『廻国雑記』の道興准后は小野路を通ったのか?

 先日、町田市の古い宿場町・小野路を訪れた後、ちょっと気になった、というか、関心を持ったこと。

 道興准后は小野路を通ったのか?

 

 道興准后(どうこうじゅごう)とは室町時代の僧侶である。1430年に関白・近衛房嗣の子として生まれ、幼くして仏門に入り、京都の本山修験宗の総本山、聖護院の門跡(門跡とは寺の住職を皇族・公家が務める場合の呼称)となった人物で、没年は1501年とも1527年とも言われている。
 准后とは、朝廷において太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた処遇を与えられた者のことで、正式には准三宮(じゅさんぐう)または准三后(じゅさんごう)という。准后はその略称。道興も1465年に准三宮の宣下を受けたため、道興准后と呼ばれ、聖護院門跡のほか、園城寺の長吏(長官)や熊野三山検校などにも任じられた高僧である。

 その道興准后が1486年6月に京都を発ち、北陸を経て関東に入り、関東各地を巡った後、陸奥にまで足を延ばした10か月ほどの旅の記録が『廻国雑記』。僕も何度か図書館でこれを収録した『群書類従』を手に取り、その時々の関心に応じて一部に目を通したことがある。

 そして、今回の関心は道興が小野路を通ったのか、ということである。

 関東各地を巡った道興は一度箱根を越えて駿河国へ行った後、再び足柄峠を越えて関東に戻り、大山や日向薬師を訪れている。いずれも修験の霊場である。

 

宿相州大山寺、寒夜無眠。而閑寂之余、和漢両篇口号。 

  蓑笠何堪雪後峰   山隈無舎倚孤松
  可憐半夜還郷夢   一杵安驚古寺鐘

  わが方をしきしのべとも、夢路さへ適ひかねたる雪のさむしろ

此の山を立ち出でて、霊山といふ寺に到る。本尊は薬師如来にてまします。俳諧歌をよみて、同行の中につかはしける、

  釈尊のすみかと思ふ霊山に、薬師彿もあひやどりせり

日向寺といへる山寺に一宿してよめる、

  山陰や雪気の雲に風さえて、名のみ日なたときくも頼まず

熊野堂といへる所へ行きけるに、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなむ、里人の語り侍れば、疑しけれど、

  色みえて移ろふときく、古への言葉の露か、小野の浅ぢふ

半沢といへる所にやどりて、発句、

  水なかば沢べをわくやうす氷

名に聞きし霞の関を越えて、これかれ歌よみ連歌など言ひ捨てけるに、

  吾妻路の霞の関に、としこえは我も都に立ちぞかへらむ

  都にといそぐ我をばよもとめじ。霞の関も春を待つらむ

 

 道興は日向薬師に一泊した後、小野、半沢を通り、霞の関を越えて、この後、恋ヶ窪(国分寺市熊野神社あり)へ行っている。「霞の関」とは今の多摩市の関戸にあった関所のことである。なので、僕はこれを読んで、小野とは小野路ではないかと考えたわけである。小野路から霞の関を通て武蔵国府の府中方面へ通じているからだ。

 『東京都の地名』(日本歴史地名大系13、平凡社、2002年)の「小野路郷」のところには次のようにある。

『廻国雑記』に文明18年(1486)の冬、「熊野堂といへる所へ行きけるに小野といへる里侍り」云々とあるのは当所と思われる。

 小野路には小野小町に関する伝説もあり、疱瘡に罹った小野小町が仙水で患部を洗い、治癒したと伝わる「小町の井戸」が現存する。

 

 しかしながら、調べてみると、道興が日向薬師の次に訪れた「熊野堂」とは現在の厚木市旭町にある熊野神社であるという。江戸後期の『新編相模国風土記稿』の「愛甲郡厚木村」の項にはこう書いてある。

 別當熊野堂。或は熊野寺と稱す、長授山厚樹院と號す、本山修験京都聖護院末、(中略)文明十八年聖護院道興准后囘國の時、當寺に立寄あり、【回國雑記】曰、熊野堂と云所へ行ける道に小野といへる里侍り、按ずるに郡中小野村あり。

 

 そして、「小野村」の項にも『廻国雑記』にある「小野といへる里」は当所だと書かれている。確かに日向薬師から厚木の熊野堂(現・熊野神社)へ向かうルート上に厚木市小野があるから、これが正しいのだろう。

 実際、厚木の小野には平安時代延喜式神名帳にも記載された小野神社があり、小野小町の出生地との伝承も現在まで伝わり、小野小町を祀る小町神社まである。もっとも、その伝承は疑わしいと道興も書いているけれど。

 

