日本海を見にいく  

 「青春18きっぷ」を使って、「まだ乗ったことのない路線に乗ってみよう」シリーズの第2回目は只見線から11日後の8月12日。
 上野6時04分発の電車を高崎、水上で乗り継ぐという前回とまったく同じ乗り継ぎパターンで上越線を北へ向かう。少し違っていたのは、夜明けが遅くなり、4時半過ぎに自宅を出る時、東の空にはまだ上弦の月と金星が輝いていたこと。また、虫の声も賑やかになっていたこと。上越線の車窓から眺める田んぼの稲穂が少し色づいていたこと。

 ところで、今回は信越線の宮内〜柏崎間と北陸線直江津糸魚川間という2つの未乗線区に乗るのが目的。
 鉄道好きなら誰もがやるのが、鉄道路線図の自分が乗った区間を塗りつぶしていくという行為。子どもじみてはいるが、実際に子どもの頃から始めると、途中でやめられなくなって、結局、大人になっても続けるはめになる。僕の場合、小学校卒業と同時に一人で、あるいは鉄道好きの友人とあちこちに旅行するようになり、時刻表の路線地図を蛍光ペンで塗り始めたのが最初だった。先日、只見線から帰った夜も寝る前に路線図を広げて、只見線の小出〜会津若松間を塗りつぶしたが、実際に乗り終えた時よりも、この時のほうが達成感があったりする。
 その路線地図。僕の場合は西日本を中心に白いままの路線が大量に残っていて、全線完乗には程遠い状態なのだが、関東周辺にもまだ塗り残しがいくつも散らばっている。乗りたいなぁ、というより塗りたいなぁ、と思う。なかでも、まったく手付かずの路線ではなく、一部だけ乗り残した路線というのは妙に気になるものだ。それで今回は信越線と北陸線の乗り残し(というか塗り残し)区間をまとめて片付けてこよう。

というわけで、上越線の長岡行き電車は前回、只見線に乗り換えた小出を過ぎた。右の車窓を流れていた魚野川がいつしか左車窓に移り、越後川口を出ると、信濃川に合流。上越線はその右岸の段丘上を行く。
 新潟県といえば7月中旬に集中豪雨に見舞われ、15名もの犠牲者を出すなど大きな被害があったが、その爪痕なのか、線路際の土砂が流失し、土嚢を積んだ区間があり、徐行で通過した。
 11時53分、長岡のひとつ手前の宮内で信越本線と合流。この駅で下車。すぐに信越線の上り列車がやってくる。同じ乗り換えをする旅行客がたくさんいたが、ほとんどが「青春18きっぷ」の利用者のようだ。しかも、若者ばかりでなく、老若男女いろいろ。これで行けば、富山には15時13分、金沢には16時20分に到着でき、これが夜行列車を使わず、朝に東京を出発して普通列車だけで北陸へ行く最速乗り継ぎパターンなのだ。

長岡始発の直江津行き電車は宮内発12時01分のところ、定刻より少し遅れてやってきた。3両編成で座席はほぼ埋まっていたので、運転席のすぐ後ろに立って前方を眺める。子どもみたいだが、座れなかったのだから仕方がない。
 さて、宮内から柏崎までの33.7キロが初めての区間であるが、基本的に景色は上越線と変わらない。ただ、座席から車窓を眺めるのと違って、風景よりも信号や距離標、勾配標、各駅の線路配置、対向列車などばかりに目が行く。要するに運転士気分になる。
 とにかく、信濃川の鉄橋を渡り、田園風景の中を行き、低い峠をトンネルで抜けて、新潟からの越後線と合流して12時39分に柏崎着。
 柏崎を出て、次の鯨波から日本海岸に出た。ここからしばらくは海沿いで、駅ごとに海水浴場がある。今日の日本海は青く穏やかで、沖には佐渡が浮かんでいる。
 しかし、この区間はトンネルも多いため、運転席との仕切り窓のブラインドを閉められてしまった。これでは立っていても仕方がないので、空いていた席に座る。ドア横の窓を背にした席なので車窓を眺めにくい。
 トンネル区間を過ぎると運転士がまたブラインドを開けてくれたが、もう立たない。

 直江津には13時21分着。2分後に富山行きの電車があるので、接続はよい。
 待っていたのは、かつての寝台・座席兼用581/583系特急電車のなれの果て、419系の3両編成。独特の折り戸式の乗降口から乗り込むと、車内の造りはかなり異様である。一部だけ昔のままのゆったりしたボックス座席が残り、あとはロングシートに改造されている。天井が高く、中段・上段の寝台も収納されたままのようだ。トイレの前の座席がない一角はかつての洗面所の跡だろう。
 高度経済成長の時代に誕生し、北は青森から南は鹿児島まで昼夜を問わず大活躍した電車で、子どもの頃は一番の憧れだった。実際に昼間の「はつかり」や「ひばり」、夜行の「金星」「ゆうづる」などで特急列車の旅を楽しんだこともある。それだけにこの惨めな姿には哀愁を感じるが、落ちぶれたとはいえ、まだ現役で走っていることを喜ぶべきなのかもしれない(583系は現在、大阪〜新潟間の夜行急行「きたぐに」で最後の活躍をしている)。

