嘉陵紀行「藤稲荷に詣でし道くさ」を辿る(前編)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が書き残した散策記録『江戸近郊道しるべ』の道筋を辿るシリーズ。今回は新宿区の下落合界隈である。嘉陵は文政七年九月十二日(1824年11月3日)に出かけている。

落合村の七曲がりに、虫の音を聞きに行くのなら、年寄りの世話をしながら一緒になどと、もとの同僚畑秀允が言っていたのは、もう十と五年も昔のことになってしまった。年を取るのは本当に早いもので、まさに一時の暇も、無駄にはできない。若い頃は日を惜しんでは勤めに励み、老いてからは今の楽しみで心を養っているのは、すべて人生の最期を全うするためにである。したがって、引っ越しした所の障子や襖さえ張っていないが、「じきに冬が来るのに」と家内が心細げに言うのも聞かないふりをして、今日はことさら日射しもうららかで、とても家でおとなしくしていられるような陽気ではない。これも心を豊かにするためだとかこつけて、出かけることにした」(現代語訳:阿部孝嗣、以下同じ)

 この冒頭部分で、嘉陵が引っ越しをしたばかりであることが分かる。徳川御三卿の清水家に仕える嘉陵は浜町の賜舎から三番町の家(今の千代田区九段南三丁目七番地)に移っているのだ。この時、嘉陵は数えの六十五歳である。

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 「最近になって、執政水野忠成(みずのただあきら、沼津藩主、文化十四年から文政元年まで老中格朝臣の屋敷が、高田(豊島区高田)にあるというのを聞いたので、それはどこかと尋ねれば、水稲荷の社(新宿区西早稲田三丁目)の東側、社の手前にある狭い小径を入って行くと、前に早稲田の田圃が見渡せ、後ろに山の木立が茂っていて、人目につかない隠れ家がある。家の外には竹を切って垣根をめぐらし、ひっそりと門を建ててあるだけである」

 嘉陵は自宅を出てからのルートは書かずに、いきなり早稲田の水野忠成(出羽守)の屋敷を見に行っているので、僕は新宿駅から歩いて、まずは大久保二丁目の新宿中央図書館で江戸時代の絵図などで下調べをしてから、早稲田方面へ行ってみた。

 早稲田の馬場下町交差点にやってきた。交差点の北西角に穴八幡宮(高田八幡宮)がある。かつては新宿歌舞伎町付近を水源とする蟹川が八幡宮下を流れており、いまの早稲田通りに橋が架かっていた。

 穴八幡は康平五(1062)年に八幡太郎源義家が奥州平定の帰途にこの地に兜と太刀を奉納し、八幡神を勧請したのが始まりと伝えられる古社で、寛永十八(1636)年、宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ、横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れたので、それ以降、「穴八幡宮」と称するようになったという。

 さて、水野忠成の下屋敷水稲荷の東側にあったという。幕末の嘉永七年に発行された「大久保絵図」によれば、水稲荷は穴八幡から通りを挟んだ向かい側に龍泉院、法輪寺と並んであった。水稲荷の別当天台宗の宝泉寺で、その境内には「高田富士」と呼ばれる富士塚が絵図にも描かれている。富士山信仰を広めた行者、食行身禄の弟子で地元の植木職人の藤四郎(日行)らが富士山から運んだ溶岩や土で築いたもので、高さは三丈余というから10メートルほどか。安永九(1780)年の築造で、江戸で最初の富士塚である。毎年六月十五日から十八日に登山を許し、多くの人々で賑わったという。

 ところで、肝心の水野屋敷は絵図にはない。嘉陵が「このやしき、水野執政うせてのち、幾程なくて井伊掃部殿かい取て、猶地をひろく囲入て、下やしきとす」と書いているように、井伊家が買い取って下屋敷としている。水稲荷に隣接する「井伊掃部頭」と書かれた土地が水野忠成の屋敷だったのだろう。

