嘉陵紀行「石神井の道くさ」を辿る(その1)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の江戸近郊散策日記の道筋を辿るシリーズ。今回は練馬区石神井である。東京以外の人たちにとっては意外に難読地名かもしれないが、これで「しゃくじい」と読む。

 時は文政五年九月十一日頃。日付の後に「頃」がついている。原文だと「長月の十一日ばかり」。出かけてから日が経った後に書いたのだろうか。今の暦だと1822年10月25日である。この時、嘉陵は数えの六十三歳。

石神井村の弁才天に詣でようと、朝早くに出る。明け方は少し雲が多く、今にも降ってきそうな気配であったが、しばらく様子を見ているうちに晴れてきた」(現代語訳:阿部孝嗣)

 当時、嘉陵はまだ隅田川に近い浜町に住んでいたが、江戸の市中の道筋は書かれていない。恐らく、現在の目白通りを来たのだろう。この先も目白通りを歩いていくので、僕は山手線の目白駅からスタートする。ここからでも石神井まで歩くのは遠いなぁ、と思う。

目白駅前)

 目白通りを西へ行く。少し行くと豊島区目白から道の左も右も新宿区下落合になる。しかし、店舗やマンションなどの名前には「目白」ばかりが目につくのは、下落合より目白のほうが地名のブランド力が高いからだろう。商店会の名称も「目白銀座商店会」である。目白でも銀座でもないのに。

 1キロ余り歩くと、通りの左側に建物に取り込まれた地蔵堂があり、「子安地蔵尊」とある。ここに南から来る道は下落合の「七曲がり坂」の道である。

椎名町の慶徳屋の少し先に分かれ道があり、北に行くと上板橋に出る。ここから西は、道の両側に楢の木が植えられており、行っても行っても同じ景色の馬道が続く」

 椎名町目白通りと山手通りの交差点付近にかつて商家が並んでいた場所で、慶徳屋は椎名町の豪商であった。嘉陵はここを過去にも通っているが、その時も慶徳屋に触れている。

 豊島区立郷土資料館の資料館だより『かたりべ No.1』(1985年11月)に「椎名町慶徳屋のこと」と題して地元の高田恵義氏が寄稿している(ネット上で閲覧可)。高田氏も嘉陵の文章を読んで慶徳屋に関心を持ち、地元の古老への聞き取りなどを通じて慶徳屋の所在地や往時の様子などを明らかにしている。

 慶徳屋は穀物を中心に塩や茶も扱う商家で、開業年代は不明ながら江戸時代から大いに栄え、明治の末には衰退してしまったという。その所在地は下落合駅から聖母病院前を通ってくる聖母坂が目白通りに突き当たる地点の北側、目白五丁目四番地付近で、「現況図」も掲載されているが、この寄稿文からすでに38年を経過して、すっかり変わってしまっている。ただ、九百坪もあったという慶徳屋跡地の一部を所有する泉屋酒店は通りから奥まった所に健在で、慶徳屋のあった場所も分かる。

(通りの反対側が慶徳屋跡。間口二十間、土蔵二棟が並ぶ豪商だったという)

 その慶徳屋跡を過ぎて、昔はなかった山手通りを渡り、西へ行くと、まもなく分岐点がある。ここを右へ行くと旧上板橋村方面、嘉陵は左側、引き続き目白通りを行く。当時は石神井街道などと呼ばれたらしい。

 当時は椎名町の家並みを過ぎれば、あとは楢の並木が続く田舎の道だったようだ。今はイチョウプラタナスの並木が続く。

椎名町から半里ほどは、道の左右はみな畑である。人家が二、三戸あるだけで、すれ違う者はみな馬を牽き、糞桶を運んでいる者だけである」

 まもなく交差点がある。左から来るのは新目白通りで、ここで目白通りと一緒になって北西方向(練馬方面)へ向かう。西へ直進する道は新青梅街道と名前が変わる。名称からは新しい道路のように思えるが、江戸時代からある古い道、あるいはもっと古い時代からの道かもしれない。江戸城太田道灌石神井城の豊島泰経の軍勢がこの先で合戦をしているからである。

 新青梅街道に入り、まもなく下り坂となる。

「少し坂を下ると田圃が少しある」

 坂を下ったところに昔は田圃が広がっていたようだが、道の左側に自性院がある。弘法大師空海が創建したという伝承がある真言宗豊山派の寺院で、正式には西光山自性院無量寺という。秘仏の猫地蔵が祀られていることで有名。

 本堂の横に古い石仏が並んでいて、その中に宝暦十一(1761)年の庚申塔がある。その側面に「西 江古田村道」と刻まれている。恐らく、いま歩いている街道沿いのどこかに立っていたのだろう。この道を西へ行けば、まもなく昔の江古田村(えごた、中野区江古田)である。

