急行「津軽」の旅

 上野と青森を奥羽本線経由で結んでいた伝統の夜行急行「津軽」。山形新幹線の工事の関係で仙山線経由となり、車両も583系電車となった末期の「津軽」号の乗車記。

 
 駅に停まる列車の揺れで目が覚めた。
 どこだろう…。
 身を起こして寝ぼけ眼で車窓を見やる。
 「しんじょう」
 駅名標の文字が電灯に浮かび、夜明けのプラットホームには白いものが見える。
 乾いた都会の日常は夜の彼方に遠ざかり、列車はいつしか雪国にさしかかっていた。

*     *     *     *     *

 平成4年2月28日、夜の上野駅、薄暗い汽車ホーム。
 今宵もまた急行「津軽」で北へ帰る人々が集い、新聞紙を広げて、どっかと腰を下ろして待っている。酒を飲んでいる人もいる。傍らには大きな鞄やお土産の紙袋。昔ながらの上野駅の人間模様は今も細々と受け継がれているのだった。
 折しも、隣のホームに信州からのスキー列車が到着し、派手なファッションに身を包んだ若者たちがゾロゾロと降りてきた。「津軽」の客とは実に対照的な群像。しかし、疲れているのか、どの顔にも生気がない。みんな俯き加減で無言。重い足取りで、大きなスキーバッグをゴロゴロと引きずりながら歩いていく。お通夜より暗い行列である。
 それに較べて、「津軽」を待つ人々は全体的に年齢層が高く、服装も地味。しかし、暗くはない。明るくもない。普通である。仲間同士で一杯やりながら、あるいは、ひとり黙然と…。それぞれの想いを抱いて、故郷へ走る列車を待っている、そんな感じ。
 せわしない都会の雑踏の片隅で、そこだけ時間が止まったように、東京の下町と遠い北国の空気が混じり合い、熟成し、上野駅ならではの風情を醸している。そこはかとなく漂う旅情に、これから始まる旅への想いがじんわりと膨らんでくる。

 金曜日のせいか、今夜の「津軽」はかなりの盛況で、「指定席は満席」とアナウンスがあった。僕の隣にはパンチパーマにジャンパー姿の兄さん。発車間際に乗ってきて、荷物を棚に載せると、フーッと一息。
「あっちで酒飲んでたら、遅くなっちまった」
 ようやく席を見つけて、やれやれといった表情だ。
 どこまで行くのか、と聞かれ、東能代まで、と答える。
「俺は二ツ井
 二ツ井東能代の次だから、あるいは同郷人と思われたかもしれない。

『22時37分発車の青森行きの津軽号でございます。…なお、大宮到着は23時02分です。小山には23時50分、宇都宮0時12分、西那須野0時45分、黒磯0時56分、郡山1時58分、福島2時38分、仙台4時ちょうど…』
 車掌にも北国の訛があって、アナウンスに独特の味がある。
『…山形には5時01分、天童5時19分、神町5時25分、東根5時30分、楯岡5時35分、大石田5時47分、新庄6時06分、真室川6時21分、横堀6時50分、湯沢7時05分…』
 淡々と告げられる停車駅と到着時刻。乗客の中には望郷の想いを胸に秘めて、故郷の駅の名を聞く人も多いのだろう。ひとつひとつの駅名の背後に、それぞれの土地ごとの風土や歴史や人々の暮らしがある。そして、深夜から未明、夜明け、朝へと移ろう時間の流れ。夜汽車の車内放送は一篇の詩である、と僕はいつも思う。
『…弘前10時46分、川部10時52分、浪岡11時02分、終点の青森11時26分。青森到着は11時26分でございます。…今日は津軽号をご利用いただきましてありがとうございます。最初に停まる駅は大宮、11時02分の到着です』
 遥か遠い「津軽」の旅路である。
『16番線から急行、津軽号、青森行き、まもなく発車を致します。ご利用のお客様は…』
 駅のアナウンスが発車間近を告げ、ベルが鳴り出す。
 22時37分、急行「津軽」は定刻通り、滑るように動き出し、上野駅のホームを離れた。

「これ、下に敷いて靴脱ごうと思ってサ、それで買ったんだ。読む?」
 隣の兄さんが差し出す夕刊紙を借りて、ひと通り記事を眺めてから、足元の床に広げ、僕も一緒に靴を脱いで、足をのせた。夜の旅は長い。

 大宮を出て、都会のネオンをあとにすると、車内放送も明朝まで中断。列車は速度を上げて、夜更けの関東平野を北上する。
 窓ガラスに映る車中の人々は早くも眠りについていたり、缶ビール片手に週刊誌を読んでいたり、目を閉じてウォークマンで音楽を聴いていたり、とさまざま。僕はといえば、窓に額を寄せて、夜の車窓風景をぼんやり眺めていた。
 民家のあかりや青白い街路灯や踏切待ちの車のヘッドライトや深夜営業のストアやドライブインやモーテルのネオン…暗闇の中を次々と流れてゆく光の数々。灯りの消えた駅の佇まい。妙に心に残る信号灯の色。深夜の停車駅の水銀灯の空虚な明るさ。なにやら銀河鉄道に乗ったジョバンニのような気分になってくる。
 見知らぬ町の見知らぬ人々が眠る夜。急行「津軽」は赤いテールランプの印象を闇路に残して、夜の果てまで駈けてゆく。


*     *     *     *     *


 急行「津軽」は黎明の新庄をあとに奥羽本線を北上する。
 窓の外は雪景色。夜明けのブルーに染まっている。
 明るさが増すにつれて、深い藍色の空は徐々に色を失い、白々と墨絵のような朝が来た。山の峰々には雲が低くかかっている。
 満席だった車内にもいくらか余裕が出てきた。夜の長旅で身体が冷えたのか、女性客がくしゃみを連発している。着替えを始めるおじさんもいる。車中の一夜が明けて、誰もがすっかり無防備になっている。それぞれの日常が垣間見られる夜汽車の朝。
 寝不足のわりには目が冴えて、雪原を横切るキツネが見えた。

 明るくなっても太陽が出ないまま、秋田を過ぎ、八郎潟干拓地を左に眺めて、列車は9時24分に東能代に着いた。
「じゃあ、どうも…」
 二ツ井までの兄さんと別れの挨拶を交わして、列車を降りると、いつしか小雨がぽつぽつと降り出していた。