根室本線最果て紀行

 昭和60(1985)年3月1日、札幌発釧路行きの夜行急行「まりも3号」の寝台で目を覚ます。よく眠ったと思った。
 ブラインドの隙間から覗くと、外はすでに白々と明るい。荒涼とした原野を走っており、まだ色彩を持たない太平洋が静かに打ち寄せている。同じ北海道でも札幌周辺とはまるで違った眺めだ。
 釧路には5分遅れて6時17分に到着。道内では比較的雪の少ないはずのこの街も全面的に雪景色。ホームに降り立つとさすがに寒い。
 今日はこれから根室方面に足を伸ばすが、すぐに発車の根室行き急行「ノサップ1号」は混んでいたので敬遠し、一旦改札を出た。

 2年前の春には機関車の引く客車列車だった根室行きの普通列車はたった1両のディーゼルカーに姿を変えていた。それでもガラガラのまま6時45分に釧路を発車。
 まもなく釧路川を渡る。厳しい冷え込みのせいでゆらゆらと川霧の立ち昇る水面には氷片がいくつも浮いていた。
 釧路駅のキオスクで買った北海道新聞を広げると、一面トップには田中角栄元首相が「軽い脳卒中」で入院したという記事。大きな影響力のある人物なだけに政界は大騒ぎだろうなぁ、と思いつつ、ざっと記事を眺め、当面の関心事である天気欄に目を移す。
 本日の根室地方は「晴れのち曇りで一時雪の所がある」とのこと。なんだかはっきりしないが、この時季の北海道はどこへ行ってもこんな具合なのだろう。昨日(2月28日)の気温を見ると、道内は日中でも0度前後で、たとえば、札幌では最高気温が0.9度、最低は−7.8度である。釧路はもっと寒くて最低気温は−10.7度、最高でも−0.4度だ。真冬よりマシとはいえ、まだまだ寒い。
 ところで、今日は3月1日である。社会面には「今日から3月」という記事があって、その書き出しが「うず高かった道端の雪も日ごとに減り始め、春はもうすぐ…」といかにも北国らしい。それから今月予定されているさまざまな行事に触れた後、「28日現在の積雪は倶知安の160センチを筆頭に札幌80センチ、旭川66センチ、函館61センチ、釧路30センチなど。札幌はわき道に入るとザクザクの雪道が続くが、中心部は路上も乾き始め、ほこりっぽくなってきた。三月上・下旬は低気圧で荒れ模様の日もあるが、中旬は暖かな日が続く見込みで、雪解けも進み、悩みの車粉シーズン入りも間近だ」と結んでいる。やはり北海道の人々の春の感じ方は東京人のそれとはまるで違うのだろう。

 さて、新聞を読んでいるうちに東釧路釧網本線のレールを北へ見送り、列車は湿原に足を踏み入れる。あたりの樹木は真っ白な霧氷に覆われ、まるで満開の桜並木のような夢幻的な風景だ。
 別保(べっぽ)を過ぎると、湿原に変わって原生林におおわれた丘陵地帯に分け入る。枯木が傾いたり、倒れたりしているのが目につく。短いトンネルをいくつかくぐって、緩やかな峠を越え、再び平地に下ると上尾幌で、上り列車と行き違いのため小休止。

 尾幌を過ぎ、門静(もんしず)あたりで窓外に海が広がった。厚岸(あっけし)湾。カモメやカラスの群れ飛ぶ、うら寂しい海辺である。
 釧路を出て初めてたくさんの人家が現われ、まもなく厚岸。ここでも列車行き違いのためしばらく停車するので、その間に窓を開け、立ち売りの駅弁とお茶を買った。

 厚岸を発車すると、厚岸湖の岸辺に出る。海とつながった汽水湖だが、今は雪と氷に完全に覆われている。そして、車窓はいつしか湖から枯れた葦が風になびく湿原へと移り変わっていく。とりとめのない風景。遠い遥かな旅路である。

 霧氷が白銀に輝く森林地帯や広大な白い牧場の中を紅一点、小さなディーゼルカーはコトコトと走り続ける。

 糸魚沢、茶内、浜中、姉別と停まって、8時49分に厚床(あっとこ)到着。標津線との分岐駅で、列車の行き違いと車両増結のため20分の停車。湿った土のホームに出て一休み。小さな木造駅舎のある厚床駅の構内は広々としていて、あたりは見渡すかぎりの雪野原。どこか大陸の鉄道を思わせる。

 
厚床駅にて)

 しばらくすると、釧路行きと標津線の上り一番列車が相次いで到着した。中標津から来た標津線の2両編成のうち1両が根室行きに増結される。釧路行きが行ってしまい、連結作業が終わると根室行きもようやく発車。

 2両編成になった列車はすっかり晴れた根釧原野を快調に走る。陽が高くなり、気温が上がったようで、木々の霧氷が桜の花の散るようにハラハラと舞っている。
 沿線には雪に覆われた牧場と寄生植物に取りつかれた背の高い木々が多い森林が交互に現われる。シベリア鉄道の車窓もこんなだろうか、と想像させる雄大かつ単調な風景である。「防霧保安林」という見慣れぬ標識が目につく。この地方は海流の影響で霧が発生しやすく、夏でも太陽の出ない日が多い。年間を通じて寒冷で、日本で最も気候風土の過酷な土地だ。農業もできず、牧場があるほかは森林と原野が広がるばかり。時折、近代的なサイロが見えたかと思えば、崩れかけた廃屋が車窓をかすめる。最果てへの旅は美しくも厳しい自然と、そこに生きる人々の生活に触れる旅である。

