多摩川・登戸の渡し跡

 多摩川をはさんだ東京都狛江市和泉(昔の多摩郡泉村)と神奈川県川崎市多摩区登戸(昔の橘樹郡登戸村)を結んでいたのが登戸の渡し。江戸から世田谷、喜多見、狛江を通る津久井往還が通っていた。
 旧街道が多摩川の土手に出るところ。


 多摩川の流路は時代とともに変わり、渡しの位置にも変化はあったと思うが、最後の渡し船が出ていたのは小田急線の鉄橋の少し上流側。海から23キロ地点。

 渡船場へ続く道の名残。

 今は渡し船ではなく、貸しボート屋がある。

 対岸の登戸側にもボート屋がある。

 昭和2年に小田急線が開通し、登戸の渡しの利用者は大幅に減ったものの、まだ道路橋はなく、渡しは存続。 
 津久井往還の後身である世田谷通り(登戸から先は津久井道)の橋が初めて架けられたのは昭和28年のこと。この時に渡し船は廃止された。僕が生まれる前ではあるが、意外に最近まであったのだな。

 小田急線の下流側にある「多摩川決壊碑」。

 昭和49年8月31日から9月1日にかけて台風16号の影響で奥多摩で大量の雨が降り、多摩川が増水。二ヶ領宿河原堰でせき止められた濁流が左岸側の取り付け部を破り、ここから迂回流が発生。左岸本堤防(狛江市側)も抉られて決壊。最終的に堤防が260メートルにわたって失われ、濁流が住宅街に流れ込んだ。2日から3日にかけて家屋19軒が相次いで流失。家が形を保ったまま、次々と濁流に呑まれ、流れていくニュース映像は今も鮮明に覚えている。自衛隊が流路を変えるべく堰の爆破を試み、度重なる失敗の末にようやく堰の破壊に成功し濁流を誘導。住宅街へ流れ込んだ迂回流を締め切り、本来の河道へ戻すことができたのだった。43年前の出来事。山田太一脚本のドラマ『岸辺のアルバム』の題材にもなった。

(狛江市HPより)