嘉陵紀行「高田村天満宮詣の記、附、上高田村仙元塚」を辿る

 江戸の侍、村尾正靖(号は嘉陵、1760-1841)が江戸近郊を歩いた記録『江戸近郊道しるべ』のルートを辿るシリーズ。前回の「藤稲荷に詣でし道くさ」とほぼ同じルートなので、合わせて探索。

 ところで、タイトルの「高田村天満宮」は新宿区西早稲田二丁目にある高田八幡(穴八幡)の北隣にあった高田天満宮のことだが、所在地は当時の高田村ではなく、下戸塚村である。また、その後に訪れている「仙元塚」(浅間塚)は上高田村ではなく上落合村の誤りである。

 さて、藤稲荷詣でから七年後の天保二年八月十九日(1831年9月24日)。

「退直午飯後、高田辺閑行、真定院へ立寄」

 仕事を終えた七十二歳の嘉陵は昼食後に高田あたりへぶらりと出かけ、真定院に立ち寄った。

 真定院は高田天満宮別当寺(神社を管理する僧がいる寺)で、「大久保絵図」で穴八幡の北側に「天神」とあるのが天満宮で、真定院も同じ場所にあった。 

 『江戸名所図会』で描かれた高田天満宮をみると、門前には小川が流れ、橋が架かっていた。通りは現在の早稲田通りで、右が高田馬場、左が今の「馬場下町」交差点である。小川は左へ流れ下って、馬場下町で蟹川(神田川の支流)に合流していた。
 東向きの社殿は茅葺の権現造りだったことが分かる。描かれていないが、画面右側に真定院があったのだろう。

 嘉陵は八月五日にも真定院を訪れているが、時間がなかったのか、あまり話が聞けなかったようで、改めて訪ね、この日もちょうど院主の観月がいたので、いろいろなものを見せてもらい、また前回聞き損ねたことなど、いろいろと話を聞いている。

 まずは徳川幕府の祐筆(秘書官)で、大橋流書道の創始者、大橋長左衛門重政(1618-72)が書いた三十六歌仙の額を見せてもらい、また長左衛門の父で、やはり将軍の祐筆を務めた大橋龍慶(重保、1582-1645)が彫ったという菅原道真像も拝む。その尊像の胎内には徳川家光が朝に夕に拝んでいたのを龍慶が譲り受けたという尊像が納められており、それも拝謁している。折しも若者が二人お参りに来たので、一緒に拝み、嘉陵は二人について「いとも殊勝に覚え侍り」と書いている。

 さらに龍慶の侍女だったお梅という者が家光から拝領した古仏も拝見している。これは観自在菩薩の立像で、源実朝の持仏だったという。

 院主観月の話では「天満宮の山の裏続きにある穴八幡宮の敷地はもとは大橋龍慶の宅地だったところで、そこに八幡宮を勧請し、龍慶は小日向に替地をもらった。今の龍慶橋(隆慶橋、文京区後楽二丁目)は龍慶の住居に行く道なので、命名された。龍慶は八幡宮を勧請した時、土の中から出現した像と自分で彫った像を宮に安置した」という。

 前回訪れた時に観月に聞いた話によると、「当天満宮は当初、早稲田天神町に千坪の土地を与えられ、大橋様が宮を建てた。三十六歌仙の額もその時に造られたが、拝殿の外側の梁間に掛けられていたので風雨に晒され、絵の彩色も文字の筆跡も落剝してしまった。その後、天満宮尾張徳川家の戸山屋敷に移され、さらに高田に移された。土地は以前と同じ千坪あるというが、住む人もいない僻地で、山陰の土地で菜園にしようにも上手く育たない。本山を持たず、檀家がわずか十三軒だけの小さな寺で、建物も元禄四(1691)年に建てたままで、屋根は葺き替えているものの、柱礎はもはや傾きかけている」ということだ。

 観月は詩をよくし、また歌を詠む、衣は破れて食は貧しいといえども、自若として、人にものを乞うこともなく、世間に知識をひけらかすこともない。七十余歳。嘉陵と年齢も同じぐらいだが、なお健やかでいる。この老僧との邂逅は嘉陵にとっても大きな意味があったのだろう。のちに人づてに漢詩を贈っている。

 なお、嘉陵が自筆本表紙に書き留めたところによると、「この社天保十年己亥冬、社も坊も皆自火にて焼失、今一物を留めず、烏有と成」とのこと。

 天保十(1839)年に失火により全焼してしまった天満宮と真定院だが、その後に作成された「大久保絵図」に「天神」と記載されているので、再建はされたらしい。真定院は恐らく明治初年の神仏分離で廃寺となったが、天満宮(天神社)は早稲田大学創立者大隈重信も日々参拝したという。今は西早稲田三丁目の水稲荷神社の本殿裏に移され、北野神社と称している。境内の水鉢には「牛込天龍山真定院」の文字が確認できる。年号は読みにくいが、延享三(1746)年のもののようだ。微かに真定院の名を留めている。

