急行「だいせん1号」

 9月8日、日曜日。西宮の祖父母宅で朝を迎え、弁当まで作ってもらって、9時前に出発。空は青く、今日も暑くなりそうだ。
 まずは新大阪に出て、益田行きの急行「だいせん1号」(701D)に乗車。7両編成の古ぼけたディーゼルカーは9時42分に出発した。車内はガラガラで、僕のいる7号車(キハ28-3005)にはわずか2人しか乗っていない。
 ところが、次の大阪駅に着くと、ホームには大変な行列ができていて、ドアが開くと同時に先を争うようにドッと乗り込んできた。今日は日曜日ということで、家族連れやカップル、その他の行楽グループで車内はあっという間に満員御礼。あちこちで賑やかな関西弁が飛び交った。関西の言葉もテレビなどを通じて耳には馴染んでいるけれど、こうして関西人に完全に包囲されてしまうと、関東人としては、ちょっとした異邦人気分になる。とりわけ7号車にはオバチャンの団体がドドドドッと乗ってきたので、その騒がしさといったら尋常ではない。まぁ、いいか。

 とにかく、そういう状態で列車は大阪を発ち、尼崎から福知山線に入って山陰をめざすが、車内放送を聞いていると、この7号車は途中の豊岡で切り離されると言っている。まだ、どこで降りるか決めていないが、たぶん豊岡よりは先まで行くだろうから、そこで他の車両に移らないといけない。再び、まぁ、いいか。

 宝塚でかなりの乗降があった。福知山線の複線電化区間はここまで。この先は非電化の単線となる。大阪平野に広がる近郊風景も途切れ、列車は山の中に入る。東京でいえば中央線で高尾を過ぎたのと同じで、車窓の急変ぶりに驚いた。
 線路はしばらく武庫川の渓谷に寄り添い、右に左にカーブして、トンネルをくぐって、細々と続く。
 緑濃き峡谷を流れる武庫川の水は時に白い飛沫を立てて激流となり、時に深い緑色の澱みとなって静止する。変化に富む車窓の渓谷美に釘付けになっていたら、川中の白く乾いた岩の上で亀が2匹甲羅干しをしていた。

 (福知山線のこの区間は複線電化の際に新線に切り替えられ、現在ではこの車窓風景は失われました。)

 列車はいきなり素晴らしい風景を見せてくれたが、峡谷を抜けると、あとはわりと平凡な山あいの町を結んで走る。
 黄色い稲穂が秋の気配を感じさせるのどかな田園風景の中、やがて篠山口に到着。ここから少し東に入った篠山は古い城下町だそうで、ちょっと立ち寄ってみたい気もするが、今回はさらに先へ進む。

 急行列車は篠山川の清らかな流れに沿って旅を続ける。この列車の終点、益田というのは島根県の西のはずれで、到着は20時47分だから、まだまだ先は途轍もなく長い。ただし、急行として走るのは途中の米子までで、そこから快速、さらに浜田からは普通列車と、だんだん身分が下がっていく。

 さて、時刻は11時を回った。オバチャンたちはそれぞれに持ち寄った弁当を広げて、大はしゃぎ。もう亭主のことなんてすっかり忘れちゃったワ、ってな具合である。こちらも腹が減ったので、弁当を出す。
 ところで、この列車をどこで降りるかが当面の問題。今日の宿泊地は餘部というところにあるユースホステルで、昨日のうちに予約してある。しかし、この急行はその餘部には停まらない。餘部の手前の停車駅は香住で、海岸の美しいところらしい。そのほか、志賀直哉の小説で有名な温泉地、城崎なども考えたが、結局は香住まで行ってみようかという方向で気持ちが固まった。考えている間におにぎりを2つ食べた。

 京都からの山陰本線と合流して、京都府北部の福知山には11時56分に着いた。さすがに幹線の主要駅だけあって、大きな駅であるが、鄙びたムードが漂っている。しかも、米子からの列車がDD51に旧式の客車を連ねた編成で到着したから、いよいよ山陰へやってきたぞ、という気分になってきた。今春限りで東北地方の旧型客車が消えた今となっては、こんな古ぼけた汽車が走っているのは北海道の函館本線とここ山陰本線ぐらいのものだ。

 さて、「だいせん1号」は福知山を発車して次の停車駅、下夜久野へ向かう。山陰本線といえば日本海に沿って走るという印象が強いけれど、海が見えるにはもうしばらく待たねばならない。
 やわらかな稜線を描く山々に囲まれ、黒光りする独特の屋根瓦が目につく農村風景を眺めながら、列車は緑の山裾を縫うように走る。田園にはサギがたくさん舞っていて、真っ白なシラサギに混じって頭部が黄褐色のアマサギもいる。

