嘉陵紀行「谷原村長命寺道くさ」を辿る(その3)

 江戸の侍・村尾正靖(号は嘉陵、1760-1841)が文化十二年九月八日(1815年10月10日)に仲間四人とともに谷原村の長命寺練馬区高野台)まで出かけた道筋を辿った話の続き。

 旧江戸城の清水門から歩き出し、練馬までやってきた。千川通り目白通りと昔は「清戸道」と呼ばれた道筋を辿り、昔の豊島郡上練馬村だった練馬区向山(こうやま)を行く。

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 向山と貫井の境界付近で目白通りの南側に旧道が残っている。

 向山の旧家を左に見て、まもなく木立の中に庚申塔がある(貫井2-4,上写真)。

 「上練馬之内貫井村」の講中十人が「二世安楽」を祈願して宝永四(1707)年十一月吉祥日に建立したものだが、その前月の旧暦十月四日には日本史上最大級の巨大地震(宝永地震)が南海トラフで発生し、十一月二十三日には富士山が大噴火を起こしている。

 この庚申塔前で左に分かれる道があり、その先にも石塔が見える。天保十五(1844)年建立の馬頭観音で、もとは庚申塔の向かいにあったのを移したのだという。

 杉並区阿佐谷から北上してくる中杉通りの交差点手前で旧道は目白通りに吸収されるが、その先で今度は右に分かれる。

目白通り旧道が右に分岐)

 しかし、この旧道も近代以降の道で、さらに古い道がすぐに左に分かれる。

目白通りの旧道から旧々道=清戸道が左に分かれる)

 江戸川橋神田川を渡って目白坂を登ってから、ずっと起伏がほとんどない台地上を来たが、旧々道に入ると、下り坂になる。

 坂の途中で右手の石段の上に須賀神社ある。祭神は須佐之男命。

 須賀神社の石段の傍らには「清戸道」の碑が立ち、間違いなくこれが嘉陵たちが歩いた古道だと確信できる。

(清戸道の石碑)

 坂を下りきると、再び目白通りと合流する。もちろん、昔はこの目白通りは存在せず、清戸道が一本道だった。

 谷底には水路跡が残っている。昔は田圃が広がっていた。ここを流れていたのは石神井川の支流で貫井川というらしい。味のある「公園どうぶつ」が3体。

 その先に鳥居が見えたので、行ってみると、フェンスで囲まれた中に神社が二つ並んでいる。門が閉じられ、中には入れない。

 左側の赤い鳥居には御嶽神社の額が掲げてある。右側は神社名が分からないが、裏手の文字が消えかけたプレートに弁財天の文字が読めた。

 この神社の左奥に真言宗の円光院がある。正式には南池山円光院貫井寺といい、山号は寺の南側に池があったことにちなむというから、その池のほとりに弁天様が祀られていたのだろう。川が流れ、湧水の池もあるような土地だったわけだ。

(円光院)

貫井村の道の左側に子の権現の社がある。材木の間に竹を掛けて、商人がものを売った形跡がある。道行く人に尋ねてみると、決まった日に、古着や食器などの、使い古しのものを江戸から持ってきて、この辺りの人に売っているという。社は東に向かって小祠があり、ここから少し行くと分かれ道に出る」

 この「子(ね)の権現」は円光院とは道を挟んだ向かい側にあったようだが、現在は円光院に祀られている。寺伝によると天正十三(1585)年に没した開山・円長法師は密法修行の折、腰と脚の痛みに悩まされ、いかなる治療でも効果がなかったため、足腰守護の神仏として信仰を集めていた武蔵国秩父郡の大隣山天龍寺(埼玉県飯能市)の子ノ聖大権現を遥拝し、一心に平癒を祈願して七日間の断食を行った。その満願の日、夢告により掘り当てた石で患部を撫でさすると、たちまち快癒したという。そこで感謝の意を込めて、当地に寺を建立し、その近くに子ノ聖大権現を勧請して霊石と共に奉安したと伝えられる。現在、円光院の本堂に安置された子ノ聖権現は十二年に一度、子の年・子の月・子の日にご開帳され、また観音堂に安置された観世音菩薩は子ノ聖観世音と称し、馬の守護仏として信仰を集め、毎年春に境内で「馬かけ」の行事が行なわれ賑わったという。

 円光院の門前には多くの石仏石塔が並んでいるが、このうち、門の左手に並ぶ二基の庚申塔はこの先の長命寺に通じる道沿い、貫井4-30にあったものを移設したものである。右が元禄五(1692)年、左が宝永元(1704)年で、いずれも上練馬内田嶋村の人々が建立している。田嶋は貫井の小字にあった。元の所在地付近の地名なのだろう。

 さて、子ノ権現から少し行くと、分かれ道に出るという。円光院前から上り坂の目白通りを行くと、練馬第二小学校の前で右に分かれる道があり、そこに石碑が立っている(下の地図のA地点)。

