嘉陵紀行「藤稲荷に詣でし道くさ」を辿る(後編)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が文政七年九月十二日(1824年11月3日)に江戸城下・三番町の新居から今の新宿区下落合にある藤稲荷に参拝した話の続き。

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 新宿区西早稲田から神田川面影橋で渡り、豊島区高田の南蔵院前を通り、宿坂下にある金乗院前から目白台地の裾の道を西へ向かったと思われる。この道は江戸時代から存在した(あるいは南蔵院前から金乗院を通らず、いまの高南小学校前に直接出る道があったかもしれない。そのほうが近道ではある)。

 金乗院の西隣の豊島区立高南小学校を過ぎると、右にものすごい急坂が見える。「のぞき坂」といい、「勾配22%」の標識が立っている。都内で自動車が通行できる坂としては最急勾配の坂のひとつらしい。坂上からは断崖絶壁のように思えて、恐る恐る下をのぞき見たことから、この名がついたようだ。もちろん、これは新しい坂で、江戸時代にはなかった。開かれたのは大正時代とのこと。

 その先で都電荒川線の踏切を渡る。踏切の両側に学習院下停留所のホームが互い違いに設けられている。都電の線路も切通しで勾配が緩和されているとはいえ、目白の台地へ向かって、かなりの急坂になっている。

 とにかく、この先はずっと台地の裾を行くので、右へ行く道は坂道ばかりだ。嘉陵が歩いた当時は右は山、左は田圃といった風景だったと思われる。季節は晩秋だったので、山は紅葉、田圃は収穫も終わっていたのだろう。

 都電の踏切を渡り、並行する明治通りは歩道橋で越えると、まもなく右手は学習院大学の敷地となる。道の右側は豊島区目白一丁目、左は高田三丁目である。

 学習院大学のキャンパス内には「血洗いの池」という湧水池があるが、往時はこの付近には多くの湧水があった。また、今の学習院の敷地内には富士山を望む高台上に富士見茶屋「珍珍亭」があり、今の目白通りにあたる街道を行く人々で賑わっていた。嘉陵も訪れたことがあるようだ。

(血洗いの池)

 安藤広重が『富士三十六景』に「雑司かや不二見茶や」を描いている。眼下に見える道が嘉陵の歩いた道である。

 学習院大学の敷地が途切れると、山手線のアーチ橋をくぐる。神田川の低地を山手線は築堤で通り抜けている。

 「学習院下」の信号の手前を左に入ったところに馬頭観音がある。年代は不明。

 山手線をくぐる。「新井薬師道ガード」と書かれているので、いま歩いている道がかつては新井薬師(中野区)へ通じる道として認識されていたことが分かる。

 山手線ガードの手前から再び新宿区の下落合に入り、道なりに行くと、右手の台地斜面が「おとめ山公園」となっている。

 おとめ山とは江戸時代にこの一帯が将軍家の狩猟場で、一般の立ち入りが禁止であったことから、おとめ山(御留山、御禁止山)と呼ばれたことに由来する。明治以降、相馬家の所有となり、第二次世界大戦後は国有地となって、荒れ果てていたのを、地域住民がこの自然を保護してほしいと要望し、東京都が整備して公園化したもの。その後、新宿区に移管され、区立公園となっている。鬱蒼とした雑木林の中に湧水が残り、昔からの自然が残る貴重な空間である。

 ところで、落合という地名は神田川妙正寺川が合流する地点に由来するが、このあたりは江戸時代、蛍の名所として有名だった。落合の蛍は大きくて、光も強かったという。ヘイケボタルではなくゲンジボタルだったか。『江戸名所図会』にも「落合蛍」と題して、広々とした田園で蛍狩りを楽しむ人々が描かれている。嘉陵が訪れたのは晩秋で、蛍の季節ではなかったが、嘉陵が歩いた当時の落合の風景を想像することはできる。

 おとめ山公園では今も蛍の養殖が行われている。

 さて、いよいよ藤稲荷である。おとめやま公園の南西側にそれはあった。

 公園の西側を登っていく「おとめ山通り」に入ってすぐ左手に跡地があり、「正一位 東山藤稲荷大明神」と刻んだ天保七(1836)年の社号標などが残されている。

 平安時代の延長五(927)年、清和源氏の初代、源経基がこの地に京都の稲荷神を勧請したのが始まりと伝えられ、それ以来、源氏の守護神として尊崇され、やがて庶民からも信仰を集めたという。

 かつてこの地にあった稲荷社が戦災で焼失し、戦後にすぐ裏手の高台に移転したというのだが、『江戸名所図会』を見ると、江戸時代には社殿は高台の上に描かれている。恐らく、昭和の初期には規模が縮小し、境内は坂下だけになっていたのだろう。

