嘉陵紀行「千束の道しるべ」を辿る(その2)

 文政十一年七月二日(1828年8月12日)、江戸の侍・村尾嘉陵が三番町の自宅から洗足池(千束池)まで歩いた日帰り旅の記録「千束の道しるべ」の足跡を辿っている。

 江戸城下から虎ノ門を出て、今の桜田通りを歩き、三田、高輪と丘の上の旧街道を行き、雉子宮に参拝したところから。

 ここまでは道路沿いに大名屋敷や寺社、町屋が続き、江戸郊外の町を歩いてきた嘉陵だが、ここからは田園風景の中へ出ていく。

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 そこを過て田のふちを少し北に行ば、山ぞひの東の高き所に、長屋づくりの門かまへたる家をみる。是はここの名主役勤るものの宅地と云、そのつづきにも、よき家作りニ三戸見ゆ、道ばたに民戸二三軒あり、この辺下大崎村と云、道の南北に石の傍示を建、北は目ぐろ、ひもんや、南は品川など彫つく。

(宝塔寺

 雉子ノ宮(雉子神社)の別当だった宝塔寺前の道を門前から右へ行くと、今は桜田通り(国道1号線)の陸橋下をくぐるようになっているが、かつてはこの地点で二本の道が合流するようになっていたようだ。そして、宝塔寺前には三田用水の分水路が流れていた。

(正面の陸橋が桜田通り。右の石垣が宝塔寺。そして、この道沿いを三田用水が流れていた。)

 桜田通りの向こう側は旧岡山藩池田家の下屋敷があった土地で、今でも「池田山」がブランド地名として残っている。その東側に下大崎村の名主の家があったということだろうか。

 再び桜田通りに戻って、五反田駅方面へ歩くと、右に花房山通りが分かれる。この分岐点に道標があり、「北は目ぐろ、ひもんや、南は品川」などと彫られていたようだ。この道標を探したのだが、見つからず、帰宅後に『品川の古道』(品川区教育委員会、平成十年)を調べたら、現在は所在不明とのこと。この村尾嘉陵の文章に記録が残るだけのようだ。確かにここから北へ行けば目黒、碑文谷方面に行けるし、南へ行けば品川宿に通じている。

 昔は見渡すかぎりの田圃だったという五反田で桜田通りは山手線のガードをくぐる。今は駅の目黒寄りをくぐるが、大崎寄りをくぐるのが旧ルートに近い。

 もちろん、当時は鉄道も駅も周辺のビルも何もなくて、田圃だけだったのである。高輪付近では標高25メートルほどの高台だったが、五反田駅周辺の標高は4メートル前後である。

 田中の馬道を坤に向てやや行ば、用水流る橋あり〔土道橋と云、この所まで川下より舟さしてのぼる〕、わたりて猶行ば、戸越村、道の左に制札場あり、このあたり道の左右林木の間所々民家あり〔近比松平阿波守屋敷を割て、津軽越中守替地にとて賜はりし所は、この辺の南側小道の奥に在〕。

 

 田んぼの中の馬道を南西に向かって少し行くと用水がある。これは目黒川のことで、大崎橋を渡る。ただ、嘉陵は橋の名を「土道橋」と書いているのが疑問だった。調べてみても、目黒川にそのような名前の橋があったという記録は出てこないのだ。大崎橋は江戸時代にも同じ名前で呼ばれ、相模に通じる橋という意味で相州橋との別称もあったようだが、土道橋という呼称は周辺の橋を含めても一切見られない。恐らく、嘉陵の事実誤認と思われるが、その点についてはあとで改めて触れる。

 ただ、嘉陵が書いているように、今でも東京湾から小型の船がこのあたりまで入ってくるし、嘉陵も帰路にここで下肥を積んだ船が遡ってくるのを見ている。

(目黒川に架かる大崎橋の下には船着き場がある。右上は東急池上線五反田駅

 

 とにかく、目黒川を渡って、さらに行くと山手通りと交差する。山手通りの原型は当時からあり、目黒道と呼ばれていたようだ。

 その先に「中原口」があり、ここで国道1号線(第二京浜)から中原街道が分かれる。神奈川県平塚市へと通じる東海道脇往還である。ここからその中原街道を行くが、当時の道は現在の通りの西側に「旧中原街道」として残っている。目黒川の低地を過ぎ、ここからまた台地上を行く。両側は林で、民家が点在していたようだ。今の地名では西五反田だが、昔は桐ケ谷村だった。

 まもなく四つ辻に地蔵尊がある。享保十二(1727)年建立なので、嘉陵が歩いた時にもこの場所にあったはずである。このお地蔵さまは「子別れ地蔵」と呼ばれている。ここを右へ行くと桐ケ谷の火葬場に通じており、子どもに先立たれた親が我が子の亡骸をここで見送ったことに由来するという。今も桐ケ谷斎場がほぼ同じ場所にある。

 桐ケ谷の交差点を過ぎると、旧戸越村に入る。嘉陵が松平阿波守(正しくは因幡守)の屋敷の一部を割いて津軽越中守に与えられたと書いているのは、桐ケ谷交差点から左へ行き、第二京浜を越えた先で右(南)に入ったあたりで、戸越一丁目付近である。
 文政十(1827)年、幕府が弘前藩津軽越中守に対して江戸の向柳原(台東区鳥越一丁目付近)にあった屋敷を返上させ、替地として戸越村の鳥取藩池田家(松平因幡守)の下屋敷の土地およそ六千坪を与えたもので、嘉陵がこの道を歩いたのは文政十一年なので、1年前の出来事であった。ちなみに津軽家が新たに与えられたのは畑ばかりの土地だったらしい。

