江戸のアイドル「笠森お仙」(後編)

 江戸時代に谷中の笠森稲荷門前にあった水茶屋「鍵屋」の看板娘で、浮世絵師・鈴木春信(1725?-70)の錦絵に描かれて、瞬く間に江戸っ子のアイドルとなったお仙(1751-1827)にまつわる史跡を歩く。「かさもり稲荷」は現在、谷中界隈に三か所あり、それぞれに訪れる意味があるので、まずは三カ所とも巡ってみよう。

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(笠森お仙と団扇売り)

 東京メトロ千代田線の千駄木駅からスタート。地上に出ると、不忍通りの「団子坂下」交差点。ここから東の谷中方面へ柳通りを行き、三崎坂を上ると、ちょうど谷中小学校の正面に日蓮宗の高光山大圓寺がある。入口に台東区による「笠森おせん・鈴木春信の碑」の説明板がある。

 このお寺の建物は非常に変わっていて、二つのお堂が一つの棟に合体したような形で、参道がY字になって、それぞれに通じている。

 なぜこんな形のお堂なのか。その説明は後にして、まずは参道右手に鈴木春信の碑と笠森お仙の碑があるので、それを見る。

 「錦絵開祖鈴木春信」の碑。文学博士・笹川臨風が大正八(1919)年に建立したもの。

 鈴木春信はお仙が結婚のため突然、人前から姿を消したおよそ4カ月後の明和七(1770)年六月十五日に四十六歳の若さで急逝している。お仙ロスが影響したわけではないだろうけれど・・・。謎の多い画家で、お墓の場所もわかっていないらしい。

 その隣にお仙をモデルにした小説『恋衣花笠守』を書いた永井荷風(1879-1959)による「笠森阿仙之碑」。これも大正八年の建立。石碑の後ろにお仙と春信の卒塔婆が立てられている。

「女ならでは夜の明けぬ日の本の名物五大洲に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙春信の錦絵に面影をとどめて百五十有余年嬌名今に高し今年都門の粋人春信が忌日を選びしここに阿仙の碑を建つ時恰も大正己未夏六月鰹のうまい頃 荷風小史識」

 大圓寺が創建されたのは徳川家康が江戸に入った直後といい、当初は神田にあったというが、その後、城下町整備や火災による焼失で移転を繰り返し、谷中の当地に移ったのは元禄十六(1703)年のことだという。寺の檀徒で旗本の大前孫兵衛重職(しげもと)が腫れ物に苦しみ、皮膚病に霊験があるという摂津芥川の笠森稲荷(大阪府高槻市)を自邸に勧請し、病気平癒を祈願すると、たちまち治った。その評判が江戸中に広まり、皮膚病や性病(梅毒)に苦しむ人々が大勢、大前邸に押しかけるようになり、武家の私邸に庶民が参詣するのは困るということで、享保十(1725)年、大圓寺境内に奉安し、以後、瘡守(かさもり)稲荷として大いに信仰を集め、寺は大変賑わうことになった。

 時代が移り、明治に入ると、神仏分離令が出され、寺の境内に稲荷神を祀るのは都合が悪くなった。しかし、寺としては集客力のある瘡守稲荷を手放したくはなかったのだろう。そこで笠森稲荷を「瘡守薬王菩薩」と改名して、仏堂に祀り、そこからお祖師様(日蓮)を祀る経王殿(左)と薬王菩薩を祀る薬王殿(右)が一棟に共存する変わった本堂が出来上がったわけである。

 春信とお仙の碑の間には石仏が鎮座し、その両脇に神狐がいる不思議な光景も見られる。

 さて、そのような大圓寺であるが、その門前の茶屋にお仙がいたというのなら、ここに記念碑が建つのも道理であるが、実はお仙がいたのは別の笠森稲荷であった。では、そのもうひとつの笠森稲荷を訪ねてみよう。

 三崎坂を上りきり、谷中霊園が正面に見えてきたら、昔ながらの町中華のある角を左へ曲がる。朝倉彫塑館前を通って谷中銀座方面へ通じる道だ。まもなく右手に功徳林寺という浄土宗寺院がある。ここがお仙のいた笠森稲荷の旧所在地である。門の傍らに「江戸三大美人・お仙ゆかりの寺 笠森稲荷堂」の説明板がある。