 『図会』によれば、街道沿いには小川が流れ、今のおとめ山通りの入口には簡素な茶屋らしきものがあったようだ。そして、参道を行くと、左手に鳥居があり、一の鳥居、二の鳥居をくぐった先で右へ折れ、石段を登ると右手に藤棚があり、正面に拝殿があった。当時はここも江戸近郊の名所だったのだ。

 藤稲荷にやってきた嘉陵の文章。

「藤稲荷の社(新宿区下落合二丁目)にかつて詣でた時のことを思い起こしてみると、遥か四十年も以前のことであった。宮居も小立も昔の面影が残ってはいるものの、なにかもの寂れた感じがする。もとは石の鳥居などなかったように思うが、今は山の入口と中ほどに二つもある。しかも中ほどにある鳥居は笠石が左に架かっている所から折れて、傍らに置かれている。これはその昔に祀った神の御心にかなわなかったので折れたのだろう、と畏れかしこまる」(現代語訳:阿部孝嗣)

 

 今も「旧社地」の先を左に入ると、その先に赤い鳥居が二つある。

 一の鳥居をくぐって、石段を上り、右に曲がって、さらに上ると二の鳥居である。『江戸名所図会』に描かれたイメージより狭いが、似ていると言えば、似ている。大した高さではないが、山の上の神社という雰囲気はある。

 拝殿の背後はおとめ山。境内の片隅には石鳥居の残骸も置かれていて、「奉納 江戸中橋南槙町 伊勢屋惣五郎」と彫られている。嘉陵がくぐった鳥居だろうか。

 神狐は戦後の移転時に造られた昭和のものだが、台石は古い。文化十五(1818)年のもので、「世話人 蜀山人書 良夜 藤次郎 庄助」と彫られている。「蜀山人」は幕府官僚を務めた侍でありながら狂歌師として名を馳せた太田南畝(1749-1823)のことである。嘉陵が参拝した前年に没している。

 境内には壊れた神狐のほか、寛延三(1750)年と天保九(1838)年の水鉢、寛延四年の地蔵尊なども置かれている。

 嘉陵が訪れた時、宮司の姿は見当たらず、翌日の月見の準備なのか、ただ女と少女が臼を挽いているだけだったようだ。

「近くに住む者はいるのだろうか。雨が降ったり、風が強い夜などはさぞかし不安であろう」

 嘉陵は二人の境遇に思いを馳せている。人家も稀な、寂しい土地だったのだろう。境内中ほどの平坦地からは南側に田園が広がり、彼方に続く木立の果てに尾張徳川家下屋敷の梢が見えたという。今の戸山公園(新宿区戸山)である。現在は雑然とビルが建て込んだ風景が見えるばかり。

 かつて職場の同僚から落合村の七曲がりに虫の声を聞きに行こうと誘われたことを思い出した嘉陵は神社にいた女に「七曲がりというのはどの辺りか」と問うと、「この山を登って行くにも、この先にも、どの道を行くにしても何度も曲がらずに行ける道はない。それでみんなが七曲がりと名付けたのだ」という答えであった。

「神殿の前を下って西に行くと、道の傍らに寺がある。石を敷き並べ、見た目はきれいである。薬王院(新宿区下落合四丁目)という」

 嘉陵は藤稲荷をあとにさらに西へ行き、薬王院に至る。その間のことは書いていないが、左から道が合流する地点に下落合村の鎮守・氷川神社がある。左から来る道は今の早稲田通りから高田馬場駅で分かれて、さかえ通り、そして神田川を田島橋で渡ってくる道である。田島橋は当時、神田川に架かっていた面影橋の一つ上流の橋である。

 氷川神社は創建が紀元前の第五代・孝昭天皇の御代まで遡るといい、その真偽はともかく、水の豊かな落合には遠い昔から人が住んでいたので、古い神社であることは確かなのだろう。祭神は素戔嗚尊とその妻・稲田姫命、その子・大己貴命で、江戸時代には高田の氷川神社が男体の宮、下落合の氷川神社が女体の宮と夫婦一対の神として信仰されたという。

 氷川神社前の路傍には庚申塔がある(上写真の右側)。文化十三(1816)年の建立で、道標も兼ねている。文字は判読が難しいが、「右さか下道」「左ぞうしがや道」と彫られているようだ。

 氷川神社の先にすぐ「七曲り坂」があり、坂下には地蔵尊が並んでいる。地元ではこの道が「七曲り坂」とされ、源頼朝が開いたという伝説もあるが、嘉陵は知らずに通り過ぎてしまったようだ。もっとも、藤稲荷で聞いた話では、この付近のどの道もすべて七曲りであるというのが当時の認識で、特定の坂を指す名称ではなかったのかもしれない。とにかく、この坂を登って行くと、今の目白通り(当時の清戸道)に通じている。