水稲荷境内に祀られた天神様、北野神社)

(1746年の水鉢。中央に「牛込天龍山真定院」と刻まれている)

 「高田天満宮に詣でてから、未の刻(午後二時)を過ぎる頃に、寺の門を出て、馬場のそばから砂利場(豊島区高田一丁目)を横切って藤稲荷に詣でる。その後、山裾にある田圃の縁を西に行き、氷川の木立を左に見て、下落合の薬王院の前を過ぎる」(現代語訳:阿部孝嗣)

 嘉陵は天満宮をあとに「藤稲荷に詣でし道くさ」と同じルートを辿り、面影橋神田川を渡り、南蔵院のある砂利場から下落合の藤稲荷に参拝。

(藤稲荷)

 さらに台地の裾を西へ行き、氷川神社を左に見て、薬王院前に達している。

(下落合の鎮守・氷川神社

薬王院

 7年前はこの辺りで引き返しているが、今回はさらに足を伸ばしている。

「さらに、同村の民戸のある所を行き過ぎて、伊草の用水路に架かっている橋を渡り、畦道を歩く」

 薬王院の門前から南へ行き、昔は田圃だった低地を通っている新目白通りに出る手前を右折。これが昔の道で、新目白通りよりわずかに高い。「民戸のある所」がこの付近で、下落合村の中心集落であった。

 すぐ右手に下落合弁財天があり、祠を囲む池に金魚が泳いでいる(下落合4-3)。

 この弁財天の裏手一帯は昭和四十一年、宅地造成中に横穴墓が4基発見され、2体分の人骨と直刀などが出土している。7世紀後半から8世紀初頭のものとみられ、「下落合横穴墓群跡」として史跡に指定されている。「跡」ということは発見された墓も造成工事で消滅したということか。実際はもっと多くの横穴墓があったに違いない。

 古道はさらに西へ続き、「久七坂」という急坂の下で左折して新目白通りを横断する。その先には妙正寺川に架かる「西の橋」がある。これが嘉陵の書く「伊草の用水に懸たる橋」である。「伊草」は井草で、妙正寺川(井草川)の水源地帯の地名である。このあたりは集落を抜けて、まさに田圃の中の畦道だったのだろう。

 橋を渡ると西武新宿線下落合駅前に出る。そもそも落合という地名は妙正寺川神田川が出合う地点に由来するが、その合流点はかつてはこの付近にあった。

 下の地図は下落合駅前にある案内地図の写真の一部であるが、上が南である(赤い線で示したのが嘉陵の歩いた道筋)。画面上からきて左へカーブしているのが神田川、画面右からくるのが妙正寺川で、下落合駅が二つの川に挟まれた地点にあるのが分かる。かつては妙正寺川がここで神田川に合流していたわけだが、現在の妙正寺川新目白通りの地下を東へ流れ、山手線の東側、高戸橋付近で神田川に合流している。もちろん、昔はもっと曲がりくねって流れていた。

 下は『江戸名所図会』の「落合惣圖」。嘉陵は藤稲荷、氷川社、薬王院と山裾を歩いてきて、西の橋で妙正寺川を渡り、画面左端へ抜けている。妙正寺川神田川の合流点付近に「一枚岩」というのが描かれ、景勝地として知られていたが、実際はその下流の田島橋よりもさらに川下にあった。

 さて、ここからは上落合に入る。嘉陵が訪れた時には上落合と下落合は別の村だった。

 ところで、嘉陵は上落合村にあった「浅間塚」をめざしている。『江戸近郊道しるべ』ではその場所を不明としているが、早稲田通りと山手通りの交差点付近、上落合2-29にあった。現在は他の場所へ移されているが、まずは元の所在地に行ってみよう。

(上落合村絵図。画面右上に西の橋、左下に浅間塚)

 下落合駅から2車線の上落中通りを行くが、当時の絵図と比べると、すぐに左手にある「せせらぎの里」付近で右に入る細道が昔のルートに近い。そして、それを証明するかのようにすぐに路傍に馬頭観音地蔵尊が並んでいる(上落合1-11)。

 道なりに行って、突き当りを左折すると再び上落中通りに出る。これを突っ切って南へ行くのも古い道(上落合村絵図で現在の八幡宮前を通る道。上落合会館通り)だが、嘉陵は恐らく西へ行った。すぐ右手には光徳寺(真言宗豊山派)がある。

