嘉陵紀行「羽沢氷川・渋谷八幡・伊勢野 道の枝折」を辿る(前編)

 江戸の侍・村尾正靖(嘉陵)の江戸近郊日帰り旅の道筋を辿るシリーズ。しつこく続くが、まだまだ続く予定である。こうして東京都内の知らない町を歩いていると、いろいろな発見があって、もちろん大した発見ではないが、実に面白い。

 今回は麻布から渋谷にかけての散策なので、さほど遠出というわけではない。とはいえ、文政二(1819)年八月のことで、まだ嘉陵は浜町の家に住んでいたはずだから、現代人の感覚からすれば、それなりの距離を歩いたことにはなる。

 渋谷八幡宮の近くに、伊勢野というところあり、そこに法如庵と云あり、こは本郷園満寺(正しくは圓満寺)の隠居所にて、孔雀明王を祭ると云、野の見はらしよしと、とある人いへば、一日かしこを訪ねて行。

 嘉陵は誰かがあそこは景色がいい、などと言っているのを耳にすると、自分でも行ってみたくなるようで、人から聞いた話をきっかけに自分もその場所へ出かけてみたという例が『江戸近郊道しるべ』にもいくつも含まれている。

 笄(こうがい)橋をわたりて、流にそひて左にゆけば、みちふたつあり、一は流れをわたりかへして、猶ひだりに行、一すじは小坂をのぼりて、右へ行、堀田相模守どのの屋敷あり。此辺を羽沢と云。

 「笄橋」は現存しないが、東京の歴史地理に関心のある人にはよく知られた橋である。渋谷川の支流で、青山霊園周辺にいくつもの水源をもっていた笄川に架かる橋で、『江戸名所図会』にも描かれている。

 笄川はすでに暗渠化されているが、その川筋の谷を通っているのが外苑西通りで、通りが明治通りと交差する天現寺橋交差点のそばで暗渠から出てきた笄川が渋谷川(ここから下流は古川と名称が変わる)に合流するのを見ることができる。

(手前から流れる渋谷川天現寺橋の下で左から笄川が合流。コサギがいる。岸辺には甲羅干しのカメ多数)

 天現寺橋から外苑西通りを北上する。地下鉄日比谷線広尾駅を過ぎ、聖心女子大学を左に見て、さらに北へ行くと、右手に笄公園がある。その東側には港区立笄小学校もある。ちなみに「笄町」という地名は昭和四十二(1967)年まで存在し、今は南青山や西麻布の一部となっている。

 とにかく、笄公園を過ぎ、次の信号を左折すると笄橋跡である。ちなみに、この信号から東へと上っていく坂沿いにはルーマニア大使館やギリシア大使館があるが、嘉陵は麻布方面からこの坂を下ってきたようだ。

 坂を下ってきて、当時は存在しなかった外苑西通りを過ぎて、さらに西へ行くと、そこに川が流れていて、笄橋が架かっていた。笄橋の先は「牛坂」が東の台地へと上っていく。

 この牛坂の下に笄橋は架かっていたのである。

(画面奥へ続く道が笄川跡。この地点に笄橋があり、右へ上っていく牛坂に続いていた)

 笄橋を渡った嘉陵は牛坂へは行かず、笄川に沿って左へ行く。川の右岸に道があり、その道を南へ向かったわけだ。川跡の道は東側に並行する外苑西通りより一段低いのが現地に行くと分かる。

 少し歩くと、道が二本に分かれる。左の道が川跡で、道は再び笄川を渡って、今度は左岸側を引き続き川沿いに南下していく。嘉陵はここで川を左に見送り、右へ上る道を行く。そこに「堀田坂」の標柱が立っている。

(左へ行くのが笄川跡。聖心女子大学前付近で外苑西通りに合流する。右が堀田坂)

 この分岐点から南では笄川(跡)が港区と渋谷区の境界となっており、また堀田坂も両区の境界である。つまり二本の道に挟まれた部分が渋谷区である。

 さて、堀田坂は標柱の説明では「江戸時代には、大名堀田家の下屋敷に向かって登る坂になっていた」とあり、嘉陵が「堀田相模守殿の屋敷である」と書いているのと一致する。

 江戸切絵図「東都青山絵図」を見てみよう。緑色の線で示したのが嘉陵が歩いた道である。笄橋から川沿いに南下して堀田坂を登ると「堀田備中守」の屋敷がある。堀田家は下総佐倉藩主で、嘉陵がここを歩いた時は第四代・正愛(まさちか)が藩主で、当時は相模守であったが、第五代の時に備中守に改められている。