 昔は江戸からわざわざ虫の声を聞きに来るような土地だったようだが、今でもおとめ山公園があり、またこの先には下落合野鳥の森公園がある。緑が豊かな町ではある。

 野鳥の森の西隣が薬王院である。

 薬王院真言宗豊山派の寺院で、正式には瑠璃山薬王院医王寺という。別名は東長谷寺。創建は鎌倉時代で、相模の大山寺を中興した願行上人が開山という。本尊は薬師如来。中世の板碑が8点、保存されている。寺はその後、兵火に遭い荒廃したが、江戸時代の延宝年間(1673-81)に実寿上人が中興。しかし、元文年間(1736-41)に再び火災により焼失している。嘉陵はその後に訪れたわけだ。

「門を入って右に鐘楼、石の宝塔があり、『宝暦九年 当寺十三世隆音建」と刻まれてある。その年号から開基がそう古くないことが分かる。向かいに客殿、左に庫裏がある。みな茅葺きである。庭には大きな柿の古木がある。後ろの山には松や杉が生い茂り、眺めは素晴らしい」

 火災から80年以上が経過し、諸堂は再建されていたようだが、そのせいか、嘉陵は古い歴史を持つ寺だとは思わなかったのだろう。

 ここで嘉陵が目にした宝暦九(1759)年の「宝塔」が今もあるかどうかが楽しみだったが、確かに山門を入ると、右手に宝篋印塔があった。

 「寶暦」の次の数字は読みにくいが、干支が「己卯」となっているから九年で間違いない。そして、最後に「武州豊嶋郡落合瑠璃山第十三世法印隆音建塔」とある。嘉陵が今から199年前に同じ石塔を見て、同じ文字を読んだのだ。

 薬王院は今は牡丹寺として知られ、境内には多くの牡丹が植えられている。柿の古木は見当たらなかったが、台地斜面を生かした造りで、本堂は鉄筋コンクリート造りながら京都・清水寺の舞台を思わせる造りになっている。

 境内の曲がりくねった石段(これも七曲りか)を登っていくと、随所に石仏があり、頂上には観音堂がある。墓地が広がり、その先は平坦な台地で、今はすっかり宅地化されている。

「建物の垣根に沿って狐や兎が通る小径を登っていく。まさにここも七曲がりなのであろうか。

 木の根や葛などが絡まりあっている道を幾度も曲がって登り詰めると、上は広い畑になっている。畑の向かいは四家町から上板橋に行く道である。さらにそのはずれが、鼠山の辺りであろう」

 建物の垣根に沿って登る小径がどこを指すのか分からないが、薬王院の西側の塀に沿って登ってみる。坂が急で途中から階段である。

 階段を登り詰めるとウサギとフクロウがいた。

 今は住宅街だが、昔は畑が広がる農村地帯だったのだろう。そして、その先には目白通りの前身である街道が通っていた。四家町とは今の目白駅付近から雑司ヶ谷目白台あたりまで街道沿いにあった町である。富士見茶屋も四家町にあった。

 また、鼠山というのは薬王院の北方、目白通りの北側の目白四・五丁目を中心とする一帯のことのようだ。ここには当時、安藤対馬守の下屋敷があり、その後、日蓮宗の大寺院・感応寺が建立されている。感応寺は元は谷中にあったが、日蓮宗不受不施派に対する幕府の弾圧で天台宗に改宗させられてしまう。日蓮宗への回帰を願う宗徒の願いを聞き入れた将軍・徳川家斉の特別な計らいにより、天保四(1833)年に鼠山の安藤家の屋敷地が下賜され、日蓮宗寺院として感応寺が再興されたのだった。しかし、大伽藍の完成からわずか5年目、家斉が死去した天保十二(1841)年に感応寺は幕府の命令により廃寺となり、壮大な伽藍は跡形もなく破壊されてしまったという。

 天保十二年は嘉陵が亡くなった年でもあるが、彼が薬王院を訪れた時はまだ鼠山は感応寺建立前であった。

「他からでも眺められる景色ばかりで、四方の見晴らしがきくわけでもない。木の下には小笹が生えていて足元がおぼつかないので、先に進むのはやめて、またもとの道を下ってくると、思いもかけず足元から雉子が飛び立っていったのが面白い。牛込辺りまで帰る頃には、月がくっきりと照っている。

 

 はふれにしおぞのおきながもとゆひの霜とも見ゆる月の影かな」

 嘉陵は薬王院あたりで引き返したが、僕はもう少し先へ行く。薬王院の西の台地の上、西武新宿線下落合駅付近から続く聖母坂の上に聖母病院がある。

 ここは僕が生まれた病院なのだ。出生地とは産声を上げた病院などの所在地であるとしたら、僕は一応「東京都新宿区生まれ」ということになる。新宿区の端っこだけど。