嘉陵紀行「谷原村長命寺道くさ」を辿る(その1)

 江戸の侍・村尾正靖(号は嘉陵、1760-1841)の江戸近郊散策記のルートを辿るシリーズ。今回の行き先は練馬区高野台(昔の豊島郡谷原村)にある長命寺弘法大師空海霊場紀州高野山を模して創建されたため、東高野山、新高野山と呼ばれる真言宗の寺である。

 文化十二年九月八日(1815年10月10日)、五十五歳の嘉陵はこの日、仲間4人とともに出かけている。

 「九月八日四時(午前十時)頃、清水を出て、小久保清右衛門の家に立ち寄る」

 清水とは嘉陵が仕えていた徳川御三卿の清水家で、江戸城の清水門内、今の日本武道館あたりに屋敷があった。

 今回は片道だけだが、全行程を歩いてみよう。地下鉄半蔵門線九段下駅からスタート。嘉陵は今では武道館への出入りに利用される田安門から出た可能性もあるが、とりあえず昔の雰囲気を残す清水門から。

 嘉陵が数えきれないぐらいの回数通ったはずの清水門。ただ、三番町に引っ越してからは田安門が最寄だった。この時はまだ浜町に住んでいた。

 右手に見える武道館付近に清水家の屋敷があった。

 「清右衛門は昼食をごちそうしてくれた。畑の芋を掘って、あたたかいご飯を出してくれた。断りがたくていただく。しばらくすると九つ(十二時)の鐘が鳴る。一緒に行くのは佐藤新右衛門、稲葉新助、中川富之丞で、清右衛門が案内役である」

 嘉陵はこの日の行程を略地図に描き残していて、今の雑司が谷付近に「小久保清右衛門宅コノ辺」と書いている。清水家から雑司が谷までの道筋は文章でも地図でも記録されていないので、想像するしかないが、恐らく江戸城外へは牛込見附から出たと思われる。とりあえず、清水門の前から内堀通りを歩き、九段下の交差点を直進すると、道路名が目白通りに変わる。目白通り飯田橋で外濠を渡るが、江戸時代には飯田橋は存在しなかったので、JR飯田橋駅西口の牛込見附跡に回る。田安門からなら牛込門まで今の早稲田通りで直結しているので、この道を来た可能性が高いか。ただし、当時の道は防衛上の理由で屈曲があり、直進路ではなかった。

 とにかく、牛込見附。ここにも清水門と同様に二つの門が直角に連続する枡形門があったが、今は石垣の一部が残るのみである。

 説明板にある牛込門と牛込橋の写真。幕末か明治初頭か。

 かつての外濠の中を走る電車。

 牛込橋で外濠を渡って、千代田区から新宿区に入り、そのまま正面の神楽坂を北西方向へ登る。自然河川を利用した外濠と神田川(江戸川)に挟まれた台地を越えるのである。或いは、今の飯田橋交差点から神田川沿いに目白通り江戸川橋まで行くルートも考えられるが、恐らく神楽坂を通ったのではないか。

 歌川広重牛込神楽坂之図」(1840年

(神楽坂)

 毘沙門天が信仰を集めた善國寺(日蓮宗)。

 上州赤城山麓の大胡にルーツを持ち、戦国時代にこの地に居住した牛込氏(大胡氏)が勧請した赤城神社

 台地上の若狭小浜藩・酒井家の広大な屋敷があった矢来町で右折し、すぐ牛込天神町で早稲田通りを左(西)に見送って、渡邊坂(旗本の渡邊氏の屋敷があった)を北へ下ると新宿区から文京区に入り、江戸川橋に出る。昔は坂下には田んぼが広がり、蟹川(新宿歌舞伎町付近を水源とする神田川支流)や用水路を渡って、いくつかの屈曲を経て江戸川橋に至っていた。

 江戸川橋神田川に架かる橋。橋の上流にあった大洗堰で取水した水が水戸家上屋敷(今の後楽園)を経て上水道として江戸市内に給水され、残りの水はここから江戸川と名を変えて、外堀の水と合わせて東へ流れて隅田川へ通じていた。昔は神田川(平川)は日比谷の入り江に注いでいたが、江戸城下を水害から守るため、幕府の命令で仙台藩が台地を切り開き、人工水路で隅田川へ流したのである。この水路は江戸城外濠として、また水運のルートとしての役割も担うこととなった。