(光徳寺)

 「上落合村の石地蔵のある所から少し爪先上がりの小径を登って、曲がりくねった一筋の本道に出る。この道の北側にある浅間塚に詣でる」

 この石地蔵がどこにあったのかは分からない。「一筋の本道」は現在の早稲田通りのことだが、上落合1-11の地蔵尊から坂を登ると、すぐに早稲田通りに出るわけではない。

 とにかく、光徳寺を過ぎると、上落中通りは南へカーブしていくが、この道は新しい道である。昔の道はそこで曲がらずにまっすぐ行く細道である。大正十四年創業の「梅の湯」という銭湯があるが、廃業してしまった。

(上落中通りは左へ曲がるが、ファミマの脇をまっすぐ行くのが古道)

 この道もやがて左へカーブしていく。道の右側が低くなっていて、台地の縁を通っているのが分かる。上落合公園横を通り、落合第二小学校の北西角で右折する。道なりに西へ行くと山手通りにぶつかり、通りの向かい側に最勝寺がある。山手通りは江戸時代にはもちろん存在していないが、最勝寺前から南下する道があり、早稲田通りとぶつかる地点に浅間塚があった。

 ただ、嘉陵の書いた文章をよく読むと、彼はまず早稲田通り(曲がりくねった一筋の本道)に出て、その通りの北側にある浅間塚に到達しているので、最勝寺前まで行かずに途中で南に折れて、早稲田通りに出たと思われる。

(「現在地」が浅間塚跡。地図の右側が北。赤い線が嘉陵が歩いた想定ルート)

 上落合2-14の角を左折して坂を登って行くと、早稲田通りに出る。この通りは神田川妙正寺川に挟まれた台地の尾根を通っていて、山手通りとの交差点付近が特に標高が高い。地域の最高地点に浅間塚はあったことになる。

 嘉陵の観察によると、この本道に面した家々はいずれも農家と商家とを兼ねていて、蔵があり、貧しそうな家はなかった。大根の漬物を作って都心に出荷するのか、たくさんの樽を積み上げている家もあったという。

 嘉陵は地元の人にこの道が高田馬場へと通じていると教えられているので、帰路はこの道を帰ったのだろう。

 

 さて、浅間塚は寛政二(1790)年に築かれたというが、現在は早稲田通りと山手通りの交差点となり、完全に消滅している。ただ、交差点近くに「仙元館」という合気道の道場があるのは、浅間塚(仙元塚)と関係があるのかどうか。

 浅間塚の旧所在地を北側から見る。山手通りから左に分かれる道の右側に浅間塚があったと思われる。この斜めの道が最勝寺から南下してきた道の名残か。

「この塚は樹木の茂っている中に、やや土を高く盛り上げ、石像の浅間大菩薩を建ててあるものである。台石は、高さ六、七尺で、塚の四面には杉の木が立ち茂っている。
 その塚の北側の裾には稲荷の社があり、山の前にも小祠がある。この祠は浅間の祠であろう。鳥居は倒れており、片付ける者もいないとみえ、草むらに転がったままである。その近くに石塔婆が一基あり、「天和四(1684)年五月、八右衛門何々」などと、四人の名前が彫り付けてある。これは最初に建立した時の供養塔であろう。浅間塚全体の高さは、平地から二丈ほどもあるであろうか」

 ここにあった浅間塚(浅間の祠と富士塚)は現在は月見岡八幡神社(上落合1-26)の境内に移されていることは事前に調べてある。塚の北側に稲荷社があったと書いてあるが、「上落合村絵図」では浅間塚の北隣に天神宮がある。稲荷社と両方あったのか、嘉陵の記憶違いかは分からない。

 嘉陵がこの浅間塚を訪ねてみようと思ったのは、四家町にある富士見茶屋(現在の学習院大学の構内にあった)から遠くに見える杉木立はどこかと店の媼に尋ねたところ、「あれは浅間塚の杉ですよ」と教えられ、気になっていたので、ふと思い立って訪ねてみたと書いている。安藤広重が描いた「富士三十六景・雑司かや不二見茶や」にも落合の田園風景の中に聳える2本の杉が目立っている。

 

