嘉陵紀行「石神井の道くさ」を辿る(その3)

 江戸の侍・村尾正靖(号は嘉陵、1760-1841)が文政五(1822)年の秋に石神井村へ出かけた時の道筋を歩いてみた話の続き。目白駅から目白通り新青梅街道を歩き、杉並区井草二丁目(昔の多摩郡下井草村)で旧早稲田通りにぶつかったところから。

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 旧早稲田通りを北西に向かうと、すぐに新青梅街道と交差するので、歩道橋を渡る。ここから西の新青梅街道はまさに昔はなかった新しい道路である。この交差点の北東側に杉並区立八成(はちなり)小学校がある。八成はこの付近の古い地名で、小学校のほか、バス停の名前などに残っている。

 新青梅街道に比べて、ぐっと古道らしくなった旧早稲田通りを行くと、すぐ右手にお堂がある。

 斜めに生えた松の木をくぐって、堂内をのぞくと、庚申塔(1741年)と念仏供養塔(1793年)がある。

 「民間信仰石塔」と題する説明板によると、それぞれ道標を兼ねていて、庚申塔には「右 たなか道」「左 志やくじ道」とあり、念仏供養塔には「右 新高野へのミち」「左 中野へのミち」と彫られているという。もともとはどちらも路傍にあったのだろう。道路に面してフェンスの外に立つ石塔も道標だが、判読できない。ところで、道標にある「新高野」は今の練馬区高野台にある長命寺のことである。真言宗霊場高野山を模して開かれた寺で、東高野山、新高野山などと呼ばれ、多くの参詣者を集め、嘉陵も参拝している。かつてはこの付近で右に分かれる新高野への道があったという。

 

 そのまま旧早稲田通りを行くと、千川通りと交差する。千川上水(のち用水)の水路跡で、街道は八成橋で渡っていた。千川上水保谷玉川上水から分水し、下板橋、巣鴨、小石川、湯島を経て神田川に通じる水路で、徳川綱吉が開削を命じて元禄九(1696)年に完成した。仙川村(現・調布市)の百姓、太兵衛と徳兵衛が工事を担い、その功により千川の苗字を与えられ、上水の名称にもなった。のちに飲用の上水から灌漑用の用水に変更となっている。

 千川通りを過ぎると、杉並区から練馬区に入り、すぐに環状八号線を越える。旧早稲田通りも環八までは二車線だったが、環八を過ぎるとセンターラインのない狭い道となる。道の右側は練馬区南田中(昔の豊島郡田中村)、左はもう下石神井(昔の豊島郡下石神井村)である。

 喜楽沼というバス停がある。このすぐ北にそういう名前の溜め池があり、末期には釣り堀になっていたが、今は埋め立てられてしまった。

「少し北に下ると打ち開かれた田圃がある。畦の馬道を行くと、田圃の中に石橋がある。橋の上に立って西側が上流で、水源は関村の溜め池から分かれたものだという。ここからの眺望はかなりいい」(現代語訳:阿部孝嗣)

 坂を下っても、田圃があるわけでもなく、同じような住宅街が続くが、農地もいくらか残っている。

 そして、豊島橋で石神井川を渡る。改修されコンクリートで固められた味気ない都市河川だが、橋の下をのぞき込むと、カワセミが上流のほうへ飛び去った。

 改修前の旧流路は橋の一つ手前で横切る道がそれである。それにしても、目白駅から石神井まで歩いてしまった。遠い道のりだったような気もするが、意外に早く着いたな、とも思う。ただ、嘉陵は江戸の東側、隅田川に近い浜町の家から歩いてきて、もちろん、またその日のうちに歩いて帰ったのだ。

 ところで、嘉陵が書いているように石神井川の主要な水源の一つは「関村の溜め池」で、これは練馬区関町北にある富士見池のことであるが、石神井川の源流はさらに西にあり、小平市花小金井南町にあるゴルフ場内の湧水が最上流部と思われる。

 往時は田圃の中を清らかな水が流れ、右手には低い山が連なって、よい眺めであったのだろう。

「橋を北に渡ると石神井村である。この辺りには人ひとり行き来していない。ものを尋ねるにも人がいない。道の行き当たりに寺がある。禅定寺という」

 石神井川を渡ると石神井町に入る。嘉陵はここから石神井村と書いているが、下石神井村の一部であったようだ。ちなみに石神井(しゃくじい)という地名は昔、村人が井戸を掘ったところ、石棒(あるいは石剣)が発掘され、これを石神様として祀ったことに由来すると伝えられている。この霊石は地元の鎮守、石神井神社の御神体となっているという。