 下の図は「礫川牛込小日向絵図」(1860年、画面下が北)の一部。赤線が嘉陵の歩いた推定ルート。画面左上が神楽坂、牛込御門方面。「渡部源蔵」屋敷前の坂を下り、田んぼの中を通り、並流する江戸川と神田上水を渡る。

 

 上の絵図では描かれていないが、江戸川橋の下で北から注ぐ川があった。弦巻川といい、西池袋にあった丸池を水源とし、雑司が谷を経て、ここへ通じていた。樋を埋設して上水の下をくぐらせ、江戸川に流れ込んでいたという。現在は全区間が暗渠化されている。

江戸川橋神田川を渡る。右側に弦巻川の流入口が見える)

 現在、江戸川橋を渡るのは九段下から飯田橋を経て、神田川沿いに来た目白通りで、橋を渡ると200メートルほど北上して西に折れる。しかし、昔は橋を渡ると、すぐ左へ曲って、目白の台地へ登って行った。これが旧道である。

 弦巻川の流路跡の上を通る首都高速をくぐり、目白通りの旧道を行く。すぐに目白坂が始まる。右手には大泉寺(浄土宗)、永泉寺(曹洞宗)、養国寺(浄土宗)と並び、その先には正八幡神社がある。

(正八幡神社

 この八幡神社前付近から坂が右へカーブするが、その左側にかつて目白不動尊の新長谷寺真言宗)があった。これが目白の地名の由来にもなっているが、戦災で焼失し、戦後、豊島区高田の金乗院と合併している。高台から早稲田の田園地帯を眺める景勝の地で、『江戸名所図会』にも描かれ、「境内眺望勝れたり、雪景尤よし」と記されている。境内には料理屋や茶屋もあったようだ。そして、この絵によれば、目白坂は不動尊の門前で石段になっていたことも分かる。そして、この不動尊の下あたりに神田上水を上水と江戸川に分流させる大洗堰があった。

 目白不動尊跡はマンションや住宅になり、もはや痕跡はない。昔から難所だった目白坂を登りきり、猿田彦命を祀る幸神社を左に見て、椿山荘の前で現代の目白通りと合流する。

(文京区関口二丁目の幸神社)

 椿山荘は今は藤田観光の経営するホテル・結婚式場として有名だが、江戸時代には久留里藩・黒田家の下屋敷があり、明治になって山縣有朋の所有となり、庭園が整備され、椿山荘と名付けられた。藤田財閥の手に渡ったのは大正時代のことである。

(椿山荘前)

 かつては肥後細川家の屋敷などがあった銀杏並木の目白通りを行く。やがてレンガ塀の日本女子大学があり、左手にはかつて「目白御殿」と呼ばれた「田中」の表札のある昭和の大名屋敷。今よりも広大だったかつての敷地の一部は隣接する文京区立目白台運動公園に組み込まれている。

 さらに行くと、左に大正時代の建築という鳳山酒店があり、その前で右から不忍通りが合流する。ここで文京区から豊島区に入る。南側は高田、北側が雑司が谷である。

(かつて四家町と呼ばれた一角に残る古い酒屋)

 まもなく右に鬼子母神(きしもじん)参道。南から登ってくるのは宿坂で、坂下には目白不動を合併した金乗院があり、その先には南蔵院、高田氷川神社神田川を渡る面影橋。この南北の道筋は昔の鎌倉街道だとも伝えられている。

 そして、この交差点を中心に東西に商家が並び、かつては四家町と呼ばれていた。今の地名でいえば、文京区目白台から豊島区高田、雑司が谷、目白にかけての目白通り沿いである。そして、鬼子母神参道入口の北西側に小久保清右衛門の家があり、嘉陵は昼食をごちそうになっている。

(嘉陵が描いた地図。右から来て、鬼子母神参道交差点付近の小久保宅で昼食)