 ところで、嘉陵は浅間塚の頂上にあった「石像の浅間大菩薩」の絵を描き残している。

 この塚の上にあった石像がどこかに現存しているのかどうか。手掛かりは元禄五(1692)年七月朔日の建立で、「出生大坂性海建」と刻まれていることである。

 まずは近くの最勝寺へ行ってみる。真言宗豊山派の寺院で、創建年代は不詳。下落合の藤稲荷の別当寺であった。山手通りはこの寺の境内地を削って造成された。

真言宗豊山派の寺院、高天山大徳院最勝寺

 境内に古い石仏石塔を集めた一角があるが、元禄五年のものは見当たらない。ここにはないのかと思ったが、墓地を一巡してみると、ほかにも古い石仏などが並んでいる場所があり、あった! こういう発見が一番うれしい。

 十一面観音立像で、右手に錫杖、左手に水瓶を持っていて、嘉陵が描いた合掌像とは異なるが、「元禄五壬申季 七月朔日」とあり、「出生大坂性海建之」とある。さらに「淺間本地」の文字も刻まれている。間違いない。ただ、当時は六、七尺だから2メートル前後の台石の上にあったようだ。

 「天和四年五月の石塔婆」も探したが、これは発見できず。

 なお、浅間塚は「大塚」と呼ばれた古墳の上にあったというが、すべて昭和二年に山手通りが造成された時に崩され、消滅してしまった。浅間神社富士塚は上落合の鎮守であった月見岡八幡宮の境内に移されたが、落合下水処理場の建設に際して八幡宮が移転を余儀なくされ、再度移されている。これはこの後訪ねる。

「そこから南へ一、二丁も雑木の茂みを分け入って行くと、小祠がある。御伊勢様という。皇大神宮を祀ってある祠である」

 この「御伊勢様」を編註者の朝倉治彦氏は「御伊勢の森、杉並区阿佐谷北五丁目」としており、確かに早稲田通り沿いにそれはあるが、少し遠すぎる。「上落合村絵図」で浅間塚の東に「イセ大神宮」とあるのが嘉陵の訪れた「御伊勢様」だろう。

 村絵図と現在の地図を照らし合わせると、早稲田通り沿いの上落合1-29付近にあったと思われるが、痕跡は見つからなかった。嘉陵が「南へ一、二丁」と書いているのは東への勘違いではないかと思うが、「雑木の茂みを分け入って」ということは早稲田通りとは違う小径を行ったのだろうか。

(この付近に御伊勢様があった。早稲田通りは神田川の低地へ下っていく)

 早稲田通りを神田川に架かる小滝橋方面へ下っていくと、左に入る二車線の通りがあり、これが八幡通りである。これを北へ行く。右手は下水処理場の落合水再生センターで、広い敷地の向こう側は神田川である。江戸時代はここは田圃が広がっていた。

 そして、水再生センターの向かい側にかつて月見岡八幡宮があった。旧社地の一部が新宿区立八幡公園となっている。水田地帯に面した台地の縁にかつての八幡宮はあった。

 下水処理場建設の際に境内の約半分が建設用地となることから、昭和三十七年に現在地の上落合1-26に移転したのである。

 現在の月見岡八幡神社は境内が保育園の園庭となって、門が閉じられていたが、訪れたのが日曜日だったので、誰もおらず、錠を外せば門は開けられた。不法侵入者の気分だが、門に「お願い 庭が傷まないよう石畳の上を歩いて下さい」と書いてあるので、自由に参拝していいのだろう。ただ、平日の園児がいる時間帯はどうか分からない。

 月見岡八幡は源義家が奥州遠征の途中に戦勝祈願をしたとの伝承があるが、これは各地の八幡神社に伝わる話で、すべてが本当だと義家は寄り道のし過ぎになってしまうので、疑わしい。実際の創建年代は不明。月見岡の名称は旧境内に湧井があり、その水面に月がきれいに映ったことから地元の人がそう呼んだとのこと。

 八幡神社の社殿の左奥に浅間神社富士塚があった。

浅間神社

(落合富士)

 嘉陵が訪れた時は鳥居も倒れたまま放置され、ずいぶん荒れ果てていたようだが、今はきれいに手入れされ、貴重な文化財として大事にされているようだ。

 浅間神社の傍らには新宿区最古の庚申塔もある。正保四(1647)年に建立された宝篋印塔型の珍しいものだ。新宿区の有形民俗文化財に指定されている。

(宝篋印塔型の庚申塔

 八幡宮の右奥には天祖神社があり、「天祖神社(伊勢宮)」の札がある。これが嘉陵が最後にお参りした御伊勢様だろう。

 境内には北野神社の祠もあり、「上落合村絵図」で浅間塚の北隣にある「天神」がそれだろう。

 取り急ぎ境内を見て回り、門を閉め、錠を掛けて、神社をあとにする。

 

 嘉陵はもちろん歩いて帰宅したわけだが、僕はJRの東中野駅から電車で帰る。