 とにかく、『廻国雑記』に出てくる「小野の里」は厚木市にあり、町田の小野路のことではない。では、道興は小野路を通らなかったのか。次に気になるのは道興が熊野堂を訪れた後に宿泊している「半沢」という地名である。聞いたことのない地名だ。調べてみると、町田市内の図師に半沢という土地があることが分かった。図師は小野路と山ひとつを隔て、南西側に隣接する地域である。そして、半沢にはかつて本山修験の宿坊があったので、道興はそこで一夜を過ごした可能性が高いようだ。

 日曜日に小野路や図師を歩いた後、町田の中央図書館でいろいろ調べてきたのだが、『町田市史』上巻(1974年)には「この道興の回国は単なる遊覧ではなく、かれを門跡とする本山派の修験者の活動に権威を与えて、広く東国における教線の伸展を計る目的を帯びていたに相違な」いと書かれている。となれば、半沢にも本山修験と関係のある寺院があったと思われ、道興はその宿坊で一夜を過ごしたのだろう。実際、そこには半沢坊とか覚円坊とか呼ばれる寺があったらしい。

 江戸初期に創建された図師の円福寺という寺の境内に道興准后の句碑もあるということがわかり、とにかく半沢と呼ばれた土地へ行ってみようというのが今回の小野路再訪の一番の目的であった。

 ということで、鶴川から布田道を通ってまた小野路へやってきた。

 小野路宿を抜け、前回も訪ねた万松寺の前を通ると、万松寺谷戸がある。

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 ここが東京都内だと思うと、何度訪れても、感動する。

 ジョウビタキ♀がお出迎え。

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 これから万松寺谷戸を奥地へ向かい、小野路城址、小町井戸に立ち寄り、乗越八幡跡、こうせん塚を経て、白山谷戸へ抜けるつもり。上の地図ではそのコースに道が描かれていないが、道はあるらしい。白山谷戸を抜けると、そのあたりが半沢である。もしかしたら、道興も同じようなルートを辿って、半沢から小野路へ出て、さらに北上して、霞の関へと向かったのかもしれない。

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 緑の季節にまた来てみたい。たぶんまた来るだろう。

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 黄蝶が飛んでいた。ずっと飛んでいて、写真は撮れず。

 散策路を辿って、谷戸のどん詰まりまでやってきた。あちこちから水が湧いているようだ。

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 ここからは山に入るが、竹林の中に道が続いていた。

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 急斜面を登りきると、尾根道に出て、右手に小野路城址。ここは前回も来た。

 山の上の平坦地に鳥居と社があるだけで、説明板も何もない。ただ、案内板か何かを取り付けるためのポールなどはあちこちに立っているので、近いうちに道しるべや解説板などが設置されるのではないかと思う。

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 周囲にも高さの違う平地がいくつかあり、廓の跡であるようだ。

 近くには小町の井戸。

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 小野小町がこの水で病を治したという伝説の真偽はともかく、山の上に湧く水は城にとって貴重なものだったに違いない。この水は万松寺谷戸へ流れ下っている。

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 城址近くの地図には白山谷戸へ行く道も描かれている。修験道と関係が深い白山権現跡にも行ってみたいのだが、道は消えているらしく、跡もほとんど何も残っていないらしい。

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 小野路城址から乗越八幡跡方面へ向かう道。写真には写っていないが、歩いている人はほかにもいる。多くはないけれど。

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 ほどなく八幡跡らしき辻に出た。道祖神など石塔が並んでいる。

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 前方にはいい感じの切通しがあるが、ここは右へ行く。この分かれ道の間にある小高い塚が乗越八幡跡であるそうだが、詳しいことはよく分からないらしい。乗越は「のっこし」と読むそうで、恐らくは古道が峠を越える部分を意味するのだろう。図師方面から登ってきて、小野路方面へ下る地点にあたるので、ここを古道が通っていた可能性が高いのではないか。道興准后もここを通って小野路へ出たのかもしれない。

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 乗越八幡跡。

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 八幡跡から少し行くと、左手に「こうせん塚」。

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 今は何もないが、かつては東京都の立てた説明板があったらしい。それをネットから借用。

 スダジイ(椎の木)の大木の根元にある塚は「こうせん婆さん」と呼ばれており小さな石祠には「文政十年(一八二七年)十月、施主天野勘左衛門」と刻まれています。昔、麦こがし(こうせん)にむせて死んだ老婆をまつったもので、咳の病が治まるように茶椀や竹筒に茶を入れて奉納し祈願するようになったそうです。
 小野路城の関門があって「通せん場」と呼ばれたのが「関の神」「咳の神」と変じたという説や落城のおり、ここで交戦があり、死者を祀った墳墓が「交戦場」と称せられ、その後「こうせん婆」と変じたとする説もあります。

 