 「四家町を過ぎて東北の方をかえりみれば、森の中に大行院の屋根が見える。今日の眺望はここに極まれり、である」

 嘉陵一行は清右衛門の案内で昼過ぎに改めて歩き出す。四家町を過ぎて、東北方向の森の中に大行院の屋根が見えるのが絶景であったらしい。大行院は日蓮宗・法明寺(南池袋三丁目)の塔頭で、当時から有名だった雑司が谷鬼子母神別当寺であった(鬼子母神の鬼の字は上に点が付かない角なしが正式な字である)。略図には大行院は見えたが、鬼子母神は見えずと書いてある。

(鬼に角がない)

 江戸時代から子授け、安産、子育ての神として信仰を集めた雑司が谷鬼子母神は永禄四(1561)年に清土(今の文京区目白台)の地中から掘り出された神像を雑司が谷の法明寺の塔頭・東陽坊に祀ったのが始まりとされ、天正六(1578)年に現在地にお堂が建立されたという。その後、現存する権現造の鬼子母神堂が造営されるが、本殿は寛文四(1664)年、拝殿と相の間は元禄十三(1700)年の建築と判明している。東陽坊は後に大行院となり、江戸時代を通じて大行院が鬼子母神堂の管理に当たったが、明治維新後に廃寺となり、法明寺と合併している。鬼子母神の石灯籠に「別當大行院」の文字が残っている。

鬼子母神境内の上川口屋。1781年創業で、嘉陵の時代にはすでにあった)

 嘉陵がいう「大行院の屋根」とは鬼子母神堂のことかと思ったが、嘉陵が描いた行程略図によれば、鬼子母神堂の北側に大行院が描かれている。現在の法明寺付近にあったようだ。いずれにせよ、現在はビルに阻まれて、目白通りからは見えない。

(法明寺。この境内に大行院はあったようだ。門前には弦巻川が流れていた)

 雑司が谷をあとに目白通りを行く。この通りは今の清瀬市清戸に通じる道ということで「清戸道」の古い呼称があるが、この名が文献に現れるのは明治になってかららしい。江戸時代には何と呼ばれたか分からないが、とりあえず、これからは「清戸道」と呼ぶことにする。起点は江戸川橋で、この先、しばらくは目白通りと重なっている。

 緑豊かな学習院大学を左に見て、まもなく山手線の目白駅前に着く。通りの南側は神田川の低地、北側は弦巻川の低地で、清戸道が低地に挟まれた尾根筋を通っているのが分かる。山手線はこの区間切通しで通り抜けている。このあたりで視界が開けて、田園の向こうに大行院の屋根が望まれたのかもしれない。

 

 「西北を望めば安藤対馬侯の屋敷があり、その左側が鼠山である」

 この部分、安藤屋敷について編註者の朝倉治彦氏は「文京区大塚二丁目、現お茶の水女子大学」と注釈をつけているが、これは誤りで、全く方向が違う。安藤対馬守の屋敷は現在でいえば目白通りの北側で、山手線の西側の一帯、目白三、四丁目付近にあった。当時は磐城平藩の第三代藩主・安藤信義(1785-1844)が当主であった。その安藤対馬守の下屋敷があった場所が鼠山と呼ばれた場所だが、行程略図によると、嘉陵は通りの南側を「鼠山」としており、脇道に逸れて、高台から落合方面の風景を眺めたようだ。

 「小径を登っていけば南面が打ち開かれていて、落合の方のこずえが見える。南西の端の方に木立が見えるが、そこが落合薬王院の森だと、近くにいた翁が言う」

 神田川妙正寺川が合流する落合の低地からみて高台に位置する一帯を鼠山と認識していたのだろう。『新編武蔵風土記稿』では豊島郡長崎村に鼠山に関する記述があり、「村の東南にて下落合村に隣れり、山とはいへと芝野なり。濶さ東西二町許、南北一丁餘、古椚の古木ありし故或椚山とも云」とある。クヌギの木がまばらに残る芝野だったようだ。

 すでに取り上げた「藤稲荷に詣でし道くさ」や「高田村天満宮詣の記」で嘉陵が下落合や上落合を訪れるのはこれより後のことである。

 

 つづく

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