志賀島サイクリング
博多のホテルを朝7時過ぎに出発。夜まで時間はたっぷりある。市内見物もいいけれど、少し遠乗りがしたくなり、福岡市北東部の志賀島へ行ってみることにした。片道30キロぐらいの行程だが、対馬のようなアップダウンが全くないので、楽なものである。対馬には全くなかったコンビニエンスストアやファストフード店が沿道にいくらでもあるというのもサイクリングにはありがたい。
今夜乗船するフェリーの出る箱崎埠頭を下見してから、国道3号線を北九州市方面へ走り、香椎から和白通りに入り、博多の街から北へ15キロほどの和白で左折。ここからいわゆる「海ノ中道」を南西方向へ向かう。博多湾と玄界灘を仕切る砂州を行く道で、かつては福岡国際マラソンのコースにもなっていた。
博多からずっと博多湾を取り巻くようなルートを走ってきたので、けっこう走ってきた気がするけれど、海の向こうには博多の街が望まれる。
砂丘地帯を走るJR香椎線に沿っていくと海ノ中道海浜公園やマリンワールド水族館がある。いわゆるアーバンリゾートで、沿道にはなぜか警備員の姿が目につく。何があるのかと思えば、どうやらサザンオールスターズのコンサートがあるらしい。
(海の中道駅)
香椎線の終点・西戸崎駅前を過ぎると、いよいよ先端が近いな、という感じになってきた。左手には博多湾が松林越しに広がり、右手の砂丘の向こうにも玄界灘が見えてくる。風で飛ばされてきた砂で歩道は完全に埋もれている。
波静かな博多湾と荒波打ち寄せる玄界灘という対照的な海の狭間の砂州の先端部に橋がかかり、その先が志賀島。周囲11キロほどの島である。
博多埠頭からの市営航路の桟橋を左に見て、集落を抜け、島を時計回りに走り出す。
まもなく、博多湾に面した金印公園。志賀島といえば金印である。1784年に地元の農民によって発見された「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)の文字を刻した金印は西暦57年に後漢の光武帝から奴国の王に授けられたものとされ、その出土地である公園には金印のレリーフがある。現物は福岡市立美術館で保存されているそうだ。ちなみに「奴国」とは今の福岡市の周辺であったらしいが、漢字の意味を考えると、かなり屈辱的な印ではある。それでこんな辺鄙な場所に埋もれていたのだろうか。
(金印公園のレリーフ)
(金印塚バス停)
金印公園をあとに海沿いの道をたどると、今度は蒙古塚。元寇の時、嵐に見舞われ船が難破した元軍の兵士たちの遺体が打ち上げられ、埋葬された場所だという。博多湾沿いには今も元寇に備えて築かれた防塁跡が点々と残っているが、九州の地に立って日本の歴史を思うと、東京にいる時とはまるで違った姿に見えてくる。
その蒙古塚を過ぎてまもなくマムシを踏みそうになった。さいわい死骸だったが、野生のマムシを見るのは初めてのような気がする。
島の突端近くになると海水浴場や国民休暇村、ビジターセンターなどが整備されリゾート地らしい雰囲気になってきた。
ロードレーサーで飛ばしているサイクリング集団に追い抜かれたが、張り合っても仕方がないから、海岸でひと休み。
(玄界島)
外海に面して沖合いに玄界島が浮かぶ風光明媚な海水浴場で、行楽客も多いが、もう泳いでいる人はいない。というより、もはや泳げるような状態ではない。風が強く、波も荒く、曇り空のせいもあり、寒々として、まるで冬の海のようである。
島の東半分は険しい岩場に日本海の荒波が噛みつく最果てのような風景。大都市近郊とは思えない寂しい海岸だが、ここも福岡市の一部なのだった。
志賀島からの帰り道、博多湾沿いを走っていると、ちょうど厳原からのフェリーが博多港に入港するのが見えた。
香椎駅前のマクドナルドで遅い昼食をとり、西鉄とJR鹿児島本線の鉄橋が並ぶ多々良川で電車の写真を撮ったり、SLやブルートレインが保存されている貝塚公園に寄ったり、日本三大八幡宮のひとつ、筥崎八幡宮を参拝したりしながら博多に戻り、午後の残りの時間は博多の街なかを気の向くままに走り回った。
(特急にちりん35号)
(特急ソニックにちりん26号)
(貝塚公園のSL9600形、49627号機。大正9=1920年製造、筑豊地方の石炭輸送などに活躍し、昭和43年廃車)
(ナハネフ22-1007。東京~博多間の寝台特急「あさかぜ」などに使用され、晩年は門司港~西鹿児島間の急行「かいもん」で使われていたようだ。)
宇佐、石清水とともに日本三大八幡宮に数えられる筥崎(八幡)宮。祭神は応神天皇のほか、神功皇后、玉依姫命をあわせてお祀りしている。創建年代は不詳ながら、神社の縁起では平安中期の921年とされているようだ。
(筥崎八幡宮)