 さて、直江津からは北陸本線に入り、同時にJR東日本から西日本の管轄に変わる。駅名標などのシンボルカラーが東日本のグリーンから西日本のブルーに変わり、乗務員の制服も白地にブルーのストライプのシャツにベージュの帽子とズボンという関東の人間には見慣れないデザインになった。
 その北陸本線直江津から糸魚川までの38.8キロだけが初めての区間だ。ここも日本海に沿って走るが、山が海に迫って地形が険しく、長大なトンネルが連続する。なかでも頸城トンネルは11キロ以上もあり、そのトンネルの真ん中に筒石という駅があった。今日だけで上越線湯檜曽、土合に続いて3つ目の地底駅である。
 糸魚川到着は14時。ここで下車。レンガ造りの古めかしい機関庫がいい雰囲気を醸し出している。

 ここからは大糸線に乗り換えて松本に出て、中央本線で帰る。次の大糸線の発車まで1時間以上あるが、今日はここまで接続が良すぎて買い物もできなかったので、一度駅を出て昼食タイム。

 15時12分発の大糸線南小谷行きは昔ながらのディーゼルカーが1両だけ。キハ52-156。車両番号などどうでもいいことだが、まもなく滅びゆく車両なので一応記録しておく。

 大糸線は松本〜糸魚川間のうち南小谷から北の区間だけ電化されておらず、国鉄時代からの旧式ディーゼルカーキハ52が3両、頑張っている。そのうち1両、キハ52-115だけはクリーム色と朱色の懐かしい国鉄カラーで、糸魚川駅構内の留置線で休んでいるのが見える。これから乗るキハ52-156ともう1両のキハ52-125は白地にグリーンの新塗装。125は前回乗った車両で、これも構内で休憩中。

キハ52-115)

 北陸本線の上り特急が遅れ、接続待ちのため8分遅れで糸魚川を発車。すぐ左にカーブして山間に分け入る。座席はほぼ埋まっている。
 この区間に乗るのは4年ぶり2度目だが、とにかく険阻な地形を縫って走る。日本列島を東西に分断する大断層フォッサマグナの谷を行くからだ。さらに冬の豪雪地帯であり、災害多発地帯でもある。
 初めこそ車窓に田畑も見えるが、どんどん土地が狭まり、3つ目の根知を過ぎると、急勾配をグイグイ上っていく。
 寄り添う川は姫川。ヒスイの産出で知られ、名前も女性的だが、典型的な暴れ川で、巨大な岩がゴロゴロしている。1995年に豪雨で氾濫し、大糸線が鉄橋流失などズタズタに寸断され、復旧に2年以上も要したのは記憶に新しい。
 次第にトンネルや落石・雪崩防護用のシェルターが多くなり、カーブもきつくなり、線路は道を探しながら川を何度も鉄橋で渡る。並行する国道もほとんどがシェルターに覆われている。
 平岩で登山帰りの人がたくさん乗ってきて、車内は立ち客が出るほどの満員になった。この付近では姫川が新潟・長野の県境になっていて、いったん長野県に入り、平岩で新潟県に戻り、また長野県に入る。
 その後も難所をトンネルの連続で切り抜け、ようやく谷が少し開けて南小谷には16時08分に到着。ここからまたJR東日本管内である。

 わずか2分の接続で、16時10分発の信濃大町行きの電車に乗り換え。
 ここからは逆光に霞む北アルプスを見上げながら走り、青木湖、中綱湖、木崎湖の「仁科三湖」を順に眺め、信濃大町には17時06分着。
 次は17時10分発の富士見行き。安曇野の風景の中を走り、左から篠ノ井線が寄り添ってきて、松本には18時10分着。ここでいったん降りて夕食にしようかとも思ったが、気が変わってそのまま乗り続ける。

 やがて日が暮れて、岡谷、下諏訪、上諏訪諏訪湖の北岸を回り、18時53分の茅野で途中下車。あとは19時18分発の電車を甲府で乗り継ぎ、高尾に22時30分着。ここからは京王線で帰る。23時45分頃帰宅。
 今日もよく乗ったが、ひとに旅行の行き先や目的を聞かれたら、「ちょっと日本海を見てきた」とでも答えるほかない。