 境内の奥に赤い鳥居が見える。

 お仙の父親が営む水茶屋・鍵屋があった正確な場所は不明ながら、お仙を描いた絵では店の傍らに赤い鳥居が見え、その鳥居の存在が絵の主人公が鍵屋のお仙であることの目印にもなっていた。

 ところで、当時、笠森稲荷は感応寺の塔頭・福泉院の境内にあった。お仙の嫁ぎ先である倉地家が土地を借り受け、勧請したものだという。その時期は諸説あり、はっきりしないが、倉地家は徳川吉宗に従って紀州から江戸へ出てきたので、吉宗が8代将軍に就任した享保元(1716)年以降ということになる。

 この笠森稲荷では祈願する時に黒い土の団子を供え、願いが叶うと、お礼に白い米の団子を供えるという習わしだった。お仙の絵にも鍵屋の店先に団子が描かれているものが多い。

 ところで、当時は福仙院の境内にあった笠森稲荷が現在は功徳林寺という寺院の中にあるのはなぜか。福泉院は感王寺の子院であった。そして、感応寺は元は日蓮宗の大寺院であったが、日蓮宗の中でも法華経を信仰しない者からは施しを受けず、与えもしないという不受不施派に属し、政権に対しても非妥協的だったので、幕府の弾圧を受け、元禄十一(1698)年に廃寺となり、翌年、天台宗の寺として復興している。従って、お仙のいた時代には感応寺は天台宗寺院であった。感応寺はその後、天保四(1833)年に天王寺と改称して、現在に至っている。福泉院は明治になって廃寺となり、天王寺も広大な寺領を政府に没収され、公共の墓地(谷中墓地、現在の都立谷中霊園)が整備された。

 福泉院跡に浄土宗の功徳林寺が創建されたのは明治二十六(1893)年のことで、公共墓地である谷中霊園には仏教寺院との繋がりがなく、法要ができないため、霊園に隣接する地に新しい寺が創建されたということだ。そこがたまたま福泉院跡地だったわけだ。

(功徳林寺本堂)

(笠森稲荷堂の裏手の門から谷中霊園に直接通じている)
 赤い鳥居の立つ祠は「笠森稲荷堂」と称し、吒枳尼(だきに)天を祀っている。吒枳尼天は古代インドの鬼女、ダーキニーに起源をもち、それが仏教に取り込まれ、白狐に乗った女神の姿で表現されたことから狐を神の使いとする稲荷信仰と習合したものである。

 では、この地にお仙がいた時代から現在までずっと笠森稲荷が存在したのかというと、それも事実ではない。明治の初めに福泉院が廃寺となった後、笠森稲荷は天王寺(旧感応寺)と同じ天台宗寛永寺の子院である養寿院に遷座しているからである。そして、福泉院跡地である功徳林寺境内に再び笠森稲荷堂が勧請されたのは明治の末のこと。従って、ここでは40年近い不在期間があったことになる。恐らく、有名な笠森お仙ゆかりの地ということで、改めて笠森稲荷を境内に、という話になったのではないだろうか。歴史的にまったくお仙と関係がない大圓寺に記念碑があり、功徳林寺に笠森稲荷が勧請されたのは、いずれもお仙人気にあやかろうとしたのかもしれない。

 ところで、いま功徳林寺がある場所にはかつて初音という地名があり、ウグイスの名所だった。また、谷中には蛍沢という地名もあった。お仙も春にはウグイスの声を聞き、夏には蛍の飛ぶ光景を目にしたことだろう。

 次の絵は鈴木春信「谷中笠森里日暮ノ里一躰之圖」。谷中、日暮里界隈の風景をバックに鍵屋の賑わう様子を描いていて、男がお仙と思しき女性の手を取って、ちょっかいを出している。実際、人気者になったお仙はいろいろと大変な思いをしたのだろう。お仙の結婚は看板娘を失った店にとっては打撃だったに違いないが、本人にとっては平穏な生活に戻るきっかけとなる出来事だったのではないだろうか。町娘が武家に嫁いで、いろいろと大変ではあっただろうけれど。