 堀田坂を登る。右は港区西麻布、左は渋谷区広尾である。

 坂を上ると、道は右へ折れる。堀田家下屋敷跡は広尾ガーデンヒルズ日赤医療センターになっている。

 このやしきの垣にそひて、しばしば行、路の北側は、山口修理亮どののやしき也。

 山口氏は常陸牛久藩主で、修理亮(しゅりのすけ)は官職である。道の左側が堀田家、右側が山口家で、山口家の屋敷跡は港区立高陵中学校などになっている。

 大銀杏。樹齢およそ五百年で、江戸初期に堀田家の屋敷地となる以前からあった。当然、嘉陵が歩いた時にもあったはずだが、当時はこのような巨樹、古木はいくらでもあったと思われ、この銀杏も格別な存在ではなかっただろうから目にも留まらなかったかもしれない。

(『東都青山絵図』の部分。緑線が嘉陵の歩いた道)

 この路、西北に向て行事四五丁ばかりにして、辻番所あり、右にゆけば、高木主水殿のやしき也。

 突き当りに辻番所があったようだ。交番のようなものか。高木氏は河内丹南藩主で、その名は屋敷があった一帯の高樹町という町名に受け継がれたが、昭和四十年に住居表示の実施により南青山に組み込まれ、消滅した。しかし、首都高速の出入り口や交差点、マンションの名前などに今も残っている。

 突き当りを左折して、すぐに右折。

 猶左によこ折て、少しゆき、又ひぢ折て、右にゆけば、路の北側に内藤紀伊守どののやしきあり、門の左右松あまた生しげり、見入おくふかし、其西どなりは、近比紀伊守殿のやしきを割て、宅地を給はりし牧野某〔半右衛門〕の住居也。かやふけるのき数々たてつらね、見入れば、式台のうへに士一人ふたり欠伸してあるも、いとものさびしげなり。

 しばらくは住宅街を行くが、江戸時代からの道がそのまま残っている。ここも右が港区南青山、左が渋谷区広尾で、区境である。江戸時代は右には武家屋敷が続いていたようだが、左側は大部分が百姓地で、畑が多かったようだ。江戸の市街と郊外の田舎の境目でもあったわけだ。

 このあたり路中くぼに、つま先下りにて、はばわづか二間あまり、やりを横たへなば、人通るべからぬ程なり。

 しばらく行くと、嘉陵の書く通り、下り坂になる。二間は約3.6メートルだから、道幅も当時とあまり変わっていないのだろう。

 なぜ下り坂になっているかというと、この先に「いもり川」という渋谷川の支流があったからである。今の青山学院付近に水源があったようだが、もちろん、全区間が暗渠化されている。切絵図で青く塗られた農地で、畑の中に一カ所だけ「田」と書かれているのが、いもり川の流れていた場所で、「此辺羽根沢村」の文字が見える。

 まもなく東四丁目交差点に出る。道路を渡った先に常陸宮邸がある。嘉陵が内藤紀伊守の屋敷の一部を割いて牧野半右衛門が宅地を給わったと書いているが、その場所が今の常陸宮邸のようで、切絵図では「織田丹後守」の屋敷になっている場所にあたる。幕末には内藤紀伊守と織田丹後守の屋敷地はともに薩摩藩島津家の屋敷に変わっている。

 常陸宮邸の北東側の道に沿って、かつていもり川が流れていて、交差点を斜めに横切っていた。下の写真の左手に階段があり、その下に川跡がある。高低差は2メートル以上あるので、道路造成時に盛り土をした上に現在の交差点があるのだと思われる。

(東四丁目交差点。左奥が常陸宮邸。その右側の道がいもり川跡。その奥に青山学院の建物が見える)

 猶少しゆけば、山ばたあり。はたをへだてて、松平左京大夫殿のやしき、内藤紀伊守どののやしき、奥の長屋みゆ。

 松平左京大夫紀伊徳川家の流れをくむ伊予西城藩主で、その上屋敷跡が今の青山学院のキャンパスである。内藤紀伊守は越後村上藩主で、青山学院の南東側に屋敷があった。

 交差点を渡り、常陸宮邸の敷地に沿って南西に進む。左には白根記念渋谷区郷土博物館・文学館があり、その隣には吸江寺(臨済宗)がある。

 少しゆけば、路の南側に松林ありて、石の鳥居たてるは、はね沢の氷川大明神なりけり。

 このあたりからは昔は畑が多くなり、坂を下って行くと、國學院大學のキャンパスを過ぎて、左に氷川神社の脇参道がある。切絵図では「氷川宮」と表記されている。

 かねては、聞き及びし所なれど、詣るは今日初めて也。石の鳥居のうち、左右みな松の木だちいとものふりたり。

 嘉陵の記録によれば、江戸時代の寺社の森といえば、松や杉などの針葉樹が主体であったようだが、近代以降、大気汚染の影響などで多くは枯れてしまい、代わりにシイやカシ、クスノキなどの常緑広葉樹が目立つようになっている。氷川神社でも明治三十八年に近くに建設された東京鉄道株式会社の火力発電所(明治四十四年から東京市電気局に移管)の煤煙の影響で松や杉は枯死してしまったという。現在はクスノキの巨木が目立つが、この鎮守の森も嘉陵の時代とは様相が異なっている。

