嘉陵紀行「半田いなり詣の記」を辿る(その2)

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)が文化十四年六月十五日(1817年7月28日)に浜町の家から今の葛飾東金町にある半田稲荷に参詣した日帰り旅のルートを辿った話の続き。僕は浅草から歩き出し、東京スカイツリーの下から曳舟川跡の曳舟川通りをまっすぐ歩いて、江戸時代にはなかった荒川を渡り、葛飾区四つ木までやってきた。

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 嘉陵はここにあった二軒茶屋のひとつで休憩後、舟に乗っている。嘉陵は隅田川を渡って、ここまでずっと用水沿いの四ツ木通り(今の曳舟川通り)を歩いてきたが、この用水はもとは本所地区などに飲料水を供給する上水で、本所上水などと呼ばれていた。しかし、上水としての役目を終え、農業用水に転換されてからは古上水堀と呼ばれたという。そして、四ツ木から上流では亀有村までの二十八丁(約3キロ)の区間で乗合舟が運航していた。

歌川広重『絵本江戸土産』より「四ツ木通 引舟道」)

 この舟は水路の幅が狭く、底も浅いため、櫓を漕ぐことができず、舟に繋いだ綱を人が岸辺を歩きながら引くという珍しいもので、当時は有名だった。曳舟川の名前もそこに由来する。3キロ程度の区間だから、嘉陵にとっては苦もなく歩けたはずだが、楽に移動できるだけでなく、その風雅さを味わう一種のアトラクション的な面白さもあったのだろう。江戸の人たちにとっては人気の乗り物だったようである。嘉陵によれば、舟は合計14艘あったというが、ほぼ同時期に出版された『新編武蔵風土記稿』によれば12艘だったという。また嘉陵の払った料金は24銭(文)だった。ちなみに当時、蕎麦一杯の値段が16文程度だった。

茶店の前から舟に乗る。乗り合わせたのは四人。みな水戸の方へ行く旅人である。」

 この後、嘉陵は興味深いことを書いている。

 一昨日の十三日から、涼しさを越えて冷ややかなほどの日が続いている。昨日の祇園会に行った時には、綿入りの絹や単衣のものなどを重ね着してすませたけれども、夜は寒さに耐えられなかったほどである。今日もあわせの絹を一重重ねて着てきたが、東風が冷たく吹いていて、舟に乗っている間中寒かった。この月の七日に土用に入ったが、それ以降暑い日は一日もない。また雨も降らない。空は晴れて雲もないのに、このように冷ややかなのはどうしてか、と不思議に思ってしまう。

 現在の暦でいえば7月28日。現代の猛暑ほどではないにせよ、夏の土用の暑い盛りのはずだが、涼しいのを通り越して寒いほどだという。晴れているのだから、梅雨寒というのも当てはまらない。

 現代語訳では省略されているが、原文には追記として、こんなことが書かれている。

 きのふ今日ことに冷かなるに過しは、笛吹、松井田、甲州の辺、遠州、豆州など雪にあられに、ふりつみしゆへ也と、のちに聞侍り、ことに日光山には三尺ばかり雪つもると云、依て冷やか也し也けり。

 関東周辺の山岳では真夏に雪が降ったということだろうか。調べてみると、この前年の1816年は太陽活動の低下や1815年4月に発生したインドネシアのタンボラ山の史上最大級の噴火の影響で異常気象となり、ヨーロッパや北アメリカでは夏に雪が降ったり、霜が降りたり、河川や湖沼が凍ったりするなど、「夏のない年」と呼ばれ、農作物などに壊滅的な被害が出て、飢饉が発生した地方もあったという。日本ではそこまでの影響はなかったともいうが、異常気象はその後も数年は尾を引いたという。嘉陵が書き残した現象もその一つの表れかもしれないが、寒かったのは比較的短い期間ではあったのだろう。

歌川広重『名所江戸百景』より「四ツ木通用水引ふね」)

 とにかく、寒い思いをしながらも、嘉陵は風景を楽しんだり、乗り合わせた旅人の話に耳を傾けたりしつつ、舟に揺られていく。

 歌川広重(初代)は曲がりくねった用水を描いているが、実際はほぼ一直線の水路だった。そして、実際は亀有から四ツ木まで古上水堀と並んで中井堀が流れていたが、作品では一本の川になっている。二本の水路が一本化されたのは昭和三十三年のことで、この区間は昭和末には埋め立てられ、その後、親水公園に生まれ変わっている。

(親水水路は冬期は水が流れていない)

 嘉陵が舟で行った区間を僕は歩く。3キロというのは意外に長い。

 前の二軒茶屋の前に立って東の方を望むと、遥か向こうに木立が見えたので、綱手引きに縄手の道の果てに見える辺りはどこかと尋ねると、『あれは終点にある二軒茶屋の裏の林だ』と言う。その眺望はなかなかにいい。

