磐越西線と東北本線

 9月7日~8日に新潟方面に出かけた話の続き。たぶん最終回。

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 新津から磐越西線の観光列車「SLばんえつ物語」に乗って福島県会津若松に13時36分に到着。次の郡山行きは14時20分発で、少し時間があったので、改札を出て、お土産を買ったりしていた。

 会津といえば、郷土玩具の「赤べこ」で、僕も中学生の時に買って帰り、今も部屋に飾ってあるが、今どき、そんな民芸品を買う人は多くないのか、駅の土産物コーナーをみても、あまり置いていない。そのかわり、赤べこを可愛いキャラクターにしたグッズはいろいろある。そういう時代なのだろう。

 駅前の巨大赤べこ

 46年前に会津若松で買った赤べこ。今も元気いっぱいである。


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 とにかく、ちょっと駅の外に出ている間に郡山行きの電車は満員になっていた。仙台・福島地区を中心に活躍する721系の2両編成。SL列車に乗ってきた乗客の大半が乗り継ぐのだから、混雑するのは当然である。おまけに14時07分には会津鉄道、08分には磐越西線、15分には只見線の列車が到着し、それぞれからの乗り継ぎ客が乗り込んでくるので、ラッシュ時間をちょっと過ぎた山手線のような混雑になった。郡山まで1時間16分。途中で空くとは思えないので、ずっと立ちっぱなしだ。

 そんな状態で、郡山行きは会津若松の1番線から発車した。磐越西線はここで進行方向が変わるスイッチバック式の駅なので、1・2番線はコの字形の頭端式ホームである。

 しばらく並走した喜多方・新津方面の線路を左へ見送り、列車は真北へ向かう。次の広田で会津若松行きと行き違い、その次の東長原の手前から針路を東へとる。ここから磐梯山の麓を右へ左へとカーブしながら上っていくのだが、1978年にこの路線に乗った時は旧型客車列車で、カーブのたびに先頭の電気機関車ED77が何度も見えたのが印象に残っている。1980年の春に新潟からの上野行き急行「いいで」で通った時は4月の初めだったが、この区間は激しく雪が舞っていた。今日は電車の巻き起こす風で線路際のススキが一斉に揺れている。

(広田で列車行き違い)

 会津盆地の東側に位置し、一段高い猪苗代盆地は東西を走る断層によって生まれた盆地で、今はその大部分が日本で4番目に大きな湖、猪苗代湖になっている。猪苗代湖の水は阿賀野川水系の日橋川となって会津盆地へ流れ下り、日本海へ通じているが、この日橋川の水が磐梯山などの火山からの火砕流や山体崩壊による岩屑なだれなどによってせき止められて猪苗代湖が誕生したのだという。

 列車はその火山性の堆積物でできた高原地帯を乗り越えて猪苗代盆地に下り、猪苗代駅に着く。ここでまた乗客が増える。

 列車は北に磐梯山を見上げ、南に猪苗代湖をちらりと見て、のどかな田園を行く。磐梯山は非常に激しい噴火活動をすることで知られる山で、明治時代の1888年に大爆発を起こして山体が吹っ飛び、すっかり姿が変わってしまったという話は有名だが、その荒々しい山容は北側の裏磐梯からでないと見えず、南側からだと比較的穏やかな山容である。

 線路が猪苗代湖畔に最も接近し、上戸(じょうこ)を出ると、再び山越えとなる。日本海側と太平洋側の分水界を越えるのだ。

 面積の広い福島県は太平洋岸の「浜通り」、内陸部で福島市郡山市などの都市が南北に並び、新幹線や東北自動車道が通る「中通り」、そして西部の「会津」地方に分かれているが、会津とは要するに福島県のうち、降った雨や雪が日本海側に流れる地域を指すのだと改めて理解した。

 ただ、水不足に悩んでいた郡山を中心とする安積原野の灌漑のために明治時代に猪苗代湖を水源とする安積疎水が開削され、それまで不毛の地だった安積地域の農業発展に貢献したのだった。猪苗代の上戸付近から水路を掘り、分水嶺はトンネルで抜けて導水したのである。猪苗代湖の水は日本海だけでなく、安積疎水から阿武隈川を通じて太平洋にも流れるようになったわけで、流量は猪苗代湖の日橋川側と安積疎水側とにそれぞれ水門を設置して調節しているそうだ。

 分水界の中山峠を越え、下り坂になると、まもなく中山宿駅に停まる。今は線路にホーム1面だけの簡素な駅だが、昔はスイッチバック式の駅だった。中山宿を出て、少しして右下にスイッチバック駅が今も保存されているのが見えた。

 列車は郡山盆地に下り、15時36分に郡山に到着。ちょうど東北本線の貨物列車が南へ向かって走り過ぎていくところだった。

 ここからは東北本線普通列車を乗り継いで帰るだけだが、けっこう乗り継ぎが慌ただしい。しかも、ほとんどの人が「青春18きっぷ」を持っているようで、同じ乗り継ぎをする人が多く、どの列車も混雑しそうだ。

 郡山始発の15時50分発の新白河行き。辛うじて座れて助かった。途中、矢吹あたりから雨が降りだした。夕立だろう。

 この列車は新白河に着いても、次の黒磯行きまで40分以上の待ち時間があり、次の電車でも間に合う。ということで、新白河の一つ手前の白河で下車。16時25分。

 昔、東北本線に特急や急行が頻繁に走っていた時代、白河は急行停車駅であった(上野~会津若松間の特急「あいづ」も停まっていた)。もっと昔は白河といえば、関所があり、みちのくの入口であった。過去に何度も通った駅だが、降りたことはない。

 白河駅を通るたびに眺めた、線路より低い位置にある三角屋根の駅舎がとても印象的で、その駅舎が今も健在だということなので、降りてみようと思ったわけである。今は新幹線にも無視され、各駅停車しか通らない駅である。

 この線路より一段低い場所に立つ駅舎は昔と変わらない。夜行列車から眺める灯りのともった夜更けの駅舎が白河駅の印象。

 立派な花壇がある。でも、この時間帯は駅員もいないのだった。

 駅の出入り口の上にはステンドグラス。

 白河駅ができたのは明治二十(1887)年のことで、現在の駅舎は大正十(1921)年の建築なので、今年で103年目である。

 駅前の楓が色づいていた。

 白河駅なら立ち食い蕎麦ぐらいあるだろうと思っていたのだが、そんなものはなかった。駅にカフェはあったが、駅前のローソンでおにぎりを買う。この先は乗り継ぎが忙しくて、途中で食事ができそうにないのだ。

 白河駅のホームの屋根も昔のまま。

 駅のホームから見た白河城小峰城)。明治維新の時に戊辰戦争の戦場となって焼失し、現在の城は当時の資料に基づいて木造で復元されたもの。盛岡城会津若松城鶴ヶ城)と並び「東北三名城」のひとつに数えられるそうだ。

 白河17時05分発に乗り、新幹線との接続駅・新白河には17時09分着。昔は磐城西郷という普通列車しか停まらないローカル駅だったが、今では白河駅より出世している。わずか3分の接続で黒磯行きがあり、17時35分に黒磯着。42分発の宇都宮行きに乗り換えて、宇都宮着が18時34分。宇都宮でも4分後に小田原行きがあり、この電車で20時12分に赤羽着。ここから埼京線で新宿へ。21時過ぎに帰宅。

 これでこの夏の「青春18きっぷ」、無事に使い切った。日付印は新宿駅(8/4)、松田駅(8/18)、新宿駅(9/1)、新宿駅(9/7)、新潟駅(9/8)。