 すぐ先で道は突き当りとなり、そこに寺が今もある。嘉陵は禅定寺と書いているが、照光山無量寺といい、院号が禅定院である。嘉陵が訪れたのは文政五(1822)年の秋だが、寺は文政年間(1818-30)に火災で建物や古い文書類をすべて焼失し、天保四(1833)年に本堂が再建されたというから、嘉陵が訪れた後、火災に遭ったのだろう。

真言宗智山派の禅定院)

「その前を西に、山に沿って田圃の縁を行くと、民家があり、その先にまた寺がある。道常寺という。その西隣には三宝寺がある」

 旧早稲田通りは禅定院前で西に折れるので、これを行く。北側には低い丘が連なっている。南側は昔は石神井川沿いの田圃だったのだろう。もちろん、今は宅地化されている。

 井草通りの交差点を過ぎると、石神井台(昔の豊島郡上石神井村)に入り、すぐ右手に道場寺がある。嘉陵は道常寺と書いているが、道場寺である。

曹洞宗の道場寺)

 豊島山道場寺は南北朝時代の文中元年(北朝では応安五年、1372年)に当時の石神井城主、豊島景村の養子で、北条高時の孫にあたる輝時が大覚禅師を招いて建てた曹洞宗の寺で、輝時は自分の所有地を寄進して寺地とし、豊島氏の菩提寺としたと伝えられている。

 境内には文明九(1477)年に太田道灌との戦いに敗れた豊島泰経ら一族の墓だという石塔が存在する(非公開)。

 さて、三宝寺までやってきた。

「茅葺きの大門が仰々しく造られているが、門を閉じて人を入れさせない。その続きにある坊の門から境内に入る。門の左には鐘楼があり、右には庫裏がある。石の宝篋印塔があり、本堂は十二間に六間ほど。坊も庫裏も非常に広いけれども、寂として人影はない」

 亀頂山密乗院三宝寺は真言宗智山派の寺院で、応永元(1394)年、幸尊法印が開山となって下石神井村に創建されたのが始まりという。その後、文明九年に豊島氏を滅ぼした太田道灌が豊島氏の居館跡である現在地に移したと伝えられている。

三宝寺参道。門前に「守護使不入」の石柱)

 嘉陵は山門が閉じられていたと書いているが、これは三宝寺が徳川家光の鷹狩の際の休息所となり、三門が「御成門」と呼ばれ、江戸時代には一般の通行を禁じていたためである。現在の「御成門」は文政十(1827)年に再建されたもので、三宝寺に現存する最古の建築物であるが、嘉陵が参拝した時に目にしたものとは違う。

三宝寺山門「御成門」。現在は開かれている)

 嘉陵は山門ではなく、坊門から入っているが、山門の向かって右側に通用門があり、これは勝海舟邸から移築した長屋門で、もちろん、嘉陵が通った門ではない。門の脇に庚申塔が一基。

 門の左に鐘楼があったというが、これは今もある。山門の右、長屋門の左である。鐘楼が昭和四十八年に改築されたものだが、梵鐘は延宝三(1675)年の鋳造で、当時と同じである。

 「石の宝篋印塔」を探してみたら、境内の奥にあった。

 天明元(1781)年造立で、当時は御成門の近くに立っていたというから、まさに嘉陵が見たものだ。その後、関東大震災で倒壊し、大正十四年に現在地に移建されたとのこと。

 明治の神仏分離で、寺の敷地は縮小され、明治七年には火災でほとんどの建物を焼失しているので、山門以外はその後の再建。嘉陵が訪れた時は今よりも広壮な寺だったのだろう。訪れる人もなく、静寂に包まれていたとのことだが、僕が訪れた時はほかにも夫婦らしき二名があちこちにカメラを向けていた。

三宝寺本堂)

 「堂の前を横切って西に、寺を出て畑の細い道を行くと、氷川の社がある」

 三宝寺をあとに西へ行くと、旧早稲田通りもその境内に沿う細い道となり、すぐに氷川神社の参道を横切る。

三宝寺の築地塀に沿う旧早稲田通り)

 石神井氷川神社三宝寺と同時期に豊島氏によって創建された古社。当初は石神井城内に勧請され、落城後にこの地に遷座されたという。

 境内には石神井城主の子孫である豊嶋泰盈(やすみつ)、泰音(やすたか)父子が元禄十二(1699)年に奉納した石灯籠があり、また享保十二(1727)年の水盤には「石神井郷 鎮守社 御手水鉢」の文字が刻まれている。

(豊嶋氏奉納の石灯籠)