「敷地内に遊息所があるのかどうか分からない。お取り次ぎ衆にしても、深川や本所などの人たちの格好と比べると、派手やかさもない。その垣根に沿ってしばらく行くと、高田馬場の南東の隅に出る」

 絵図を見ても分かる通り、周辺には田畑が広がっており、当時の早稲田は「田圃でなければ茗荷畑、茗荷畑でなければ田圃」と言われた土地で、茗荷の名産地であった。そして、風景だけでなく、人々の格好にも都会とは違った田舎っぽさがあったようだ。

 現在はこの井伊家の屋敷、水稲荷の境内は早稲田大学のキャンパスとなり、水稲荷は絵図の右上にある「清水殿」(言うまでもなく嘉陵が仕えていた清水家)の下屋敷跡地に移転し、江戸最古の富士塚も崩され、同じ場所に復元されている。現代語訳版『江戸近郊道しるべ』の註には水稲荷が西早稲田三丁目にあると書かれているが、これは現在の位置であり、当時の位置は一丁目である。龍泉院、法輪寺、宝泉寺は今も元の場所に残り、早稲田大学のビルがそれらを見下ろしている。

 モダン建築の宝泉寺。背後のビルが水稲荷跡地に立つ早稲田大学九号館。

 今も残る法輪寺。その左隣に水稲荷の表参道があった。

 さて、穴八幡宮前の馬場下町から早稲田通りの八幡坂を登っていくと、西早稲田の交差点で、その北西側に東西に長い高田馬場があった。長さは六丁(約654m)、幅は三十余間(約60m)ほどであったという。

 交差点の向かい側の「八幡鮨」の壁面に高田馬場跡の解説板がある。

 馬場は旗本たちの馬術や弓術の稽古場として江戸初期の寛永十三(1636)年に造成され、穴八幡宮に奉納する流鏑馬も将軍供覧のもとで行われた。流鏑馬は現在は戸山公園(尾張徳川家下屋敷跡)で開催される。

 この西早稲田交差点あたりが嘉陵がやってきた「高田馬場の南東の隅」にあたる。早稲田通りの一本北側に茶屋町通りが並行し、二本の通りの挟まれた区域が馬場だった。馬場の北側に松並木が整備され、そこに八軒の茶屋ができたことが茶屋町通りの由来である。嘉陵は馬場に沿って茶屋町通りを歩き、右折して清水家下屋敷の西側の日蓮宗寺院・亮朝院前を通って神田川の姿見橋(面影橋)に出たようだ(大久保絵図参照)。

茶屋町通り。この左側が高田馬場だった)

(亮朝院前の坂を下ると面影橋に出る)

(亮朝院にある1834年建立の七面大明神堂と1705年奉納の石造金銅力士像)

 さて、僕は西早稲田交差点から茶屋町通りには入らず、神田川方面へ坂を下り、現在の水稲荷の東参道から境内に入り、清水家下屋敷跡の甘い泉園庭園を抜けて面影橋に出る。

 参道に入ってすぐ右手に高田富士と浅間神社がひっそりとある。

 文政三年の石鳥居。水稲荷と一緒に移設されたものと思われ、嘉陵も一度はくぐったに違いない。

 水稲荷神社。

 平安時代の天慶四(941)年、平将門を討った藤原秀郷が旧社地に冨塚稲荷を創建したと伝えられ、元禄十五(1702)年に神木の椋の幹の空洞より霊水が湧いたので水稲荷神社と呼ばれるようになった。この霊水は眼病に効くとして評判になり、広く信仰を集めたという。早稲田大学の校地拡張に伴い、現在地に移転したのは昭和三十八年のこと。

 清水家下屋敷跡の甘泉園庭園。名水が湧き、茶に適していたことから甘泉園と命名された。

 高田馬場があった台地から神田川の低地を望む。画面を横切る通りは新目白通り。道路の中央を都電荒川線が走る。その向こうに神田川が流れ、対岸は目白の台地へと続く。昔はこの低地部分はすべて水田だった。

