水郡線の旅

 9月3日(日)。青春18きっぷを使って、この夏4回目の旅。

 数日前からの天気予報で日曜日は雨ということだったので、いくつかあるプランの中から天候不問のずっと列車に乗りっぱなしのルートを選ぶ。

 朝起きたら、意外にも青空に月が浮かんでいるので、念のため、鉢植えの植物に水をやってから家を出て、上野発6時49分発の常磐線で8時45分に水戸に着いた。

 土浦付近のハス田は1か月前は花が咲いていたが、今回はもう一部でレンコンの収穫が始まっていて、胸の下まで水に浸かった人の姿が見えた。

 さて、今日はこれから水郡線福島県の郡山まで行き、磐越東線でいわきに出て、また常磐線で戻ってくるという予定である。水郡線磐越東線に乗るのが主な目的だが、どちらも運転本数が少ないので、途中下車はせず、ひたすら乗り続けるだけの予定。雨の日に合わせたプランなのだが、水戸まで来ても、雲はいくらか多めながら青空である。

 

 次の水郡線は9時06分発だが、これは途中で支線に入る常陸太田行き。その次が9時23分発で、郡山まで直通する。郡山までは142.4キロあり、3時間以上を要するが、その次の郡山行きは13時15分発までない。従って、首都圏発で水郡線を走破しようと思うと、この9時23分発が最適で、僕のほかにも青春18きっぷを持っているらしい人たちがたくさんいる。

 1番線で発車を待っているのはカラフルなディーゼルカーキハE130系の4両編成。しかし、郡山まで行くのは前2両だけ。従って、その前2両に乗客が集中している。ほとんどが郡山まで乗り通す人たちだろう。発車まで時間があるので、一度改札を出たりして、のんびりしていたが、乗り込んでみると、すでに大方の席は埋まっていた。水戸黄門一行の銅像など撮っている場合ではなかった。座れたからよかったけれど。

 隣の席に座った女性に「この車両は郡山まで行きますか?」と聞かれたから、この人も全線乗り通すのだろう。用事があって乗っている人ももちろんいるだろうが、用もないのに乗っている人の方が多そうに見える。僕もその一人である。

 さて、列車は定刻に水戸を発車。すぐに常磐線から分かれて、左にカーブして勾配を上りながら切通しを抜ける。この切通しは水戸城本丸下の堀の跡なのだそうだ。そして、すぐに那珂川を渡る。この川も城を守る堀の役目を担っていたのだろう。

 しばらくは水戸市郊外の田畑も残る住宅地を行く。のどかな風景になったり、また住宅が増えたりを繰り返しながら、列車は各駅停車で進み、9時40分に上菅谷に着く。常陸太田方面との分岐駅で、隣に常陸太田行きが待っている。水戸で先発した列車がここで20分も停車して待っていたのだった。

 上菅谷を出ると、常陸太田方面の線路が直進で、郡山方面は左へカーブしていく。もともと水郡線のルーツは明治時代に開業した水戸~常陸太田間の鉄道が始まりで、大正以降に上菅谷から郡山方面へと少しずつ延伸して、最終的に全線開通したのは昭和九年のことである。

 列車はなおものどかな風景の中を行く。9時56分着の常陸大宮はかつての大宮町が周辺の町村と合併して2004年に常陸大宮市となっていて、ここまでは列車本数も多い。といっても、1時間に1本程度だが。

 常陸大宮の次の玉川村で水戸行きと行き違いがあり、その次の野上原を過ぎる頃から、右車窓に久慈川が寄り添ってくる。この水郡線には「奥久慈清流ライン」という愛称がついている。国鉄時代は上野からの急行「奥久慈」号が水郡線に乗り入れていたものだ。

 車窓にはだんだん山が迫ってきて、列車は何度も久慈川を鉄橋で渡り、トンネルを抜けながら進み、10時33分に袋田に到着。有名な袋田の滝の最寄り駅である。一度行ってみようと思いながら、まだ行ったことがない。

 駅に「ミニ袋田の滝」があった。水は流れていないが、白い部分が滝である。

 袋田の次は水郡線の中核駅、常陸大子(だいご)。10時39分着、5分停車の間に後ろ2両を切り離し。ここには車両基地があり、転車台もあった。

 ところで、常陸大子まで来るのは2006年9月以来だから、17年ぶりである。当時は坂東三十三か所の観音霊場巡りをやっていて、その中でも最難関と言われ、茨城県最高峰・八溝山(1022m)の八合目付近にある第21番札所・日輪寺に参拝した時、大子からバスで45分、さらに登山道を1時間半歩いて、ようやくたどり着いたのだった。あの時の水郡線は1世代前のキハ110系が走っていた。