 今はすっかり市街化されているが、昔は視界を遮るものがなにもなく、3キロ先の林が目立っていたのだろう。晴れていれば、その彼方に筑波山が見えるというが、曇っていたので見えなかったと嘉陵は書いている。広重の絵にも筑波山が描かれている。

 とにかく、起伏に富んで坂が多い江戸の街とは違って、このあたりはひたすら平坦で、見渡すかぎり田圃や湿地が広がり、江戸の住人にはその風景も新鮮に映ったようだ。また、秋から冬は水鳥が多く、将軍の鷹狩場にもなっていた。

 途中、京成線の踏切を渡り、そこにお花茶屋駅がある。8代将軍・徳川吉宗が鷹狩でこの地を訪れた際、腹痛を起こし、近くの茶屋で休息した。店の娘・お花の手厚い看護で腹痛も治まり、喜んだ吉宗から「お花茶屋」の名を賜ったという話があり、地名の由来となっている。

 歩いていると、電柱に「想定浸水深3.0m」の表示。「この場所は荒川のはん濫により3.0m以上浸水するおそれがあります」と書いてあり、その高さに赤いテープが巻いてある。ゾッとするような高さだ。

 実際、そんなことになったら、どれだけの被害が出るのだろうか。

 亀有の蓮光寺の裏にひっそりとある池。田園地帯だった頃の名残なのだろう。

 四ツ木から3キロ歩いて、親水公園も終点。その先で交差する道が当時の水戸街道(水戸佐倉道)である。

 新しい道標があり、「これより水戸佐倉街道」「四ツ木道」と彫られている。

 ここで嘉陵も舟を下り、水戸佐倉道を東へ歩き出す。これが昔の水戸街道で、千住で日光街道から分かれて東へ進み、小菅を経て、亀有から金町、松戸へと続いていた。ただ、江戸からは千住経由よりも四ツ木経由のほうが近くて、おまけに舟もあったので便利だった。

 ここにも二軒の茶屋があったという。広重の『名所江戸百景』に描かれたのは船着場があり、その先に水戸街道と思われる橋が架かっているので、この亀有付近と思われる。

歌川広重『名所江戸百景』より「四ツ木通用水引ふね」の一部分)

 二軒茶屋の前から東へ向かって五~七丁ほど行くと、新宿(にいじゅく)の渡し場に出る」

 旧水戸街道を東へ行くと、すぐに亀有の一里塚跡。起点の千住から一里である。今は塚は存在せず、水戸街道にちなんで、黄門様ご一行。

 しかし、亀有といえば、やはりこの人か。

 ちなみに亀有は室町時代からある古い村で、当時は「亀なし」で亀無、亀梨などと書いた。しかし、「なし」を嫌って「あり」に変わったのだという。嘉陵の時代にはもう亀有だった。

 旧水戸街道を行くと、環状七号線を越えて、まもなく中川に出る。ここが「新宿の渡し」。もちろん、今は橋が架かっている。中川橋。ここに最初に橋が架けられたのは明治十七(1884)年のこと。

「新宿の渡しの川幅はそれほど広くはない。流れの勢いも穏やかである。渡し舟で渡るが、僧も在家の者も舟銭は取られない。渡って岸に上ると、新宿である。ここの川の畔を上宿といい、そこから中宿、下宿となる。人家は二百戸ほどである。中宿に山王権現がある。今日が祭礼とのことで賑わっている」

歌川広重『名所江戸百景』より「にい宿のわたし」)

(『江戸名所図会』より「新宿渡口」)

 中川橋を渡ると、葛飾区新宿(にいじゅく)。新宿は水戸街道で千住と松戸の中間に位置する宿場で、戦国時代の16世紀半ば頃に小田原北条氏の支配下で整備されたという。

 江戸方面から来て、川を渡ったところが上宿。そこから道は戦国時代の宿場らしく、南に折れて中宿に至り、今度は東へ曲って下宿へ。ここで南に佐倉方面の道が分岐。水戸方面は下宿からまた北上して東へ折れ、金町から江戸川(当時は利根川)を渡って松戸宿へと向かっていた。今は上宿から直進路が開通しているが、回り道の旧街道もそのまま残っている。

明治13年の亀有村、新宿町付近。中川に橋が架かるのは明治17年

 渡しを上がって、上宿の入口には旅宿が三軒ある。中宿にある中川屋という店は、見栄えのいい門構えで、座敷や調度類まで清潔である。入って昼食をとる。

 「この二、三日気候のよくないせいか、まったく魚がないので、秋には必ず来てください。前の川で取れる鱸、鯉などの料理ができます」と主が言う。

(中宿で旧街道は南向きから東向きへ直角に曲がる。右奥に新宿の鎮守、山王権現=現・日枝神社がある)
 山王鳥居がある日枝神社。新宿が整備された頃に勧請されたと思われ、江戸時代までは山王権現と呼ばれた。嘉陵が訪れた日には祭礼で賑わっており、嘉陵は帰路にその様子を眺めている。

