嘉陵紀行「谷原村長命寺道くさ」を辿る(その2)

 江戸の侍・村尾嘉陵が文化十二年九月八日(1815年10月10日)に仲間4人と連れ立って、今の練馬区高野台にある長命寺に出かけた道筋を辿った話の続き。

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 江戸城の清水門をスタートして、牛込見附跡、神楽坂、江戸川橋、目白坂、雑司が谷を経て、目白駅までやってきた。さらにかつて「清戸道」と呼ばれた目白通りを西へ向かう。

椎名町の入口に一軒の豪家がある。慶徳屋という。古くからこの地に住んでいる者で、穀物を商っている。この他にも椎名町の商家には貧しそうな家が見当たらない。鼠山の西南、縄手路の左に小径があり、七曲がりに通じているという」

 椎名町というのは西武池袋線で、池袋から一つめの駅にあるが、現在、そのような町名は存在しない。ただ、当時は清戸道に下落合からの七曲がり坂の道が合流する地点(子安地蔵尊あり)付近から目白通りと清戸道が分岐する地点にかけて商家が並んでいた地点を椎名町と呼んでいたようだ。現在の地名でいうと、豊島区目白五丁目、南長崎一、二丁目、新宿区下落合四丁目、中落合二、三丁目あたりの目白通り沿いということになる。

(清戸道に七曲がりの道が合流する地点。どちらも近代以降、東京府道に指定された主要道だった)

 その椎名町の入口付近に嘉陵が記した慶徳屋があり、その場所は下落合駅から聖母病院前を通って北上してくる聖母坂が目白通りに突き当たる地点の北側、目白五丁目四番地付近だった。

(嘉陵が描いた行程略図)

 豊島区立郷土資料館の資料館だより『かたりべ No.1』(1985年11月)に「椎名町慶徳屋のこと」と題する地元の高田恵義氏の文章が掲載されている(ネット上で閲覧可)。高田氏も嘉陵の紀行によって慶徳屋に関心を持ち、地元の古老への聞き取りなどを通じて慶徳屋の所在地や往時の様子などを明らかにしている。

 慶徳屋は九百坪もあった敷地に間口二十間の店舗、土蔵二棟が並ぶ豪商で、穀物を中心に塩や茶なども扱っていたという。創業年代は不明ながら江戸後期から栄え、明治の末には衰退してしまったといい、現在は存在しない。しかし、慶徳屋跡地の一部を所有する泉屋酒店は通りから奥まった所に健在で、慶徳屋のあった場所も分かる。

セブンイレブンの裏に泉屋酒店。ここから左側の一帯が慶徳屋跡)

 昭和初期に開通した山手通りと交差して目白通りを西へ行くと、まもなく南長崎交番前で道が二股に分かれる。左が目白通りで江古田方面。右が清戸道で、どちらも古い道である。

 ここを右へ行く。道幅が狭くなり、昭和の面影を残す古い商店が続くが、昔はここからは椎名町の家並みも途切れて、農村風景に変わったのだろう。まもなく右に入ったところに子育地蔵尊がある。

 宝永七(1710)年に建てられたこの地蔵尊はもとは南長崎交番前の分岐点にあり、右側面に「是より右 川越うら道」と彫られている。いま歩いているのが「川越うら道」ということになる。表の道は川越街道だろう。

 通りを歩いていると「トキワ荘マンガミュージアム」の案内板が目につくようになる。手塚治虫藤子不二雄赤塚不二夫石ノ森章太郎など名だたる漫画家が駆け出しの頃に住んだアパート「トキワ荘」は名前ぐらいは知っていたが、この近くにあったらしい。すでに取り壊されているが、そのトキワ荘を忠実に再現した「トキワ荘マンガミュージアム」というのが通り沿いにあった。

椎名町の名が残る)

 ちなみに、このあたりの地名は豊島区南長崎であるが、昭和四十一年までは椎名町であった。漫画の聖地、トキワ荘があった町として、すでに消えた椎名町は嘉陵が歩いた時代よりも少し西にずれた形で、このあたりに生き続けているのだった。

 マンガミュージアムにちょっとだけ寄ってみたら、「椎名町」に関する展示の中に嘉陵の名があった。

 「しばらく行くと小名五郎窪である。さらに行くと左に道がある。恵古田村に通じるという」

 豊島郡長崎村五郎窪は今の南長崎三、四、五丁目あたりの古い地名である。その先で江古田村(中野区江古田)に通じる道を左に分けたというのだが、恐らく、当時の椎名町の西はずれにあった子育地蔵尊の分かれ道のことと思われる。その分かれ道を過ぎてから五郎窪というのが正しい順序で、嘉陵の記憶違いかもしれない。

