嘉陵紀行「南郊看花記」を辿る(その1)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の江戸近郊日帰り旅のルートを辿るシリーズ。今回は江戸南郊の桜を見て歩いた記録である。当然、僕も桜の季節に歩くべきであったが、この日の記録を読むと、江戸からあちこちに立ち寄りながら池上本門寺まで歩いていて(もちろん徒歩で往復)、その距離の長さから二の足を踏んでいたのだ。それで代わりにずっと距離の短い文京区小日向の道栄寺から新宿区北新宿(旧柏木村)の円照寺まで花を見ながら歩いた道筋を前回辿ったわけだ。それでも「南郊看花記」は面白くて、やはり歩いてみたい。もう桜はわずかに八重桜が残るだけで、ハナミズキツツジと新緑の季節だが、とりあえず頑張ってみることにした。

 

「文政二己卯のとし三月廿五日(1819年4月20日、南郊の花見ばやと、辰の刻(午前八時)ばかりやどを出、朝まだきは空うすぐもりて、ふりもやせんと覚束なかりしも、芝の辺に行ころより空はれて、ことに風さえなく長閑也、小袖一きてあつき程なりけり」

 数えの六十歳になった嘉陵は当時はまだ浜町に住んでいた。家を出た頃は薄曇りで、雨が降りそうな天気だったようだが、芝付近まで来たら晴れて、風もなく、のどかなお花見日和。少し暑くなったらしい。

 僕は地下鉄銀座線の虎ノ門駅からスタート。虎ノ門ヒルズか開業し、江戸時代の人が見たら、卒倒しそうな景観である。

 その虎ノ門ヒルズの東側を南北に走る愛宕下通りは実は古代の東海道とも考えられる大変古い道である。

 やがて、右手に標高26メートルの愛宕山。江戸の最高峰で、山の上には愛宕神社が鎮座している。
 嘉陵が現代にタイムスリップしたら、江戸の風景の激変ぶりに唖然とするだろうが、ここだけは愛宕山だと分かるのではないだろうか。

 徳川家光の家臣・曲垣平九郎が馬に乗ったまま、この急な石段を登って、山上の梅の枝を取ってきて将軍に献上したことから、家光に称賛され、一躍名を挙げたという故事にちなみ、「出世の階段」として有名な愛宕神社男坂。歩いても、怖い(特に下り)。

 今は神様に対して不敬に当たるとして、石段でのトレーニング禁止の注意書きがある。

 愛宕神社。今でも出世を願うサラリーマンの参拝が多い。過去にお笑い芸人が熱心に拝んでいるのを見たことがある。

「あたごの山のつづき、切通しの坂をのぼり、少しひぢ折てゆけば、増上寺の門あり、入てゆくての右に柳、さくら、あまたうへられたり」

 嘉陵は愛宕山を右に見て、そのまま南へ歩く。すぐに愛宕山から続く山を背にした萬年山青松寺。文明八(1476)年、太田道灌が僧雲岡に命じて麹町貝塚に創建させた曹洞宗寺院で、慶長五(1600)年に当地へ移転している。

 青松寺の門前を過ぎ、交差点があるが、横断歩道がないので歩道橋をコの字に渡る。

 歩道橋から見た増上寺

 歩道橋を渡って交差点から西へ行くと、すぐ左へ入る道が切通し坂である。愛宕山から南へ連なる山を切り開いた坂という意味だろう。往時は坂の登り口の傍らに「時の鐘」があり、人々に時刻を知らせていた。坂は昔から道幅が広く、今は公衆トイレがあるせいか、タクシーの休憩場所になっている。

 東京タワーを見ながら坂を上ると、正面が正則高校で、右に曲がると、学校の敷地の先に左へ入る細道がある。

 切通し坂を上ると、増上寺の門があったというのはここのことで、広大な増上寺の北西に位置し、涅槃門と呼ばれる裏門があった。門の脇の恵照院に涅槃像があったことにちなむ名称のようだ。ただし、昔はもう少し西寄りだったかもしれない。

 涅槃門があった細道を行くと、芝公園に出る。かつての増上寺境内を公園化したもので、道路に区切られ、いくつもの地区に分かれている。当時は柳や桜がたくさん植えられていたそうで、今も桜はあるが、柳は見当たらない。

 嘉陵によれば、十四年前に市谷念仏坂から出火して、このあたりまで燃え広がり、近隣の金地院や薬師堂を焼失。さらに増上寺境内にも炎が及び、御霊屋(将軍の墓所)も危うく焼けそうになったことから、その後、ここにあった寺や町家を移転させて火除け地を設け、道を造り替えて、その際に桜や柳を植えたのだという。

 

「少し行て、道のかたはらに山あり、石階をのぼる事しばしばにして、上に白金いなりの祠あり、この山のふもとみな花なり、ことに鳥居の右ひだりにある二もとは、八重の薄いろなるが、今日をさかりのながめたぐひなし」

 

  「道のかたはらに山あり」の山とは芝公園内の丸山古墳(中腹に稲荷神社あり)かと思ったのだが、山の上の白金稲荷とは「金地院境」にあったという。上の絵図で涅槃門を入るとすぐ右側に「イナリ」があり、瑞蓮院前から南へ行くとまた「イナリ」とある。白金稲荷の正確な場所は不明だが、増上寺境内にあった白金稲荷を含むおよそ10の社は明治の神仏分離で現在は金地院の北にある幸稲荷に合祀されている。

 