 川の縁にある渡し守の小屋のある所に、石の標示があり、「夕顔観音」と彫り付けてある。堤の上を北に十八丁(約1.9キロ)行った所にある。その夕顔観音に詣でて、そこから半田稲荷、帝釈天などを巡るのも、よい道行きだというので、昼食を終えてそこを立ち、川岸の堤の上を行く。

(中川の堤の上を行く。前方は常磐線

 低地を流れる中川は東京湾の潮の干満の影響を受け、引き潮の時は川下へ流れ、満ち潮の時は川上へ流れる。いずれにせよ、流れは緩やか。江戸時代からスズキやコイなどの釣りの名所だった。ゆったりと流れる川面と空の広さは昔と変わらないか。

 教えてくれたように半里ほどして堤の上にある松の木立がある所に着く。ここに富士浅間の社が小高いところに鎮座している。銀杏の大きな木が一本と、その他の木立もみな古びている。

 富士神社の富士塚のそばに立つ銀杏は嘉陵が見たものと同じだろうか。ただ、古そうな木はこの一本のみで、堤の上の松もない。

 嘉陵はさらに堤の道を行く。このあたりは昔の飯塚村である。めざす夕顔観音とは寛文八(1668)年、飯塚村の名主・関口治左衛門が霊夢によって自宅近くの松の大樹の根元から掘り出したという観音像を自宅の敷地に建てたお堂に安置し、「夕顔観音」と名づけたもの。命名の由来は諸説あるが、はっきりしない。その霊験が評判となって、江戸市中にまで広まり、特に元禄の頃は大勢の参詣者が列をなして訪れたという。

 そこ(浅間社)を過ぎて半丁ほど行くと飯塚村に至る。夕顔観音は、西向きの瓦葺きの門を入って行くとある。堂は南向きで、茅葺き屋根で、本尊は聖観音。堂の広さは三間四方で、六間ほどである。元禄十六年(一七〇三)富沢町横店より奉納された驪(くろうま)を描いた額がある。ほとんど人がこないとみえて、格子を閉め切っていて寂寞としている。堂の東側に房がある。主の僧がただ一人昼寝をしているだけで、音もしない。机が四つ五つ部屋の片隅に見える。村の子ども達に読み書きでも教えているのであろう。手を合わせてそこを出、もと来た堤の上を少し戻って、民家に入り、半田稲荷に行く道を問う。

(『江戸名所図会』より「夕顔観音堂」)

 この絵を見ると、嘉陵の書く通り、中川の土手に面して瓦葺きの門があり、観音堂は茅葺きで南を向いているのが分かる。この頃には一時の賑わいも去り、訪れる人もなく、ひっそりとしていたようだ。

 夕顔観音堂は明治二十六年には廃堂となり、お堂は本所柳島の妙見堂に移築され、観音像は関口氏の菩提寺である近くの安福寺(真言宗)に移されている。ちなみに観音像は直径16センチの円形懸仏で、背面の銘文から鎌倉期のものと考えられるという。現在は秘仏で、12年に一度、午年に開帳されるそうだ。

 中川橋から3キロ弱歩いて、西水元一丁目の安福寺に着く。

 中川の土手からは100メートル以上離れており、嘉陵が訪れた夕顔観音堂とは場所が違うが、今はここ以外に行くべき場所はない。夕顔観音も秘仏で拝むことはできないが、境内にはかつての観音堂にあった石灯籠や観音様が発掘された場所にあったという石の祠などが保存されている。

(手前の2基の石灯籠に夕顔観音の文字が見える)

 寺に近い西水元1-28には「夕顔観音」の道標が保存されている。

 夕顔観音をあとにした嘉陵は近くの民家で半田稲荷への道を尋ねている。

 主の男は、肘枕で寝ていたが、起き直った。「今日は十五日で畦に出ている者もないので、道を問うにも人がいないだろう。ここからは田圃の畦道を伝って行くのがいいが、本道ではないので説明するのが面倒だ。案内しよう」と言って、先に立って歩き出す。

 歩きながら、この案内してくれた男から嘉陵はこの日も川で二尺ほどのスズキを獲ったこと、農業が休みの時に何もしないよりは、ということで漁を覚えたこと、そして漁の仕方などの話をいろいろ聞いている。

 堤の上をしばらく行って、田圃の畦道に下りる。曲がりくねっているので、先へ進んでいくのも戻っているように思われる。十丁ほど案内してくれて、「ここから先は畦の草が踏みつけられているのを印に行くと、稲荷の横手に出る」と教えてくれる。篤く礼を述べて別れる。

 半田稲荷まで3キロほどはあるが、ほとんど畦道を行ったということなので、現代の道でどこを歩いたのかは分からない。しかし、明治時代の地図を見ると、用水路沿いの小径があったようなので、この道を辿ったのではないだろうか。この付近は現在は区画整理が行われて道は概ね碁盤の目状になっているが、水元一丁目の葛飾清掃工場を挟んで北西から南東へと斜めに走る道が用水跡だ。

 とにかく、半田稲荷へと向かう。

 

 つづく