水谷千秋『謎の大王継体天皇』

謎の大王継体天皇 (文春新書)

謎の大王継体天皇 (文春新書)

 天皇家といえば世界の数ある王朝と比べても最も長い歴史をもち、千数百年にわたって途絶えることなく続いてきた「万世一系」の家柄であるが、その「万世一系」を疑わしめるような存在が第26代・継体天皇であり、個人的にちょっと興味があったので手に取った本。
 継体天皇が即位したのは西暦507年というから今から1500年ほど前のこと。その先代の武烈天皇が後継ぎを残さずに崩御した結果、皇統断絶の危機に瀕したわけだが、そこに現れたのが継体である。当時の政治の中心地は大和・河内地方だが、そこから遠く離れた近江の湖北地方出身の継体は「応神天皇五世の孫」と称し、中央政界に姿を現すのだ。
 応神天皇は第15代の天皇であり、第25代・武烈の五世代上の存在である。応神の次が巨大古墳で有名な仁徳天皇で、以後、その子孫が天皇の地位を継いできたわけだ。しかし、継体は仁徳天皇の子孫ではなく、その兄弟の子孫ということになる。自分に当てはめて考えればわかるが、自分の五代前の人物から分かれた傍系の五代目というと、普通はとても親戚とは言えないぐらい遠い存在である。そんな人物が突然出てきて天皇(当時は大王)の地位を継いだわけだから、実は王家の血とは無縁の地方豪族が政権を奪ったのではないか、ここで王朝の交代があったのではないか、「万世一系」の家系は実はここで途切れているのではないか、という考え方も出来るわけだが、史料が乏しく、真実は確かめようがない。ただ、著者は継体を王族の血を引く者であっただろうと考えている。少なくとも、継体が「応神天皇五世の孫」を自称し、それを中央政界の有力者たちが信じ、受け入れたことは間違いないのだろう。ただ、ほかに皇位継承者がまったくいなかったと考えるのも不自然で、そこに何らかの勢力争いがあったことも確かなのだろう。つまり順当な皇位継承ではなかったと考えられ、それは事実上の王朝交代といえなくもない。
 継体は57歳で、有力豪族・大伴金村らに擁立されて即位したというが、そこから大和に入るのに20年かかっている。そこに継体の即位に反対する勢力が存在したことがうかがわれるわけだが、本書ではそれは武烈までの前王統と密接な関係にあり、この後衰退する葛城氏だろうと推測している。
 そうした政争に終止符を打つ結果になったのが、このころに起きた有名な「磐井の乱」だ。九州北部に勢力をもつ豪族・磐井が新羅と結んで大和政権に対して反乱を起こしたとされる事件だが、著者は九州で勢力を強め中央からの自立を志向する磐井の存在に危機感を募らせた大和政権側が先制攻撃をしかけて磐井を倒し、結果的に九州地方にも大和の勢力を拡大したのだろうという。そして、磐井という共通の敵の存在が蘇我や物部、大伴ら中央豪族の結束を強め、継体の政権基盤が確立されたのだという。
 もうひとつ興味深いのは継体の後継をめぐる争いの存在。継体は82歳で崩御したとされるが、その直前に皇子の安閑天皇に譲位している。しかし、安閑も直後に亡くなって、同母兄弟の宣化天皇が即位し、その没後はやはり継体の子で、安閑・宣化とは母が違う欽明天皇が即位している。安閑・宣化の母は地方豪族・尾張氏の出身だが、欽明の母は武烈の父・仁賢天皇の皇女であるから旧王統の血を引いている点で新旧王統を統合する存在として、後継に相応しいと考えられたのだろう。
 そこで継体天皇が後継に選んだ安閑天皇とその皇子が殺害され、宣化天皇を中継ぎとして本命の欽明天皇へという政変(辛亥の変)が起きたというのが著者の見立てだが、その陰に蘇我氏を中心とする中央の有力豪族たちの存在があり、彼らの政治的意思が継体天皇の意思より優先されたということになる。欽明天皇の頃に中央の有力豪族による合議制が成立し、これ以降、歴代の天皇の下で政権の中枢として機能していくことになる。
 数少ない史料を丹念に読み込み、先行研究を踏まえつつ、この興味の尽きない天皇の謎に迫った著作。謎が完全に解明されるわけではないが、そこが古代史の面白いところでもあり、あれこれ想像してみる上での、手がかりをいろいろ与えてくれる。

 こういう本は読んでしばらくすると内容をほとんど忘れてしまうので、ちょっとメモしておきました。