 品川区指定有形民俗文化財「旧中原街道供養塔群」として地蔵尊庚申塔馬頭観音などが二カ所に集めて保存されている旧中原街道を行くと、平塚橋交差点で現在の中原街道に合流する。

 石橋ある所より左に横折て少し行ば、又岐路あり〔左品川みち、右卯ノ木光明寺道と彫付〕、ここより右に行、しばしにて道の右側に八幡宮立せ給ふ〔是中延の八幡宮也〕。

 

 「石橋ある所」というのが平塚橋で、品川用水を渡っていた。武蔵野市の境で玉川上水から分かれ、三鷹市、世田谷区、目黒区を流れて品川へ通じていた用水路である。

 現在の交差点の手前に右から来る商店街に沿って水が流れていた。平塚というのは、この付近にかつて平塚と呼ばれる塚があったことに由来する。伝承によると、後三年の役(1083-87)で源義家を助けた弟の新羅三郎・源義光は奥州から帰還の途中、この地で宿営した際に夜盗に襲われ多数の配下を失ってしまった。憐れんだ村人が亡骸を葬ったのが平塚だという。塚はいつしか壊されてしまったが、跡地から刀剣や鎧などが発掘されたという。

(平塚橋交差点手前で中原街道を横切る品川用水跡。用水沿いに道があり、嘉陵はここで曲がった)

 平塚橋を渡った嘉陵は中原街道から左折する。大井町方面へ通じる道だが、すぐにまた右に入る道がある。その分岐点に道標があり、「左品川みち、右卯の木光明寺道」と彫ってあったと記録している。嘉陵が見た同じものを見たいと思っていたが、残念ながら、この道標も現存しておらず、嘉陵の文章によって、その存在を知ることができるだけのようだ。このような点で嘉陵が書き残したものは貴重なのだ。

 大田区鵜の木にある光明寺奈良時代天平年間(729-49)に行基が開き、平安時代弘仁年間(810-24)に空海が再興して関東高野山宝幢院と称したと伝えられる古刹。その後、鎌倉時代に浄土宗に改められている。

 中原街道の東側を南下する、いかにも旧道らしい道(仲通り)をひたすら行く。これは鎌倉道のひとつともいう。そして、このあたりはもう昔の中延村である。

 やがて右手に旗岡八幡神社がある(品川区旗の台三丁目)。これが嘉陵がめざした中延八幡宮である。

 旗岡八幡神社平安時代の長元三(1030)年、下総で反乱を起こした平忠常を追討するために甲斐国から赴いた源頼信がこの地に宿営した際に八幡神に戦勝を祈願したのが始まりと伝わる古社である。その時、源氏の白旗をなびかせて武威を大いに誇ったことが「旗岡」や「旗の台」の地名の由来になったという。その後、鎌倉時代に入り、当地の領主で源氏の血を引く荏原義宗が社殿を整備したと伝わる。また、義宗は日蓮宗に深く帰依し、息子を日蓮の高弟・日朗の弟子とし、息子は後に朗慶上人となって旗岡八幡神社の隣に法蓮寺を開いた。法蓮寺は八幡神社別当となっている。

 門を入ると石の鳥居がある。拝殿の広さは五間に三間半ほどで、柱、梁、唐戸などが同じ欅で造られている。本社も同じである。最近になって造営されたものであろうが、とても瀟洒に造られており、前庭に畏れかしこんで拝する。着ているものは簡素だが、烏帽子、素襖などを着けているような気持ちで、畏れかしこまってひざまずく(現代語訳)。

 

 現在でも東京都内には数多くの八幡神社があるが、なぜ嘉陵は旗岡八幡宮参拝を思い立ったのか。2代将軍・徳川秀忠が祈願所とするなど、武家の信仰を集めており、特に別当である法蓮寺39世住職・日詮上人は11代将軍・徳川家斉が鷹狩の際に当寺に立ち寄った際、寺の芝庭で家斉と角力を取り、手加減をせずに将軍を負かしたことで、却って称賛されたという話が残っている。そして、日詮は諸大名だけでなく、江戸城大奥や清水家に仕えていた奥女中からも帰依を受け、文化十(1813)年、その寄進により八幡宮に新たに権現造りの社殿が造営されたという(『荏原区史』)。清水家の御広敷用人として殿様以外の男性が立ち入れない奥方と外部の取次を任されていた嘉陵は当然、このことを知っていたと思われる。そこで参詣を思い立ち、あたかも礼装をしているような心持で神前にぬかづいたのだろう。

 彼の文章を読むと、社殿の造営についても知っているはずのことを敢えて知らぬふりをして書いているようにも感じられる。

 この時の社殿は戦災で焼失し、今は戦後に再建されたものである。ただ、境内には文化五(1808)年の狛犬があり、これは嘉陵の参拝寺にはすでにあったものである。

 嘉陵は神社の門にこの社は日蓮上人が勧請したものであると書かれていると記しているが、それは見当たらなかった。

 

 つづく

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