 金地院の北に位置する幸稲荷神社。

 東京タワーのすぐ北側にある金地院。増上寺が浄土宗であるのに対して、金地院は臨済宗南禅寺派の禅寺で、京都南禅寺塔頭で江戸における宿寺であったという。開基は徳川家康、開山は家康の政治顧問でもあった以心崇伝和尚。元和五(1619)年、江戸城北の丸内に創建され、寛永十六(1639)年に当地へ移転している。

 金地院の向かい側が東京タワー。

 東京タワー東側のもみじ谷。嘉陵は東京タワーと増上寺の間を歩いたはずだが、このあたりは往時の面影がいくらかは残っているだろうか。嘉陵が歩いた時は桜がちょうど見頃であったようだ。

 嘉陵は増上寺には過去に何度も参詣していたからか、この時は境内を北から南へ花を見ながら通り抜けただけのようだが、僕は久しぶりなので、ちょっと立ち寄る。東京タワー周辺も増上寺も外国人観光客だらけである。

 増上寺は明徳四(1393)年に開かれた浄土宗の寺で、創建時は今の千代田区平河町から麹町にかけての武蔵国豊島郷貝塚にあり、徳川家康の江戸入府後、徳川家の菩提寺に選ばれ、慶長三(1598)年、現在地に移って、寺は大いに発展した。徳川家墓所には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍とその正室、側室の墓がある。

 東京タワーに見下ろされる徳川家墓所

 墓所の前に並ぶ四菩薩。左から文殊、虚空蔵、地蔵、普賢菩薩。鎌倉期の造立ともいわれ、かつては愛宕山から増上寺境内へと連なる丘陵のうち、増上寺の北部にある地蔵山にあって、街道を見守っていたともいう。

「ここより赤羽門に行みちのかたはら、みな花の木を植をうえらる、年へなばさぞとしのばるるまでになん、瑞蓮院の東池の弁才天の嶋にも、よき花四五株あり、ことに祠の門のかたはらなるは、木もややふりて花いとうるはし、はた向ひの岸には、山ぶきさへ咲おほりて、春ふかみ行いろ、いはまくもさら也」

 嘉陵が歩いた道筋にはずっと桜が植えられ、まだ若木だったようだが、年月を経て木が育った後の花の美しさに思いを馳せている。

 「瑞蓮院の東池の弁才天」とは今もある池の中の島に祀られていた。この池は昔は今よりも大きく、蓮が植えられ、中の島にも弁天堂のほか、桜が四五本植えられて、上野不忍池を小さくしたような感じだったらしい。この弁才天平安時代の作といわれ、源氏や北条氏の手を経て増上寺に伝わり、家康の念持仏にもなっていたが、一般の人もお参りできるように、と貞享二(1685)年に弁天堂が建立され、別当として宝珠院が池のほとりに創建された。弁才天は現在は宝珠院の堂内に秘仏として奉安されている。

 瑞蓮院は正徳六(1716)年に有章院(七代家継)廟の別当として建てられ、その後、惇信院(九代家重)廟の別当も兼ねた。ただし、場所は増上寺境内の北西、今の正則高校付近にあった。ちょうど弁天池(白蓮池)に一茎二花の蓮が咲いたことにちなむ名称だという。嘉陵は宝珠院と瑞蓮院を混同したのだろう。

 お寺らしからぬ建築の宝珠院。弁才天のほか、閻魔、本尊の阿弥陀如来などを奉安。

 現在、徳川家墓所は安国殿の裏にあるが、かつては本堂を挟んで北(現在の東京プリンスホテル付近)と南(現在の東京プリンスパークタワー付近)に分かれた大規模なもので、戦災で焼失してしまったため、戦後、発掘され、将軍らの遺体は詳しく調査された後、改めて荼毘に付されて現在の墓所に改葬されている。

 

 増上寺の南側に隣接する芝東照宮

 徳川家康が還暦を迎えた記念に彫らせた自身の像(寿像)を家康の死後、その遺言によって増上寺に祀っていたが、明治の神仏分離増上寺とは切り離して家康を祭神とする東照宮を建立し、家康寿像をご神体として祀っている。

 嘉陵が見た八重桜もこんな感じだったか。

 嘉陵は桜のほかに山吹も咲いていたと書いている。芝公園の山吹。

 東照宮の裏手には丸山古墳。東京都内では最大級の前方後円墳で、自然の地形を利用して5世紀頃に築造されたと考えられる。中腹に丸山稲荷が鎮座し、増上寺の裏鬼門を守っていた。

 この丸山の西側は現在、東京プリンスパークタワーとなっているが、昔は二代将軍・徳川秀忠(台徳院殿)らを祀る霊廟があった。

 

 さて、嘉陵は増上寺を南の赤羽門から出て、ここから桜田通り(国道1号線)に入って古川に架かる赤羽橋を渡り、さらに南へ向かう。赤羽橋にはアジア系の外国人が大勢いて、みんな東京タワーを背景に入れて、さまざまなポーズを取りながら写真を撮っている。恐らく、SNSで有名な撮影スポットなのだろう。

 

 首都高速が真上を走る赤羽橋から芝公園方面を振り返る。外国人がたくさん写真を撮っている。

 赤羽橋の下を流れる古川。上流は渋谷川である。

 ここからしばらくは大田区の洗足池まで歩いた時と同じルートである。ただし、時系列でいえば、「南郊看花記」は文政二年、「千束の道しるべ」は文政十一年で、「南郊」のほうが9年も前の話である。

peepooblue.hatenablog.com

 

 つづく

peepooblue.hatenablog.com