 豊岡到着は12時59分。今まで乗ってきた車両はここで切り離されるので、前の車に引越し。満員だった車内もここまで来ればガラガラで、楽に座れた。賑やかなオバチャンの一行もここで宮津線に乗り換えるらしく、跨線橋を渡っていった。天橋立にでも行くのだろう。
 豊岡を出ると、次は城崎である。すでに京都府から再び兵庫県に入っているが、ガイドブックの地図を見ると、城崎を過ぎてようやく待望の日本海が見えるようだ。
 山陰の海はどんな色をしているだろうか、と考えながら、車窓をゆったり流れる円山川を眺めているうちに、だんだんイライラしてきた。またまたオバチャン軍団だ。
 車内は確かに空いている。しかし、数少ない乗客におけるオバチャンの含有率がひときわ高く、これがギャハハハハハハハハ、と下品な馬鹿笑いの連続攻撃で、実に喧しいのである。なぜそんなに笑うのかといえば、軍団の中に若干名存在するオッチャンが原因。「一応女性(オバチャン)」に囲まれて大はしゃぎのオッチャンがギャグを連発し、それが大受け、というわけなのだ。で、オッチャンはますます調子に乗って、下品なギャグを次々と繰り出し、さらに一層ギャハハハハハハハハハハハハハハ、となるわけで、この恐怖の悪循環は果てしなく続いていくのである。全く困ったもんだ、と思いながら弁当の続きを食った。

 満々と水を湛えた円山川のおおらかな流れに沿って走ってきた列車は城崎に着いた。思っていたより、こじんまりとした風情のある駅で、ちょっと寄り道してみたくなったが、その前に列車が動き出した。

 城崎を出て、続く竹野にも停車した「だいせん1号」は緑の中を走る。
 もうじきだな、と思いつつ窓の外を見つめていると、列車はトンネルをくぐり、まもなく車窓いっぱいに真っ青な日本海が広がった。旅をしていて最初に海が見える瞬間のこのウワーッという感じが好きだ。
 しかし、列車はすぐにまたトンネルに入る。そして、闇を抜けるとまた海。線路はかなり高い位置を通っているので、岬に囲まれた入江の全景を上から俯瞰できる。緑の岬、小さな漁村、岩礁が透けて見えるエメラルドグリーンの海…。
 日本海の絶景をトンネルの合間に断片的に見せながら急行列車は走り続け、車窓に少し大きめの漁港が見えると、そこが香住であった。
 13時39分着のこの駅で下車。改札口の上に掛かる時刻表を確かめると、次の普通列車は15時04分発、その次が16時53分発である。そのどちらかに乗ることにして、荷物をロッカーに預け、駅前の通りを歩き出すと、海岸まではすぐだった。


     餘部鉄橋

 16時53分発の米子行き529列車はディーゼル機関車DD51-1121に牽かれた古い客車の編成だった(乗車車両はオハフ33-352)。今年の春、北海道旅行の帰りに青森から盛岡まで乗って以来である。
 古風な汽車に揺られること数分。鎧駅を出て、トンネルをいくつか抜けた途端、列車は空中に飛び出した。有名な餘部鉄橋だ。明治44年に完成した老朽橋で、長さ310メートル、高さは41メートルもある。眼下には餘部の集落。山陰本線日本海に面する谷に開けたその集落の上空を高い鉄橋で飛び越えているのだ。
 橋を渡りきると餘部駅で、17時07分に着いた。一本の線路にホームを添えただけの小さな無人駅で、鉄橋の脇に集落へ下りる小道がつけられている。どこかの登山道みたいであるが、これが駅と集落を結ぶ唯一の道らしい。
 山あいに開けた海辺の集落。木を組んで作った稲架に刈り取られた稲が掛けてあり、道端には秋の花が咲いている。海に注ぐ小さな川には小魚がたくさん泳いでいる。山紫水明、昔ながらの日本の田舎の風景。
 そこから鉄橋を見上げると、さすがに高い。鉄骨を組んだ橋脚が何本も並び、その上に橋桁を渡してあるのだが、鉄橋が長いうえに単線だから、やけにか細く見える。なんだかジェットコースターみたいで、列車が渡るにはちょっと頼りないぐらいに思われた。

 この餘部鉄橋から回送中のお座敷列車の客車が突風に煽られ転落し、直下のカニ加工場を直撃、車掌と工場の従業員の計6名が亡くなったのは、この旅の翌年、1986年12月28日のことでした。
 明治時代から風雪に耐え続けてきたこの鉄橋も2010年8月に新しいコンクリート橋に切り替えられました。