江戸のアイドル「笠森お仙」(前編)

 町歩きをする時、あてもなくぶらぶらと歩くのも楽しいけれど、何かテーマをもって歩くのも面白い。江戸に関する本を読んでいて、たまたま目に留まったのが、江戸時代のアイドル「笠森お仙」。谷中の茶店の看板娘で、現代のアイドルに通じるような人気者になった実在の女性である。今回はこの「笠森お仙」をめぐる町歩き。

 

 お仙は宝暦元(1751)年の生まれ。谷中の感応寺(いまの天王寺)の子院・福泉院の境内にあった笠森稲荷門前で水茶屋「鍵屋」を営む五兵衛の娘で、店先に立つようになると、その美少女ぶりが大変な評判となった。その人気に火をつけたのが浮世絵師の鈴木春信(1725?-70)である。木版多色摺りの新技法を用いた錦絵の創始者の一人、春信は清楚で可憐な美人画を多く描いて人気を博したが、やがて遊女や町娘など実在の美女を描くようになり、お仙が十八になった明和五(1768)年頃、彼女をモデルにして多くの作品を制作したのだった。

 昭和の1970年代、カラーテレビの普及にともなってテレビから若いアイドル歌手が次々と登場したように、江戸時代においても浮世絵版画のカラー化がアイドルを生む下地となったのかもしれない。


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 お仙の存在は江戸中に知れ渡り、お茶一杯の代金で彼女に会えて、言葉も交わせるとして、多くの客が押し寄せるようになった。「笠森お仙」に関する現代の文章でしばしば使われるフレーズが「江戸時代の会いに行けるアイドル」というものだが、お仙はまさにそのような存在になり、錦絵のほか、読み売り(新聞)で紹介され、手ぬぐい、人形(フィギュア)、双六などのお仙ちゃんグッズが売り出され、和歌や川柳、さらに歌舞伎や芝居の題材にもなった。また、女性たちもお仙のファッションを真似たり、お仙のような美人を生みたいと願掛けする親が増えたりと、その人気は留まるところを知らなかった。

 「向う横丁のお稲荷さんへ一銭あげて、ざっとおがんでおせんの茶屋へ」という手まり唄も生まれ、東京周辺では昭和初期まで歌われたという。


(お茶よりお仙)

 もちろん、当時の江戸の美人はお仙だけではなかった。お仙と人気を二分したのが浅草観音奥山の楊枝屋の娘・お藤。鈴木春信もお藤が鍵屋を訪れ、お仙がお茶を出す光景を描くなど、二人が同じ画面に登場する作品をいくつか残しているが、実際に二人が対面したことがあったのかどうかは分からない。お互いの噂が耳に入るぐらいのことはあっただろう。この二人に浅草寺境内の二十軒茶屋のうち「蔦屋」のおよしを加え、「明和の三美人」と称されたが、ほかにも湯島天神で神楽を舞った二人の巫女、お波とお初などアイドルが次々と発見されていったのは現代と全く変わらない。

 上の絵は鍵屋で床几に腰掛けたお藤(左)にお茶を出すお仙だが、春信の描く美人の顔立ちはみな似ている。従って、春信の絵がどこまでお仙(とお藤)の実際の容貌を再現しているのかは分からない。ただ、春信が何枚もお仙を描いたということは、お仙が春信の考える美女のイメージに近い理想的な顔立ちをしていた、まさに絵に描いたような美人ではあったのだろう。

 お藤の生没年は不明だが、お仙よりは年上だったのだろうか。お仙が化粧っ気のないすっぴん美人だったのに対して、お藤はバッチリと化粧をした美女だったという。

 江戸の文人狂歌師で、お仙より2歳上の大田南畝(1749-1823)もファンの一人だったのか、お仙について多くの文章を書き残している。お藤との比較においてもお仙に軍配を上げ、その美しさは「ひとたび見れば人の足を駐む。再び見れば人腰を抜かす」と激賞している。

 また、お仙より11歳年下で江戸小日向・廓然寺の住職だった十方庵敬順(1762-1832)も隠居後の『遊歴雑記』の中で谷中の笠森稲荷について書き、「爰に明和年間、此茶店の女に仙といひし美婦あり、同時代浅草観音銀杏の下に、水茶屋の女に藤といひしもの一対にして、容儀絶倫の聞えありて、かさもりお仙・いてふお藤とて、東武一円に評判しけり」と自分の少年時代のことを回想しているし、ずっと後世においても、永井荷風(1879-1959)がお仙をモデルにした小説『恋衣花笠森』を書き、まるで本人にインタビューでもしてきたかのように、熱狂的人気に戸惑う乙女の心情を描いている。

 このように絶大な人気を誇ったお仙だが、春信の錦絵で広く世に知れ渡ってニ、三年後に忽然と店から姿を消してしまう。お仙ちゃん目当てで鍵屋を訪れたのに、禿げ頭の親父が出てきたというので、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」という流行り言葉が生まれたという。突然消えたお仙について、誰かと駆け落ちしたとか、何者かに殺されたとか、さまざまな憶測が流れたというが、実際は結婚していたのだった(人気絶頂で結婚・引退した昭和のアイドル山口百恵と対比されたりもする)。嫁いだ相手は旗本で幕府の御庭番、倉地政之助。御庭番とは江戸城の本丸に詰めて、将軍の命令で諸大名の様子や江戸市中、地方の情勢などを探り、情報収集する、いわば将軍直属の隠密だったようだ。紀州藩主から8代将軍に就任した徳川吉宗に従って和歌山から江戸へ出てきた倉地家は将軍からの信任を受け、御庭番を世襲した一家で、また笠森稲荷を勧請した家でもあり、その縁で、政之助とお仙は結ばれたのだろう。ただ、身分制社会の当時は武家の子息が茶屋の娘と結婚するのは御法度であった。そこでお仙を倉地家の親戚筋にあたる武家の養女とした上で結婚するという裏技を使ったようだ。そこまでしてでも政之助がお仙との結婚に執着したということかもしれない。その後、政之助は順調に出世し、お仙は武家のお内儀として、子宝にも恵まれ、平穏な人生を送り、文政十年一月二十九日(1827年2月24日)に七十七歳で亡くなっている。お墓は中野区の正見寺にある。

 

 では、お仙がいた谷中の茶屋の跡を訪ねてみようと思うのだが、笠森稲荷があった福泉院は明治時代に廃寺となっており、現在、谷中周辺には笠森稲荷(瘡守稲荷)が三カ所ある。話が少々ややこしいので、次回へ続く。

 

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(参考資料)

台東区史』

地域雑誌『谷中・根津・千駄木』其の一

森まゆみ『谷中スケッチブック』

藤澤紫監修『別冊太陽・鈴木春信決定版』

十方庵敬順『遊歴雑記』