嘉陵紀行「石神井の道くさ」を辿る(その2)

 江戸の侍・村尾嘉陵が江戸から石神井村まで出かけた話の続き。江古田村(今の中野区江古田)の田園地帯にあった豆腐屋の店先で持参の弁当を食べたところから。

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 田圃の南側には林が連なり、その向こうは上高田村だと教えられたが、大した眺めではなかったらしい。その林はUの字を逆さにしたように流れる妙正寺川に囲まれた台地で、当時の地名は片山村、今は中野区松が丘となっている。

「ここに孫右衛門という農家がある。天正十八(1590)年八月、徳川家康公が江戸に住まいを移された時に、どういう縁からか榊原康勝の朝臣が孫右衛門の家に来られて、ここから江戸に出かけられたという。それから今に至るまで、榊原殿は年の初めには必ず孫右衛門の家に来られ、白銀三枚を賜ることが恒例とされている。このことをかつて稲葉新助が話していたのをふと思い出して、地元の者に問うと、そのとおりだと答える」

 

 調べてみると、孫右衛門というのは江古田村の名主を務めた深野家で、当主は代々、孫右衛門を名乗った。古くから江古田に土着し、先祖は鎌倉時代の落武者だとの説もある。また、日蓮上人が鎌倉から佐渡へ向かう途中で一泊し、日蓮から「深野」の姓を賜ったとの伝承があり、深野家に「普賢菩薩七難即滅」の真筆が残されているともいう。榊原氏は家康に三河時代から仕える譜代大名。当時は越後高田藩主だった。深野家と榊原家の縁を伝えるものとして、江古田の蓮華寺日蓮宗)の寺伝に天正年間、深野家の所有地で榊原家の奥方(あるいは大殿とも)を火葬に付し、その土地の寄進を受けて蓮華寺が建立されたという。実際、蓮華寺には深野家の墓がある。また、深野家は榊原氏の御用勤めを担い、江戸屋敷の土地造成を担当したほか、下肥の汲み取り、野菜の納入などを行ったという。

 今も江古田一丁目にいかにも地元の旧家らしい立派な門構えの深野邸がある。江古田では青龍、白虎、朱雀、玄武の四神が三匹の獅子を守護する形の珍しい獅子舞が伝わっており、深野邸に獅子蔵があり、ここを出発地として町内を練り歩き、江古田の鎮守で、三丁目にある氷川神社へ向かうそうだ。

 なお、氷川神社の東にある東福寺真言宗豊山派)は徳川家光、吉宗が鷹狩の際に休息したといい、「徳川将軍御膳所跡」の石碑がある。

(中野区歴史民俗資料館に展示された名主屋敷・深野家の復原模型)

(江古田氷川神社

(金峯山世尊院東福寺

「さらに田圃の中の道を行き、その行き着いた所を少し登ると、鉄を何重にもして造ったような大きな蔵が三つ、四つある。これは山崎喜兵衛という醤油造りの家である。その間にも同じような蔵があるが、これは喜兵衛から分家した七兵衛という灯油搾りの家である」

明治42年の江古田村付近。橙色の線が新青梅街道。赤線がその旧道)

 

 明治時代の江古田の地図を見ると、嘉陵が休憩をした豆腐屋は大橋の手前の本村付近にあったと思われるが、そこから大橋を渡り、田圃の中を西へ突っ切る。現在の道では大橋を渡り、五差路があり、横切る二車線 道路の先で道は二股に分かれるが、右の細いほうの道を行く(下写真の右奥へ行くのが古道)。

(五差路を右奥へ)

 まもなく、また五差路がある。直進すると氷川神社東福寺だが、ここで南南西へ行く細道に入る。江古田2-5と2-6の間を行くと、先ほど二股に分かれたもう一方の道と再合流し、西へ行き、江古田通りを突っ切り、突き当りを左折して南西へ坂を登ると再び新青梅街道に出る。その手前の右側、木立に囲まれた土地が昔、醤油を造っていた山崎喜兵衛家である(上の地図の「山崎家」)。屋敷林の椎の木は道行く人々に貴重な緑蔭を提供し、「醤油屋の椎の木」として親しまれたという。そして、敷地の一部は中野区歴史民俗資料館となっている。

(右の木立が山崎家の屋敷林)

 山崎家も江古田の旧家で、江戸後期に醤油造りで栄え、文化文政期には江戸にも支店を出していたという。幕末には孫右衛門組(深野家)などと並び、江古田村の名主を世襲し、明治維新後、醤油製造は廃業したが、東京府議会議員や地元・野方村の村長を輩出している。敷地内には嘉陵が亡くなった年でもある天保十二(1841)年に建てられた山崎家の書院と茶室が保存され、庭園には樹齢五百年以上という椎の巨木がある。椎は中野区の木にも指定されている。

(山崎家の茶室・書院。太田蜀山人ら江戸の文人墨客も宿泊したという)

スダジイの古木)

 山崎家は本家、分家が現在の江古田から沼袋に点在し、それぞれ紺屋、醤油屋、油屋、酒屋を営んでいたという。

 さて、旧道は現在の新青梅街道を突っ切り、沼袋に入るが、次の角を右折して、すぐに新青梅街道に合流する。この左手に油屋の山崎家がある。屋号は油屋だが、こちらも醤油の醸造販売を大正時代まで続けていた。嘉陵は油屋を七兵衛と書いているが、実際は代々、治兵衛を名乗っていた(山崎清司『油屋文書と二百年のルーツ』、1995年)。