 ちなみに新目白通りの交差点から西側は新宿区西落合で、昔は葛ヶ谷村だった。江戸時代以前からある古い地名らしい。

 自性院前を過ぎると、旧道が左に分かれ、すぐ右に折れてまた新青梅街道に合流する。水路跡があり、流れを直角に渡るためにこのような形になったのだろう。

「少し行くと登り道になる。道の両側はみな畑で、眺望もない。やや行ってまた小坂を下る。また田圃である」

 台地に上って、平凡な田舎道を行く。もちろん、今は宅地化が進み、街道沿いには商店も多く、農地は見られない。平凡な郊外の風景である。

 西落合三丁目にも旧道が残っていて、街道から右へ分かれ、150メートルほどでまた新青梅街道に合流する。

 旧道が新青梅街道に再合流する交差点を過ぎると、中野区に入る。道の北側が江古田、南が松が丘で、昔の江古田村と片山村である。街路樹がプラタナスから桜に変わる。

(旧荒玉水道の野方配水塔。昭和4年完成。現在は災害用貯水槽として利用)

 右に旧野方配水塔を見て、まもなく星光山蓮華寺がある。室町時代橘樹郡星川村(現在の横浜市保土ヶ谷区星川)に創建され、江戸時代の元文五(1740)年に現在地に移転、中興された日蓮宗の寺である。

 野方配水塔も蓮華寺も高台上にあるが、ここから坂を下ると、妙正寺川と江古田川(中荒井川)の合流する低地で、昔は田圃が広がっていたが、先に触れた太田道灌と豊島泰経の軍勢が戦った古戦場でもあり、川の合流点に面した江古田公園に「史蹟江古田ヶ原沼袋古戦場」の碑が立っている。

 全国に先駆けて戦国時代に突入した関東において、当時、関東を支配していた関東管領上杉氏に対して、長尾景春が反乱を起こし、この時、長尾方についた武蔵の豪族、豊島氏と上杉方の太田道灌の両軍がこの地で激突したのだった。江戸城から進軍してきた太田道灌軍はいま辿ってきた道を通ってきたと思われる。一方、石神井城の豊島泰経と練馬城の弟・豊島泰明が迎え撃ったが、激しい戦闘の末、泰明は討死。泰経は石神井城に敗走した。

 かつて、この周辺には多くの塚が残され、多数の人骨や馬の骨、兜、刀などが発掘されており、昭和初期の区画整理の際にリヤカー3台分の人骨が出たところもあったそうだ。嘉陵がこの道を歩きながら、そのような古戦場であることを意識したかどうかは分からない。

妙正寺川に江古田川が合流する)

 ところで、新青梅街道を川の合流点まで来てしまうと、ちょっと行き過ぎである。昔の街道が川の合流するような水害多発地帯を通るわけはなく、ここでは江古田川の上流へ迂回して川を渡っていたからである。

 少し戻って、松が丘二丁目歩道橋の手前、ENEOSのガソリンスタンド角を曲がり、北へ迂回するのが旧道である。往時はもう少し手前から北へ逸れていたが、道が消えているので、ここで右折する。

 北へ行くと、すぐ五差路がある。ここは黒い板塀のあるお宅の前、江古田1-29と30の間を北西へ進むと、江古田川を渡る。橋の名前は「大橋」で、いかにも街道を渡す橋らしい。しかも、ここに大橋についての説明がある。

「むかしこの橋は、土台が石積みの橋でした。ここを通る道は、幅4mほどの江戸道又は石神井街道と呼ばれ、石神井鷺宮方面から葛ヶ谷村(現新宿区西落合)、雑司ヶ谷(現豊島区)を通り江戸に向かっていました。この道を江古田村特産の野菜を積んだ荷車やお百姓、旅人が行き来し、江古田の獅子舞も氷川神社に向け行列しました。また、橋のたもとには水車小屋があり、千川上水からの江古田分水の流れで水車を回していました」

 また、昔の大橋付近の風景を描いた絵も親柱に飾られている。

 さて、嘉陵は江古田村の田圃の中の道を行く。ちょうどこのあたりだ。

「恵古田村の田圃の中の道の傍らに豆腐を売っている家がある。ここから先に休む所があるかどうか不安なので、しばらく腰掛けて持ってきた飯を取り出して食べる。主の姥がお茶を持ってきてくれ、端に座っていたのを見て、『もっとこちらへ』などと言ってくれる。

 家はきれいにして住んでいるようで、調度品も整頓されている。私の持っている水を呑むために使っている椰子の器を見て、『これは何というものですか』などと問いかけてくる。『しかじかのものです』と言えば、『みんな来てごらん、これをごらん』などとあちこちにいる者に言い伝える。

 やがて酒を温めて持ってきて、『この器で呑んでみてください』と言う。元来、私は酒をたしなまないが、吟行には少しぐらい酔うのも疲れをとることになるかも知れないと思い、ちょっと呑むと、非常に喜んで、姥の姪にわざわざ遠くから姪の子どもを呼んでこさせてまで見せる始末である。酒を勧めながら、畑にある芋を上手に料理して皿に盛って出してくれた。

 『この辺りは、山にはしめじや初茸などがたくさん生えるが、今は時期が過ぎてしまった。来秋は葉月のうちに来なさい。一夜泊りがけで来れば、その辺を案内してさしあげますよ』などと言ってくれる。非常にやさしい、素朴な姥である。家の名前を聞くと、田中屋長助と答えてくれた。

 わするなよ茸つみにとて又もこんあさじがもとの露をたづねて」

 

 今でも沿道に田中屋、あるいは豆腐屋があるか注意していたが、見当たらなかった。

 

 つづく