 ここで目白通りから右に分かれるのが、その旧々道にあたる「清戸道」で、直進する目白通りの下には長命寺に通じる「東高野山道」が隠れている。

「右に行くと、所沢、秩父、左は東高野山である。東高野山には名碑がある。東野某が銘文を造って彫らせたものである」

 道標は二基あり、左側は寛政十一(1799)年三月に再建されたもので、正面に「左 東高野山道」と彫られている。右側の大きな碑は右側面に「右 所さハちゝぶ道」、左側面に「左 高野山十八丁」と刻まれている。正面の上部には「東高野山」の文字、下部には東野孝保の選・書により長命寺および道標の賛語が八字六句の漢文で刻まれている。この道標を嘉陵も絵で残している。

 正面上部の「東高野山」の文字の配置が異なっているが、字体は一緒で、漢文も同じなので、まさにこれである。長さ三尺五六寸、幅二尺余とサイズまで記録している。

 そのため、練馬区教育委員会が設置した説明板にもこの道標は「文化十二年(一八一五)に村尾正靖(嘉陵)が長命寺を訪れた際に著した紀行文「谷原村長命寺道くさ」(『嘉陵紀行』所収)にも記載されています」と紹介されている。

 さて、ここで清戸道と分かれ、「東高野山道」を行く。道標のある「練馬二小前」で横断歩道を渡り、目白通りを北西に行くと、すぐ左に分かれる道がある。これが目白通りの下に隠れていた古道で、ここから先の目白通りは昔は存在しなかった。つまり、昔はここは分岐点ではなかったので、ここに道標はない。

目白通りから東高野山道が左に分岐)

 道なりに北西方向へ行くと、道はだんだん左へカーブして、曲がりくねりながら西へ向かう。

 「ここ(東高野山道標)を過て屈曲盤廻する事五六にし、高野山うら門に出る」

 嘉陵は簡潔に済ませているが、実際に歩いてみると、いろいろと見どころはある。住宅街の道だから、景色が良いわけではないけれど。当時はずっと畑や田圃、雑木林の道だっただろう。

明治14年の地図でみる「東高野山道」。A地点が清戸道との分岐点の道標)

 まもなく右にまた小さな須賀神社があり、見逃しそうになるが、その一角に元禄十五年の庚申塔がたたずんでいる(地図のB地点)。

貫井四丁目の須賀神社

須賀神社の横の庚申塔

 さらに道なりに行くと、また正面に石仏石塔が見えてくる(C地点)。

 地蔵尊庚申塔などがある。寛政十(1798)年の庚申塔の右側面には「是より右東こうや道」と刻まれている。ちょうど二股道の間にあるので、「右へ行け」と教えてくれるのはありがたい。

 道標に従って行くと、やがて環状八号線にぶつかる。このあたりは2006年にようやく開通した区間で、先ほど円光院の門前にあった二基の庚申塔はもともとこの付近に並んでいたらしいので(地図のD付近)、環八の工事の際に移されたのではないかと思う。

 環八を渡ると、練馬区富士見台に入る。ここは昔の豊島郡谷原村である。道の続きを行くと、南光幼稚園がある。かつて、この南側に南光院という寺があったらしい。今は幼稚園の先の左側角地に地蔵堂がある(E地点)。刈り込まれたツバキが門のようになっている。

 さらに西へ行く。右側に鬱蒼とした屋敷林に囲まれた旧家があり、その敷地内に練馬区が土地を借り受け、地元老人クラブが管理するゲートボール場がある。「問屋の山ゲートボール場」という名称なのは、この林が問屋の山と呼ばれていたということだろうか。

(ゲートボール場のある旧家)

 その先で道は突き当りとなり、そこにまた石仏がある。庚申塔かと思ったら馬頭観音である(F地点)。天明六(1786)年の造立。「左東高野山道」という道しるべになっている。

 ここから左、つまり南へ針路を取り、三つ目の角、富士見台4-32と33の間を右折し、突き当りを左に曲がって坂を下ると、正面の高台に神社が見えてくる。

 神社は稲荷神社で、相殿に須賀神社御嶽神社を祀っている。この神社は明治時代の地図には御嶽神社と書かれており、境内の水盤は明治七年に御嶽講の人々によって奉納されているので、その頃は当地で木曽御嶽山への信仰が盛んだったようだ。円光院そばの御嶽神社もその関係だろう。

 神社は石神井川を北西に望み、眼下に水田を見渡し、田園の彼方には長命寺の森が見える景勝地だったという。

 その神社下の角には通称「谷原の庚申塔」がある(上の地図のG地点)。

 これは宝永六(1709)年に安山岩で造られた庚申塔で、正面に青面金剛、向かって右側面に地蔵菩薩、左側面に阿弥陀如来が浮き彫りにされている珍しいものだ。

 この角を右折して西へ向かえば、石神井川を渡って、いよいよ東高野山長命寺は近い。

 

 つづく

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