村尾嘉陵の旧宅跡

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)が残した江戸近郊散策記の足跡を辿るシリーズ。これまで井の頭弁財天、代々木八幡宮の旅のルートを江戸時代の風景に思いを馳せながら実際に歩いてみたが、第三弾の前にスタート地点である彼の自宅跡を訪ねてみた。

 徳川家御三卿の一つ、清水家に仕えていた嘉陵の旅の出発地は2カ所ある。井の頭へは浜町から、代々木八幡へは三番町から出かけている。

 井の頭紀行では「浜町賜舎宿りを出」と書いている。江戸切絵図の「日本橋北之圖」(1850年)をみると、今の中央区日本橋蛎殻町二丁目に「清水殿」とある(現在、有馬小学校があるあたり)。

(「日本橋北の圖」の一部。赤く囲ったところが「清水殿」)

 隅田川に面した一角で、運河沿いの広い敷地である。「賜舎」というのは清水家に仕える侍のいわば職員住宅のようなものがここにあったのだろうか。

 嘉陵は浜町に住んでいて、その後、三番町に引っ越している。正確な時期は不明だが、文政七(1824)年九月の「藤稲荷に詣でし道くさ」に次のように書いてある。

「引っ越しした所の障子や襖さえ張っていないが、『じきに冬が来るのに』と家内が心細げに言うのも聞かないふりをして、今日はことさら日射しもうららかで、とても家でおとなしくしていられるような陽気ではない。これも心を豊かにするためだとかこつけて、出かけることにした」(阿部孝嗣訳)

 こうあるから出かけたのは三番町の自宅からだろう。文政七年といえば、嘉陵はすでに六十五歳。晩年になって一戸建ての自宅を手に入れたといったところだろうか。

 では、三番町のどこに家があったのか。「番町絵圖」をみると、三番町に「村尾栄蔵」という名が書かれているのが見つかる。この図は寛政三年に作成されたもので、1850年だから嘉陵の没後である。村尾栄蔵は嘉陵の子息であったという(養子か?)。

 現在の住所でいうと、千代田区九段南三丁目七番地で、今はゴンドラというケーキ店などになっている。目の前の通りは靖国通りで、向かい側は靖国神社である。『江戸近郊道しるべ』の注釈では三番町の家が今の九段南二丁目となっているが、誤りだと思われる。

 彼が仕えた清水家は江戸城に田安門から入った左手で、今の日本武道館の位置にあたる。武道館からその向こうの清水門にかけての広大な敷地が屋敷であった。徒歩通勤に便利な場所に住んでいたことになる。65歳で定年退職ということはないだろう。

 実際に行ってみた。地下鉄半蔵門線九段下駅下車。九段下交差点から内堀通りを南へ行って、江戸時代の姿をそのまま残す清水門から城内へ。浜町時代はこちらから出入りしていたのだろう。

(右は牛ヶ渕。右奥に日本武道館。清水門から武道館にかけての一帯が旧清水家)

 高麗門をくぐると、枡形の広場。そして、右手に渡り櫓。敵が攻め込むと、ここで四方八方から鉄砲で撃たれることになる。

 清水門内でUターンするように石段を登る。城門なので、バリアフリー非対応。

 北の丸公園を抜け、武道館前を経て、田安門から出る。こちらは武道館への出入りに利用されるので、バリアフリー化されている。

 田安門を出て、靖国通りを西へ千鳥ヶ淵に沿って歩く。

 南へ折れる千鳥ヶ淵を過ぎて、さらに靖国通りを行く。九段南三丁目七番地に嘉陵の自宅があった。道路の向かい側は靖国神社。当然、江戸時代にはなかった。

 ゴンドラというケーキ店のある一帯が村尾嘉陵の自宅跡。

 付近を歩いていると、あちこちに旧跡の解説板が立っているが、「村尾嘉陵旧宅跡」には何もない。

 この日はここをスタート地点にして、大田区の洗足池まで歩いた。その話はまた今度。