。

 今は廃橋となっている吊り橋は1971年に架けられたもので、意外に新しいが、その傍らには古い石塔があり、上部に仏像を刻み、その下には「當道橋造立成就」の文字が彫られ、延享元年とある。1744年である。280年前からこの深い谷に橋が架けられていたわけだ。側面には荒倉村(新倉のことか)、金畑村、大保呂村、清水村、塩瀬村など最高で七両の資金を出した周辺の村の名前や世話人の名前が刻まれ、この地域の人々にとって桂川の両岸を結ぶ待望の橋だったことが分かる。

 新倉橋から桂川南岸を東へ行くと、桂川の支流、大保呂川に架かる大瀧橋を渡る。やがて人家が現れ、川合の集落に入る。ここはもう上野原市である。

 桂川の対岸に中央本線の橋が見える。先ほど、電車で通った時に「いい橋だなぁ」と思った橋だ。大呼戸沢橋というらしい。1966年にこの区間が複線化された時にコンクリートのアーチ橋が建造されて上り線となり、その際に赤い鉄橋の下り線も架け替えたらしい。


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 集落の中を歩いていくと、小さな稲荷神社があった。『石仏を歩く』によれば、稲荷の向かい側に庚申石祠があるらしい。

 道を挟んだ反対側のほとんど埋もれた石段の上に2基の石燈籠と石祠がある。あれか。

 枯草を踏んで、祠に近づいてみるが、風化して、よく分からない。「庚申塔としては、北都留地方で現存最古の寛文三(1663)年の造立、室部の正面中央に異形地蔵坐像、上部に二鶏、下部に二猿を配している」というのだが、猿らしいのが辛うじて判別できる程度だ。

 庚申塚の崖沿いには2体の石仏、また稲荷祠の後ろにも卵型の石塔がある。

 陰陽石のようにも見える。

 とにかく、これで見るべきものは見た。あとは四方津駅まで歩くだけだ。川合橋で桂川を渡れば、すぐである。

 ところで、四方津駅付近に先ほどから見えているものが妙に気になる。

 静かな山里の雰囲気にそぐわないものがある。

 なんとなく知っているのだが、対岸の山の上にニュータウンが造成されているらしい。現在、14時を過ぎているのだが、まだ昼食をとっていない。お腹が空いた。梁川からここまで歩いてきて、何軒かお店はあったが、正月だからか、一軒も開いていなかった。山の上のニュータウンならコンビニかスーパーはあるだろう。

 14時25分に四方津駅に到着。無人駅で、駅舎はまだ新しく、駅前広場は整備工事中。そして、駅前から山の上にガラス張りのエスカレーター(?)が通じている。コモア・ブリッジというらしい。

 乗り場へ行ってみると、エスカレーターが1本あるが、停止していて、両側にエレベーターがあるのだった。エスカレーターは時間帯によって、上りになったり、下りになったりするらしい。

 エレベーターに乗る。乗っているのは僕だけだ。斜行式エレベーターというのは初めてだ。長さは200メートル。ずっと山里の風景を眺めながら歩いてきて、最後にこんなものに乗ることになるとは思わなかった。

 エレベーターはゆっくりと動き、上まで4分近くかかった。エスカレーターは8分かかるらしい。電車に乗り遅れそうで、急いで下りたい人のために滑り台を設置したらどうだろうか、と考える。

 山の上に到着し、外へ出る。目の前にコモア・プラザという商業施設があり、典型的な新興住宅地の風景が広がる。

 ただ、ひっそりとしている。犬と散歩している人がいたが、犬も僕に向かって吠えたりはしない。この街では住民もみんなヨソ者なのだ。もちろん、道端に石仏があるはずもない。

 石仏の代わり(?)。

 それにしても、どうしてこのような場所に住宅地が生まれたのか。日本が今では信じられないようなバブル景気を謳歌していた1980年代末、東京の地価は高騰を続け、庶民が都内にマイホームを持つことは困難になった。そこで庶民にも手の届く価格で一戸建ての住宅を供給しようと1987年から積水ハウスが造成を開始したのが、ここ「コモアしおつ」で、1991年から分譲が始まったとのこと。山の上に広がる町並みは「山梨のマチュピチュ」とも言われているらしい。

 その後、バブルははじけ、都心回帰が始まったとも言われているが、この街の現状はどうなっているのだろう。

 コモア・プラザにはスーパーマーケットやベーカリーなどがあり、いろいろと買い物をして、またエレベーターで下界へ下る。

 山の下には鼓楽神社というのがあり、祭神は源義経の家臣だった佐藤継信・忠信の兄弟だそうだ。兄弟は今の福島市の出身と言われているし、なぜこの土地に祀られているのかは不明。境内にはウラジロガシの巨樹がある。

 神社の向かい側には昔ながらの火の見櫓。

 四方津駅に戻ると、ちょうど15時で、15時03分に高尾行きの電車があった。