 

 さて、常陸大子からは2両編成のワンマン運転となって、さらに北へ走る。それでも山間に田んぼが広がる風景で、山奥という感じでもない。

 茨城県最後の駅、下野宮を出ると、だんだん地形が険しくなり、久慈川沿いにそそり立つ巨岩が目につくようになる。

 10時57分に矢祭山駅に到着。ここから福島県だ。国鉄時代は駅名標の駅名の下に小さく「○○県△△町」などと駅のある自治体名が記されていて、それを目にして「ついに○○県までやってきたか」などと感慨が湧いたものだが、今はそれがなくなって、少し寂しい。

 車窓に渓谷に架かる赤い吊り橋が見え、散策路も設けられている。途中下車してみたいが、列車が少ないので、降りるわけにはいかない。

 矢祭山を出ると、次は矢祭町の中心・東館に着く。いよいよだな、と思う。

 何がいよいよなのか、というと、水郡線は東館から磐城棚倉までの約20キロ、棚倉構造線に沿って走るのだ。

 棚倉構造線とは福島県棚倉町から茨城県常陸太田市にかけて北北西から南南東の方向に約60キロにわたって続く横ずれ断層で、この構造線を北へ延長すると、福島県から山形県を通って日本海へ抜け、さらにロシア沿海州方面へ通じているともいう。東北地方から北関東にかけてを斜めに断ち切るような大断層なのだ。

 とにかく、ここまで曲がりくねっていた線路は東館から棚倉までは直線的に北上する。車窓の両側に続く低い山並みは右(東)側が阿武隈山地阿武隈高地)で、左(西)が八溝山地である。両山地の地質は明瞭に異なっているという。それぞれの山地に沿って、棚倉東縁断層と棚倉西縁断層が並行して走り、二つの断層の間は幅がおよそ3キロの平坦地で、これが棚倉破砕帯。破砕帯の上を水郡線は北上し、久慈川が南へ流れている。

 ただ、実際に来てみると、のどかな山間の田園地帯にしか思えないのだが、地質の専門家には素人とは違う見え方があるのだろう。

 列車は11時26分に磐城棚倉に到着。久慈川河岸段丘上に位置する城下町だ。

 棚倉を出ると、列車はエンジンを震わせて上りになり、低い分水界を越えると、阿武隈川水系に出て、磐城浅川に停まる。駅の観光案内板に即身仏らしき写真があったので、あとで調べてみたら、浅川町の貫秀寺に安置された弘智法印宥貞のミイラで、福島県内では唯一の即身仏だという。宥貞は出雲出身の僧侶で、諸国を行脚して修行を積み、天和三(1683)年、九十二歳の時、浅川の地で疫病から人々を救うため、村人に薬師如来の教えを説いた後、みずから石棺に入り、生命が絶えるまでお経を唱え続け、即身仏になったという。現在は寺の薬師堂に安置されているとのこと。

 さて、水郡線北部の主要駅・磐城石川も過ぎ、列車はひたすらのどかで緑豊かな風景の中を走る。雲はもくもくと湧いているが、天気が大きく崩れることはなさそうだ。

 すでに正午を回っている。ずっと座っているのも、少し疲れた。終点まであと数駅になったところで、席を立つ。

 12時20分に磐城守山を出て、やがて阿武隈川の鉄橋を渡ると、左手に東北本線の線路が近づいてきて、並走し、すぐに新幹線の高架をくぐる。まもなく水郡線の終点・安積永盛だ。


www.youtube.com


 昔、東北や北海道を旅した帰りに上野行きの特急「ひばり」や急行「八甲田」「まつしま」など東北本線の列車に乗っている時、郡山を出て、次の安積永盛を過ぎると、水郡線の線路がしばらく並行し、やがて左へカーブして遠ざかっていき、その先に阿武隈川の鉄橋がある、という光景を何度も眺めたのを思い出す。中学生~高校生の頃で、当時はまだ水郡線には乗ったことがなかった。そして、東北新幹線もまだ開業前だった。

(左端の水郡線から東北線の上り線を横切り、下り線に入る)

 昔は東京と東北各地を結ぶ特急や急行がひっきりなしに走っていた東北本線も今はローカル列車だけになって、すっかり寂しくなってしまったが、貨物列車だけは変わらない。

 水戸から3時間10分、12時33分に郡山到着。

 ここから福島行きや会津若松行きに乗り換えられるが、僕はいわき行きの磐越東線に乗る。まだ時間があるので、いったん改札を出る。

 つづく