 こうせん塚をあとに、さらに進む。もう誰にも会わない。

 尾根筋を行く道と谷戸へ下る道の分岐点。ここにも道しるべが立つのだろうか。

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 尾根筋の道を行く。

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 エナガシジュウカラヒヨドリが飛び交い、コゲラがコツコツと木をつついている。

 雨上がりなどはかなり滑って、歩きにくそうな道でもある。

 まもなく、左から細い道が合流してきたので、そちらへ行ってみると、ほどなく谷戸の奥へ下りられた。白山谷戸である。

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 左の丘が白山尾根で、どこかに白山権現跡があるはず。登り口はないだろうか、と探しながら歩く。

 こちらも水が豊か。

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 白山権現跡は恐らく尾根のピークにあったのではないかと想像し、そのあたりを探ってみると、山へ通じる道が見つかったが、すぐに消えてしまった。その先は急斜面のやぶ。無理をすれば、よじ登ることも可能かもしれないが、無理はせず。

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 やがて、集落に出た。このあたりが半沢だろうか。

 白山谷戸の西にも小さな谷戸があり、そこに下ってくるのは先ほどの尾根道だろう。途中で白山谷戸に下らなければ、ここへ出てきたはず。

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 集落内を歩いていたら、民家の庭からタヌキが飛び出してきた。

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 集落の中を通る旧道の南側に2車線道路。「図師半沢通り」。今でも半沢の地名は生きている。

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 半沢稲荷。

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 現在は半沢稲荷会館となっている。地域の集会所なのだろう。

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 境内に地神塔があった。ほかに陰陽石など。

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 文化七(1810)年建立の石燈籠。「武劦多摩麻郡圖師邑 並木 半澤惣氏子中」と彫られている。並木はすぐ隣の集落である。

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 なお、この稲荷社は昭和初期までは八幡社と呼ばれていたという。半沢には若宮八幡があったというのが、これだろうか。

 

 さて、半沢稲荷の西にある円福寺にやってきた。江戸初期の創建で、曹洞宗だから、道興とは関係はないはずだが、ここに道興准后の句碑があるらしい。 f:id:peepooblue:20220308200403j:plain

 あった! 昭和46年建立。

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 水半ば澤邊をわくや薄氷
 原文では仮名の部分も漢字に直してあるのは、この句に半沢の地名が織り込まれていることを示すためだろう。

 裏側の碑文。

 表句ハ文明十八(一四八六)年関東ニ下レル准三后聖護院検校道興法親王ノ囘国雑記(旅日記)ニ載スル所ノ章〇相州大隅郡日向寺より愛甲郡熊野堂(厚木)を経て霞ヶ関(関戸)に至れる時半沢といへる所に宿りて発句「水なかば沢辺をわくやうす氷」〇ニ拠るモノ也 蓋シ図師地名ノ発祥ヲ伝ウル(武蔵風土記稿)此ノ近辺ニ在リシ半沢坊ノ草庵ニ春近キ一夜ヲ宿リシナル乎

 

 この碑文で図師の地名発祥を伝えられる、この近辺にあった半沢坊とあるが、図師という地名の発祥とは次のような話である。

 承久の頃(1219-21)、白山権現の社殿が損壊し、別当の大蔵院が修理のことを領主・小山田重義に乞うたので、重義は社地の有様を問うたところ、大蔵院の僧が図に描いて提出した。その絵図が大層見事であったので、重義はその僧の聡明さを愛でて帰依し、図師の法印の称号を授け、領地の一部を白山権現に寄進し、これが図師の地名になったというものだ。

 白山権現あるいは別当の大蔵院が「半沢坊」であったということだろうか。道興が各地の修験者を訪ね歩き、聖護院を総本山とする修験者の組織化のために奔走していたのだとすれば、修験道に関係がある白山権現を道興が訪ねた可能性は高い。しかし、いろいろ調べてみると、道興が訪ねたのは半沢にあった覚円坊であるという説も散見され、半沢坊とか覚円坊とか大蔵院とか白山権現とか、いろいろ出てきて、よく分からない。覚円坊は現在は町田市木曽西にあるが、そこの由緒書にはかつては半沢にあったなどとは一言も書いてないのだ。

 円福寺の境内には「半沢覚円坊」と刻まれた石もある。十一月八日とあるが、それが何年のことで、何の日付なのかは不明。謎の石。

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 図師の熊野神社。創建年代不詳。かつて図師村には宿地区と結道地区に熊野社があったが、明治44年に半沢の若宮八幡などとともにここへ合祀され、さらに大正5年に白山社も合祀されている。

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 木曽の覚円坊。

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 とりあえず、今回のテーマは道興准后は小野路を通ったのかどうか、である。『廻国雑記』にある小野は小野路のことではないが、道興が小野路を通った可能性は高いというのが結論。まぁ、ほとんどの人にとって、どうでもいいことですね。

 しかし、さらに調査を進めて、そのうちまた報告する予定。