 嘉陵の散策記は高田馬場からいきなり藤稲荷に飛ぶ。その間のルートは書かれていないが、清水家下屋敷前から姿見橋(面影橋)で神田川を渡って、南蔵院金乗院前を通って西へ行ったと思われる。

 今は甘泉園前の新目白通りに都電の面影橋停留所があり、通りを渡ると面影橋神田川を渡り、北へ続く道がある。これは大変古い道で、奥州道、鎌倉街道とも言われる。源義家や頼朝の軍勢が通ったとの伝承もある。

 ところで、『大久保絵図』では神田川神田上水)に架かる橋が「姿見橋」となっていて、それが現代では面影橋と呼ばれているわけだが、『江戸名所図会』には「俤(おもかげ)のはし」(面影橋)と姿見橋が別の橋として描かれている。

 画面手前に「俤のはし」が大きく描かれ、これを渡っていくと、すぐ北側で細い流れ(用水堀か)に架かる小さな橋があり、それが「姿見橋」となっている。その先に南蔵院があり、遠くの山の上には「藤いなり」も描かれている。この図に従えば、嘉陵は俤の橋、姿見橋を渡り、目白の台地の裾を田圃に沿って歩き、藤稲荷に達したのだろう。

 

 面影橋を渡ると、新宿区西早稲田から豊島区高田に入る。この面影橋の一帯は「山吹の里」とも言われる。太田道灌が鷹狩に出かけた先で俄雨に遭い、近くの農家の娘に蓑を乞うたところ、娘は蓑のかわりに山吹の花一枝を差しだすだけだった。道灌は意味が分からず、立腹して帰ったが、この話を家臣に語ると、娘の真意は『後拾遺和歌集』にある醍醐天皇の第十一皇子・兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」という和歌に掛けて、貧しい農家ゆえにお貸しする蓑のひとつもないことを伝えようとしたものだと教えられ、自分の無学を恥じ、それ以来、歌の道にも励んだという故事にちなんだものだという。それがこの土地だったというのだが、伝承地はほかにも数カ所あり、そもそもこれが史実かどうかも不明である。とにかく、面影橋を渡ったところに「山吹の里」の石碑がある。

 道を北へ行くと、左に氷川神社、右に南蔵院がある。この付近は当時は砂利場村といったようだ。

 氷川神社平安時代貞観年間(859-77)創建と伝わる古社。南蔵院室町時代に創建された真言宗豊山派の寺院で、大鏡薬師寺南蔵院という。本尊の薬師如来奥州藤原氏の持仏だったという伝承を持つ。

 最初、嘉陵はここから西へ行く道を歩いたのではないかと思ったのだが、実際はもう一本北の道を行ったようだ。旧鎌倉街道南蔵院の前で少し右に折れ、すぐにまた左に折れて北上する。この屈曲の中間に石橋があり、「右橋」と呼ばれていた(下の『江戸名所図会』参照)。街道をどちらから来ても、橋が右に見えるからである。目白台地下の湧水が水源と思われる小川は南蔵院の門前から道に沿って流れ、面影橋付近で神田川に注いでいたようだ。現在は水路や橋の痕跡はない。

 南蔵院角の変則的な四つ角を過ぎて、さらに北へ行くと、道は目白の台地へ向かって少しずつ上りになり、やがて金乗院前に出る。この先、道は急勾配となり、「宿坂」と呼ばれる難所である。中世にはここに関所があったと伝えられ、江戸時代には木々や竹が茂って、昼なお暗い坂であったという。

 金乗院は戦国末期に創建された真言宗豊山派寺院で、目白の地名の由来となった目白不動尊を祀る寺として知られるが、この目白不動尊は元はここから1キロほど東に位置した新長谷寺にあり、新長谷寺が戦災で廃寺となったため、戦後に金乗院に移されたものである。

 さて、嘉陵はここから宿坂は登らず、台地の裾の道を西へ行ったと思われる。右に晩秋の丘を、左に刈り入れも済んだ田圃を見ながら行ったのだろう。

 

 つづく

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