「そこから行く先々の道は、左右が畑で同じような楢の並木が続く。分かれ道があり、『右に行くと中村道、左に行けば上鷺宮村道』と石に彫って建ててある」

 ここから街路樹はモミジバフウとなる。嘉陵のいう分かれ道は現在は数十メートル西にずれているが、道標を兼ねた庚申塔があった。

(黒い車が出てくるところが中村道

 庚申塔は現在は街道から少し奥に入った沼袋4-33-6に移動しており、大谷石のお堂の中に祀られている。正徳三(1713)年に江古田村の庚申講中が建立した立派な塔で、青面金剛像を刻み、側面には「右中村道」「左さぎのミや」と彫られている。台石には深野、山崎、堀野といった名前が読み取れる。堀野家も江古田の旧家で、この三家が江古田の名主を務めていた。

「さらに行けば鷺宮村である。この辺りには離ればなれに民家が二、三戸ある。真昼にもかかわらず、道の傍らの草むらから虫の声が聞こえるので、

 風ふけば峯におとなふ琴のねのしらべにかよふ松むしの声」

 

 こちらはクルマが行き交うばかりで風情のかけらもない新青梅街道を歩いているが、嘉陵が歩いたのは人家もほとんどない、ひたすらのどかな秋の野道だったようだ。

 まもなく環状七号線の丸山陸橋をくぐる。丸山は本来は山崎喜兵衛家あたりの高台を指す地名だったが、今は1キロほど西にずれて、環七周辺の新青梅街道より北側の町名になっている。街道の南側が野方である。ここから離れた江古田の東端に野方配水塔があるが、明治二十二(1889)年に江古田村を含む周辺の村々が合併して東多摩郡野方村が誕生し、のちに町制施行したため、当時の町名が配水塔に付けられたわけである。

 環七を過ぎて、まもなく中野区鷺宮に入る。鷺宮平安時代源頼義がこの地に八幡神を祀り、その境内の森に鷺が多く棲んでいたことから里の人々が鷺宮大明神と呼んだことに由来するという。サギが多かったのは鷺宮八幡神社を取り巻くように妙正寺川が流れていたからだろう。神社の森にコロニー(集団営巣地)があったのかもしれない。

 源頼義創建伝承の真偽は不明だが、鷺宮を南北に貫く中杉通りの元になった道が旧鎌倉街道だとされていることから、この地を頼義の軍勢が通ったということになるのだろう。

 鷺宮は江戸時代には北部が旗本領の上鷺宮村、南部が幕府直轄領の下鷺宮村と分かれていて、嘉陵が歩いた街道が通っていたのは上鷺宮村である。当時は純然たる農村であった。

 やがて、中杉通りの交差点。中杉通りは青梅街道から北上して中央線の阿佐ヶ谷駅西武新宿線鷺ノ宮駅を通って西武池袋線の中村橋方面へ通じる道である。

 その中杉通りを過ぎると、左に旧道が分かれる。

鷺宮の旧道)

 旧道を300メートルほど行くと、右側の駐車場の角に植え込みに隠れるように庚申塔がある。

 唐破風の笠がついた石柱に「奉供養庚申二世祈所」の文字を刻み、主尊の青面金剛はなく、三猿を彫ったもので、元禄十(1697)年の建立。ここで交差する北東から南西の道も古道なのだろう。

 その庚申塔を過ぎて、まもなく新青梅街道にぶつかるが、旧道は街道を突き抜けて、今度は反対側に逸れる。そして、そこに地蔵堂がある。やはりこういうものが次々と見つかると、旧道歩きの味わいというものを感じる。

(画面右のトラックの右手に地蔵尊

 新青梅街道から右に分かれてすぐの地蔵尊は「つげの木地蔵尊」と呼ばれている。かつて地蔵尊を覆うようにツゲの木が茂っていたからだが、今は傍らに小さなツゲが植わっているのみ。お地蔵様は戦後まもなく何者かに盗まれてしまい、寛政三(1791)年と刻まれた台石だけが往時のまま。地蔵尊は昭和二十九年に再建されている。

 地蔵尊の前には「つげの木地蔵尊」の文字を刻み、「右 目白道、左 田無道」と彫った石があり、真っ二つに割れたのを修復してあるが、これは新しいものだろう。ただ、ここに地蔵尊があるということは、ここで右(北西)に分かれていく道も古い道なのだろう。

 地蔵前を左に行くと、すぐにまた新青梅街道に合流する。ひたすら西へ向かって歩く。

「さらに行くと井草村で、同じような馬道に行き着き、少し北に下ると打ち開かれた田圃がある」

 やがて、井草に入る。ここから杉並区だ。延々と続いたモミジバフウの街路樹が途切れ、ここからはハナミズキである。それにしても井草まで来ると、石神井も近いな、という気になる。思ったより早い。

 井草二丁目の信号を過ぎて、通りの左側にマクドナルドがある手前で旧道は左に逸れる。「石神井住宅公園」の広告看板もある。

(井草の旧道)

 旧道を行くと、すぐに一本の道に行き当たる。「同じような馬道に行き着き」というのがここのことだ。行き着いたのは旧早稲田通りである。新青梅街道と違って、いかにも古道っぽい名称で、実際、突き当りに地蔵堂がある(井草2-16)。

 

 堂内には二体の地蔵尊と二体の馬頭観音。お堂の左側には二基の石塔が立ち、いずれも正面に弘法大師と彫られている。石神井三宝寺が宝暦年間に開かれた御府内八十八ヶ所霊場巡りの第十六番札所であることから、「右志やくじ道」と彫られ、石神井方面への道しるべとなっている。

 旧街道を歩いていて、あるべき場所にこのようなものを見つけた時は嬉しいものである。

 ここからは旧早稲田通りを北西に向かって行けば石神井だ。世田谷の自宅からサイクリングで石神井公園に行く時に通る道でもある。

 

 つづく

 

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