 とにかく、ミュージアムをあとに先へ行くと、すぐ左手にケヤキの古木がそびえる古い建物がある。五郎窪の旧家、岩崎家で、敷地の奥には白壁の蔵も見える。

 その先の四つ角の右側にこの土地の地主だったらしい伊佐佐兵衛という人物の大正時代に建てられた立派な墓がある。そこを右折すると、五郎久保稲荷神社があり、古い地名を今に伝えている。神社の説明板には、古くは五郎久保といい、明治になって五郎窪と改められたとあるが、江戸時代の嘉陵は五郎窪と書いている。ところで、この通りを歩いていても、窪地と言えるような場所はない。通りの西側に谷戸地形があり、そこを水源に妙正寺川に注ぐ流れがあったので、それが五郎窪だったのだろうか。「五郎」が何者なのかは不明。

(五郎久保稲荷神社。右奥には榛名神社

 「さらに行くと分かれ道に出る。左に行くと、これも恵古田、右に行けば、東高野山道と、石の標識にある。すぐ脇には地蔵も立っている」

 この「分かれ道」がどこを指すのかはよく分からない。道標や地蔵尊も見つけられなかったが、この辺から左へ行けば、どの道でも江古田に通じる。とにかく、嘉陵たちが清戸道をまっすぐ歩き続けたことは確かである。この付近で「東高野山道」といえば、清戸道のことである。

 「しばらく行ば石橋あり、用水道を横ぎりて東に流る、ここより下板ばし、平尾に出で、末は滝の川と成といへり、水源は中荒井より八木沢、府中を過て、玉川より落ると云」

 この部分は現代語訳が不正確なので、原文から引用。この石橋があったのは南長崎六丁目の交差点である。この先の清戸道は千川通りとなる。北西から千川上水が道の西側を流れてきて、ここで道の下をくぐり、V字形に曲がって北東方向に流れていたのである。ちなみにここで交差する道は旧鎌倉街道だといわれ、左へ行くと江古田を経て中野方面へ通じ、右へ行くと板橋方面である。

(正面の桜並木が千川通り。向こうから流れてきた水はここで画面右方向へ流れを変えた)

 この水路は江戸の小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺浅草寺の将軍御殿に上水を供給するため、元禄九(1696)年、徳川綱吉が命じて開削された上水路で、多摩郡仙川村の太兵衛と徳兵衛が工事を任され、開通させた。その功績により、二人は苗字帯刀を許され、千川と名乗って、上水の管理を委ねられ、一定の利権も得たようだ。

 その流路は玉川上水から保谷で分水し、北東へ流れて練馬に達し、今度は南東に流れて現在地へ。ここで北東へ向きを変えて旧鎌倉街道に沿って下板橋まで流れ、再び南東に向きを変えて中山道沿いに巣鴨へ至り、ここから地下に埋設された樋で江戸の神田川以北の各所に配水され、余水は滝野川石神井川)へ流された。千川上水は江戸後期には上水としての役目を終え、灌漑用水として利用され、近代以降は工業用水にも使われて、昭和三十年代には暗渠化されている。

 嘉陵の挙げている地名のうち、「下板ばし、平尾」は下板橋村の平尾で、中山道板橋宿のうち下宿(平尾宿)のこと。今の板橋区板橋三丁目付近である。「中荒井」は今の練馬区豊玉(上、北、中、南)付近で、昔の中新井村、「八木沢」は西東京市(旧保谷市)の柳沢だろう。「府中を過て、玉川より落る」というのは玉川上水が府中よりさらに先の羽村多摩川より分水していることを言っているのだろう。

 

 さて、清戸道は千川通りとなって北西方向へ続く。かつて道の左側を千川上水が流れており、大正時代にその堤に桜が植えられたのを再現して桜並木になっている。ここで豊島区から練馬区旭丘に入る。いかにも由緒がなさそうな地名だが、元は豊島郡上板橋村江古田だった。多摩郡江古田村(今の中野区江古田)の住民が開発した新田で、江古田新田とも呼ばれた。

 そもそも練馬区板橋区の一部だったのが、昭和二十二年に分離独立して成立したのだが、その時に元は上板橋村の一部だったので板橋区に残ってもよかったはずの旭丘(と小竹町)は練馬区に割譲されたのだった。

 とにかく、嘉陵一行は左に千川上水を見ながら当時はひたすらのどかだった農村地帯を歩いていく。

 「猶しばし行ば、又西に行路と直に北に行道あり、ここより北へ直に行ば上板橋、西へ横折て行ば、中荒井村入口に石橋あり、用水路の右を流る」

(交差点を越えて左の二車線が千川通り、右の細い道が上板橋方面)