(『江戸名所図会』より「渋谷氷川明神社」。嘉陵は画面左の鳥居をくぐり、脇参道から参拝した)

 しばし行て、左に石階をのぼる事二十余級、拝殿、本社みな茅もてふける也、右の方に弁才天の祠あり〔江戸百弁天の一なりと云〕、境内眺望なし。ただ松風の颯颯たるを聞。

 今も石鳥居をくぐって、右からの表参道に合流し、左に折れると石段がある。現在は三十余段ある。当時より段差が低くなったぶん、段数が増えたのだろう。

 

 石段を登ると、江戸時代には正面に社殿があったようだが、今は左に曲がると社殿がある。つまり、昔の社殿はほぼ西向きだったが、今は南向きである。弁才天厳島神社として境内にある。

 ところで、この氷川神社日本武尊が東征の際に素蓋鳴尊を勧請したと伝わるが、それは単なる伝説としても、かなりの古社であることは確かなようで、下渋谷村および下豊沢村の鎮守として古来信仰されていた。

 境内の厳島神社。弁天様が祀られている。

 拝殿に向かって右手には秋葉神社、八幡社の祠と並んで「本殿御敷地舊趾」の石碑が立ち、往時を偲ばせる。

 旧社殿は昭和十四年から翌年にかけて世田谷区の東玉川神社に移築され、現存しているそうだ。築四百年というから、嘉陵が拝んだ建築が今も残っていることになる。ただし、屋根は茅葺きから瓦葺きに改められている。

 石階の下、向て左のすそに、横に長き石あり、守武万代石と彫つく。この石いとも古くみゆれど、文字を彫付けたるはのちの世のわざなるべし。山石にあらず、海辺の石也。横に石理あるをみる。来歴如何といふをしらず。其石の上の方、山の岨に、いと大なる松あり、根にしめ縄を引かけたり。何人にや、うたをちいさき板に書て、其しめなわにはさみ置くたり
 ひろ前にのぼりてみれば何もなし たゞ松風の音ばかりして


 嘉陵は氷川神社に参拝するのは初めてだったようだが、僕は何度か来たことがある。今回の興味の中心は嘉陵が見た「守武万代石」が今もあるのか、ということであった。

 参拝を終えて、石段を下り、嘉陵のいう場所を見てみると、あった!

 こういう時にはやはりちょっと感動する。右から「守武萬代石」と彫ってあり、それが「海辺の石」というのも分かる。「横に石理あり」とは横縞模様のことだろう。

 『江戸名所図会』をよく見ると、「守武萬代石」が描かれ、その背後に神木が聳えていたことが分かる。石の前に通じる石段もあり、石を眺める人物2名が描かれている。

 調べてみると、この石は文政十三(1830)年完成の『新編武蔵風土記稿』にも記載されている。「此樹下に萬代石と刻したる石あり。浪人斎藤定易建る所にて九十年程に及ふ。其子孫今松平備前守藩士なり」

 そして、風土記稿によれば、石の背後の神木は「常盤松」と呼ばれ、源義朝の愛妾・常盤御前義経の母)が植えたという伝説の松だったようだ。同書では常盤が当地に来た記録がないことから、この松を植えた「常盤」とは渋谷に近い世田谷の城主・吉良頼康が寵愛した側室・常盤ではないか、と書いている。世田谷の常盤の物語は江戸時代にはとても有名だったが、世田谷の常盤が実在の人物かどうかも分からない。この常盤松もその後、枯れてしまい、今は存在しない。

 今こしみちはわき道にて、石階を下りて直にゆけば大門にて、ここに又石の鳥居あり。路の傍に、くぼかなる所あり、草刈おのこ一人ふたり居たるに問ば、ここは例年九月二十九日神事の角力ある芝居なり、やがて其頃にも成ゆへ草刈そけ、其まうけす、とぞいふなる、相撲をわざとするものも、たまさかには出れども、先は近郷のわかきものあつまる、行司は其すじのものをやとふ、といへり。

 この土俵は『江戸名所図会』にも描かれ、今もほぼ同じ場所にある。参道より一段低い児童遊園(氷川の杜公園)の中にあるが、土俵はフェンスで囲まれ、子ども達が相撲を取って遊ぶことはできない。昔は九月二十九日の例大祭に「金王相撲」と呼ばれる相撲が行われ、これは大井鹿島神社世田谷八幡宮と並び江戸郊外三大相撲と称され、大勢の観客を集めたという。嘉陵は祭礼の日が近づき、準備のために草刈りをしているところを見たのだった。世田谷八幡宮では現在も奉納相撲が行われているが、ここでは7月に子ども相撲大会が開かれるらしい。

 

 嘉陵はこのあと氷川神社別当寺・宝泉寺に立ち寄り、次の目的地に向かっている。

 

 後編につづく

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