 では、次に福泉院にあった笠森稲荷が遷座した養寿院を訪ねてみよう。功徳林寺前を南へ戻り、谷中霊園を左に見ながら、上野桜木の交差点まで行き、言問通りを左折すると、やがて右手に寛永寺が見えて、その先に養寿院がある。

 門をくぐると、左手に池のある庭園があり、その傍らに赤い鳥居と小さな祠がある。鳥居には「笠森稲荷」の額が掛かり、「笠森荼吉尼天」の赤い幟が立っている。同じ「だきに天」でも功徳林寺とは漢字表記が違っている。

 これでお仙に関係があるのかないのか、よく分からない三カ所の「かさもり稲荷」を巡ったことになる。養寿院を出て、すぐ前の古い木造建築の看板をなにげなく見上げたら「おせん」と書いてあるではないか。「千客萬来」の文字もある。

 何の店なのかも営業しているのかも分からないが、お仙にちなんだ店名だろうか。あとで調べてみたら、20年ほど前に吉田類の酒場放浪記テレビ東京アド街ック天国でも紹介されたおでん屋で、今はもう閉店しているとのこと。店を切り盛りしていたおばあちゃんが「おせんさん」だったらしい。このおせんさんの名前が笠森お仙にあやかったものなのかどうかは不明。

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 さて、最後に谷中から一気に中野へ移動して、お仙のお墓があるという正見寺へ行ってみる。根津駅から千代田線で大手町へ行き、東西線に乗り換えて中野の一つ手前の落合下車。上高田一丁目の早稲田通りに面して正見寺はある。

 専念山寿光院正見寺は応永年間(1394年~1428年)に近江で創建された浄土真宗の寺で、寛永五(1628)年に江戸に移転。初めは赤坂一ツ木にあったが、四谷仲町を経て、寛文七(1667)年、元鮫河橋伊賀衆領百姓地へ移転。明治四十二年(1909)に現在地に移ってきた。

 墓地の入口に中野区教育委員会が昭和五十七年に立てた「笠森お仙の墓所」の説明板があった。

 笠森お仙の墓所

 当寺に笠森お仙の墓所があります。
 お仙は、谷中(現台東区)の笠森稲荷の前で水茶屋を営む鍵屋五郎兵衛の娘として宝暦二年(一七五二)に生れ、柳屋のお藤、蔦屋のお好と共に江戸の三美人といわれました。
 十四、五歳の頃には、水茶屋の看板娘として、その美しさが評判になり、大田南畝の『一話一言』や『売飴土平伝』にも記されているほか、浮世絵や芝居でももてはやされ、また後世まで子供の手まりうたに長く歌われました。
 その後、お仙は、御庭番の倉地政之助に嫁ぎ、九人の子を育てたそうですが、文政十年(一八二七)病気のため没し、四谷(現新宿区)の正見寺に葬られました。大正二年同寺が当地に移転した時、お仙の墓も移されました。

  昭和五十七年二月  中野区教育委員会

 

 この説明文では一般に五兵衛とされているお仙の父の名が五郎兵衛になっていたり、宝暦元年とされているお仙の生まれ年が宝暦二年になっていたり、正見寺の当地への移転が大正二年になっていたりするが、とにかく、この境内にお仙の墓がある。

 探してみると、倉地家のお墓が見つかり、その墓域に古い墓石が二つ並んでいて、そのうちの一つが政之助・お仙夫妻の墓のようだった。

 墓石には次のように彫られている。

 深照院清心大居士 文化五戊辰年 六月下旬九日

 深敬院妙心大姉    文政十丁亥年 正月下旬九日

 

 深敬院妙心大姉がお仙の戒名であることが、墓誌から分かる。政之助は文化五年六月二十九日に亡くなっており、これは1808年だから、お仙が五十八の時だ。それから19年生きて、お仙は文政十(1827)年一月二十九日に七十七歳で亡くなっている。多くの文献に結婚後のお仙は幸せな人生を送り、天寿を全うしたと書かれている。幸せだったという根拠は分からないが、たぶんそうだったのだろう。

 お墓はあくまでも今に続く倉地家の私的領域であるから、立ち入ることはせず、墓域の外から手を合わせ、お寺をあとにした。