 これは「江古田駅南口」交差点である。今は五差路になっているが、当時は二股道にだった。右(北)が上板橋方面。左(西)が中新井、練馬方面である。北へ行くと西武池袋線江古田駅の西側に出るが、江古田駅は本来の「えごた」ではなく「えこだ」と読む。千川通りは左へ行く道で、そこに石橋があった。「用水路の右を流る」は「用水が道路の右を流れる」という意味で、今まで左側を流れていたのが、ここから位置関係が逆になったわけだ。この部分、現代語訳は「川は用水路の右を流れている」というおかしな訳になっている。

 江古田駅南口交差点を過ぎて、引き続き千川通りを行く。ここから練馬区豊玉上で、昔の豊島郡中新井村である。嘉陵は中荒井と書くが、そのように書く場合もあったようだ。

(道路の右側の歩道だけが広い。ここが上水跡。向かい側は武蔵大学

 やがて左側に武蔵大学があり、その先で環状七号線をくぐる。ここから西武池袋線に沿って西へ向かう。

 練馬区が立てた「清戸道」の石碑があり、解説板が立っている。

「この前の道路を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延長は約十五キロメートルになります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷、新座、東久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。
 大正四年武蔵野鉄道西武鉄道の前身)が開通するまでは練馬・石神井・大泉から市中に出るのに、この道が最も近道でした。朝早く大根などの野菜を積んで町に向かい、昼過ぎには下肥を積んで帰ります。清戸道は練馬の農業にとって、なくてはならない道でした」

練馬駅前)

 千川上水の桜並木に由来する桜台駅を過ぎ、ビルが増えると練馬駅前である。練馬駅がある通りの北側は練馬区練馬で、昔の下練馬村。通りの南側は練馬区豊玉北で、昔の中新井村である。

「中荒井村を行くこと半里ほどで、道の左は練馬領六千石、右は中荒井村の地で、今川丹後守の知行五百石の領地である」

 この文章、右と左が逆のような気がする。千川通りの右、つまり北側が下練馬村で、左側が中新井村であったはずである。そして、下練馬村の西には上練馬村があり、中新井村の西には中村があった。そして、下練馬、上練馬を含む現在の練馬区の大部分は江戸時代には天領、つまり幕府の直轄領だった。また、今川氏の所領だったのは中新井村ではなく中村である。中村と井草村、上鷺宮村を合わせて五百石であった。

 練馬駅前を過ぎて、まもなく「千川上水筋違橋跡」の石碑が歩道に立っている。昭和三十年まで橋があったという。

 「ここから用水は路の左を流れるようになる。路に石橋がある」

 ここで再び千川上水は清戸道の左側に移ったのである。

 「その石橋の左を少し入った所に商家がある。地元の人が言うには、練馬六千石と今川の知行五百石との収益は甲乙付けがたいという。思うに、陰で今川のために神祖(家康)が神慮をめぐらされたのであろう」

 今川氏は桶狭間の戦い今川義元が討たれた後、その子、氏真が徳川家康に臣従し、それ以降、代々、徳川将軍に仕えた。そして、家康の死去に際して朝廷が「東照大権現」の神号を宣下したのに対し、徳川家光宮号の宣下を求め、氏真の孫にあたる今川直房が大老酒井忠勝とともに使者として上洛して朝廷と交渉し、元和二(1616)年に「東照宮」の宣下を実現させた。その功績により今川氏に従来の所領に加えて井草、上鷺宮、中村の五百石が与えられたのである。そうした経緯を知っていたからこそ、嘉陵は「神祖・家康の神慮」ということを考えたのだろう。

(嘉陵の描いた行程略図)

 さて、清戸道はやがて千川上水跡の千川通りから分かれ、代わりに南長崎で分かれて以来の目白通りと合流する。道の北側は練馬、南は中村北である。

千川通りとX字に交差する目白通りに入る)

 西武線の高架橋が右側に寄り添うが、「中村北一丁目」の信号のところで、高架をくぐって線路の北側に出る。そちらが旧道である。

西武池袋線の北側に残る旧道)

 線路の北側を行くと、やはり線路をくぐった目白通りと再合流。このあたりから練馬区向山(こうやま)で、昔の上練馬村に入る。

 「この辺りから眺望すれば、わずかに秩父山の北嶺が見える。畑には蕎麦の花が咲いていて、まるで霜が降りたかのようである。椎名町の半ばよりこの辺りまで、また谷原までの道筋には、栗や楢の木が多い。しばしば落ち栗を拾うことができ、これも一興である」

 今では考えられないような風景の中、嘉陵たちはひたすら歩き続ける。おじさん五人連れ、どんな話をしながら歩いていたのだろうか。

 

 つづく