(水盤)

「鳥居の脇を西に行くと、道の左手の林に小社がある。天満天神を崇め奉ってある」

 この天神は現在は北野神社と名を改めて、氷川神社境内に末社として他の多くの神々とともに祀られている。

「そこから少し行くと北に下る小坂があり、下ると向かいに弁才天の社がある」

 氷川神社の西側を行くと、雑木林の中を下る小径があり、三宝寺池の畔に出る。小島に赤い橋が架かり、かつての弁天社が明治の神仏分離厳島神社と改称して鎮座している。橋の手前、台地の崖下には「穴弁天」があり、洞窟内に弁財天が祀られているというが、扉が閉められ、内部は暗くて、よく分からない。

三宝寺池厳島神社

「社をめぐって池がある。三宝寺池という。蘆と荻が生えており、その中に雁や鴨がたくさんいて、あちらこちらへと水面を行き交っている。何羽いるのかその数は知れない。池の大きさは八十間ほどで、辺りは東の一方だけが空いていて、他はあまり高くない山である。池の北北東の方に赤松だけが生えている山が見える。池の姿は井の頭に似ている。この池の水はどんなに日照り続きでも涸れることがない。時として水が水底から湧き上がることがあるという。社は南南東の方に向いて鎮座している。まさに神が住むにふさわしい所といえる」

 嘉陵がいうように井の頭公園の池に似ていて、井の頭池善福寺池と並び、東京の標高50メートルの等高線に沿って水が湧く同じ性格の池であるが、井の頭池よりも野趣溢れる雰囲気は今でも感じられる。どんなに日照りが続いても涸れないという湧水は今では失われたといい、地下水の汲み上げに頼っているが、同様に湧水が枯渇したとされていた井の頭池では池の水を抜いたところ、底から水が湧き出しているのが確認されたので、三宝寺池でも湧水が健在である可能性が高いのではないかと思う。

 東側だけが開けた谷戸地形の三宝寺池の水は東に流れ出て、石神井川に通じているが、今は井草通りをはさんだ下流側に水をせき止めた石神井池が造られている。

(三宝寺池に浮かぶ厳島神社)

 嘉陵が訪れたのは今の暦で10月25日のことで、すでに鴈や鴨がたくさん渡ってきていたようだが、僕が訪れた時はまだ冬鳥は見当たらず、カルガモが浮いているばかり。もちろん、今は冬になっても鴈が渡ってくることはない。そのかわりカワセミは何羽か見た。

 この後、嘉陵は三宝寺池氷川神社三宝寺の間の小高い山林を散策している。

三宝寺の後ろの山は、昔、豊島権頭という人が住んでいた所で、今もその跡が残っており、城山と呼ぶ。かつて山の上には豊島氏の霊社があったが、今はないという。これらのことは村の子らに銭を与えて聞いたことである」

 三宝寺池の畔から南側の城山に登ってみる。石神井城址として、中核部分は現在はフェンスで囲まれ、保護され、空濠や土塁が確認できる。鎌倉後期に築城されたと考えられている。

(東京都指定史跡「石神井城の中心内郭跡」)

「訪ねてみると、掻上の堀切ともいうべき所がある。その堀の内から山に登ってみると、三宝寺の池の水源周辺は堅固にかためてあり、西は山を掘り切って境としてある。東の方はなだらかで、平らになっている所に民家が一、二戸ある。その後ろは山畑になっている。

 民家の前と三宝寺の後ろとの間に小径があり、そこを東に行くと三宝寺の庫裏の裏門に出る。門の並びにある垣根の中に小さな山がある。これもその権頭の名残りであろうか」

(城山の東側の旧家。道の右側は三宝寺)

「考えるに、三宝寺は太田道灌が建立した寺で、当時百石の寺領があったという。それは豊島氏の遺趾に就いて寺を建てたものであろう。したがって、今三宝寺の堂のある周辺が、その居宅の跡であろう。寺の後ろの城山と呼ぶ所は、居宅の外回りで、住んでいた所ではなかろう。地勢から見てそうとしか考えられない」

 嘉陵の考察の通り、豊島氏の平時の居館があった場所に三宝寺が道灌によって建立され、その裏山の石神井城の主郭とされる場所は戦時に使われた場所だったのだろう。

 

 朝早く家を出てきた嘉陵は昼過ぎには帰途につき、帰路は早稲田通りをずっと歩いて帰り、午後8時頃、家に着いている。こちらは朝9時半頃、目白駅前から歩き出して、もう夕方が近い。帰りは石神井公園駅から電車で帰る。