 初田牛(はったうし)、別当賀(べっとが)と風変わりな名前の駅が続き、やがて、列車は海を見下ろす断崖の上に出た。車窓いっぱいに太平洋が広がり、海に突き出た平らな岬が前方に見えてくる。それが落石(おちいし)岬。いまだ俗化されずに自然の聖域として残っているといい、近年ここを訪れる旅人が増えているそうだ。ただし、今の季節は雪が深くて大変だろうと札幌のユースホステルで聞いた。
 最寄りの落石駅に着くと、大きなリュックを背負った旅行者が二人降りていった。僕も降りてみようかと思ったが、その前に列車が動き出した。

 落石を出ると、またあたりは森林となる。前回、この辺でエゾシカが線路内に入り込み、列車が立ち往生したので、また出てこないかな、と思っていると、隣の席で反対側の車窓を眺めていた男の子が「あっ、シカだ」と小声で叫んだ。頭数を数えてから母親に「6匹いた」と報告していたが、僕の席からは1頭も見えなかった。
 昆布盛は通過して、森を抜け、なだらかな起伏のある牧場の中を走り、西和田に停まると、次は花咲。太平洋に面した港町で、流氷に閉ざされる根室港に代わって冬の漁業基地になるところである。ここに先ほどの落石岬のスケールを小さくしたような花咲岬というのがあるらしいので(注*この時は知る由もありませんでしたが、実際は落石岬と花咲岬はまるで雰囲気が違います)、行ってみようと思う。

(花咲駅で根室行きを見送る)

 花咲着9時58分。降りたのは僕ひとり。列車が走り去ると、あとはもう風の音が聞こえるばかり。木造の古びた駅舎に駅員の姿はなく、ガラガラと木戸を開けて待合室に入ると、冷え切ったストーブが残されているだけだ。2年前に通った時は駅員がホームに立っていた記憶があるのに…と思いながら、分厚い引き戸を開けて、駅前に立った。サイロのある酪農家が見えるほかは何もない。駅の南方の港へ通じる道も見当たらない。花咲駅は港とは無縁の大地のはずれにぽつんとあるのだった。

(花咲駅はこの4ヶ月前の1984年12月1日で無人化)

 仕方なく待合室を通り抜け、ホームに出る。線路の向こうに民家が一軒あり、そこから海側に道が伸びている。列車が来ないことを確かめ、線路に飛び降り、膝下まで積もった雪を踏み越えて、ようやくその道に出ることができた。

(花咲駅から積もった雪を突破して港への道に出た)

 照り返しの強い雪原の道を歩いていくと、民家の庭先に繋がれた大きな犬がけたたましく吠えた。この辺ではどこでも犬を飼っていて、家の前を通るたびに吠えられる。旅人とはそういう存在である。
 この土地を開拓した人々が眠る小さな墓地を目にしながら台地の端まで来ると、眼下に花咲漁港が広がった。港町の向こうは再びなだらかな丘で、海に突き出た先端に灯台らしきものが小さく見える。あれが花咲岬のようだ。

(花咲岬と港が見えてきた)

 坂道を下っていくと、気味が悪いほどたくさんのカモメが群れをなして飛んできて、僕の頭上を低空飛行で掠めていった。

 とにかく、花咲の街に入った。駅周辺の何もなさを思うと、意外なほどの街並みだが、人影はほとんどない。今日は根室泊まりに決め、公衆電話から市内のユースホステルに予約を入れてから、漁港へ向かう。びっこを引いた茶色い犬がすり寄ってきた。旅先では本当によく犬に吠えられるが、吠えるのは決まって鎖で繋がれた犬である。こういう野良犬はそばに寄ってくることはあっても吠えたりしない。自分と似たような奴がいるとでも思っているのかもしれない。

 花咲漁港へやってきた。ここもひっそりとして活気がない。長い防波堤に囲まれた港内には船の数も少なく、堤防の陰には氷片が浮いている。特に何があるわけでもないけれど、こういう港町を訪ねるのはなんとなく好きだ。
 港をあとにして、再び町なかに戻る。女の名前のついた店が軒を並べる、ちょっとした繁華街もこんな時間ではまるでひと気がない。

 港の背後の高台には神社があり、石段を登って境内を抜けると岬に通じる道があった。しばらくは周囲に人家があったが、やがてそれも途切れ、あとは岬まで雪原の一本道。
 緩やかな下りになった道の先に紅白に塗られた花咲岬灯台。その向こうには逆光にキラキラ輝く太平洋。海上には平らで巨大なホットケーキみたいな島が浮かんでいる。

 花咲岬は何もなくて慎ましい岬だった。「何もない」というのは観光産業のニオイがしないという意味の褒め言葉である。花咲というぐらいだから、夏が来れば、この雪原は緑の草原に変わり、可憐な花が色とりどりに咲き乱れるのだろうか。そんな季節にまた訪れてみたいと思う(と、この時は思ったわけですが、まさか自転車でやってくることになるとは想像もできませんでした)。

 ひと気のない灯台の脇に岬の下の海岸に通じる小径を見つけた。「車石」という奇岩を観察するためのもので、せっかくなので行ってみる。崖に沿って下りていくと、突然、下から、
「気をつけてくださいよ」
 と女性の声がした。中年の女性がこちらを見上げている。誰もいないものとばかり思い込んでいたので、びっくりした。
「すみませんが、ちょっと写真を撮ってもらえますか」
 海をバックにシャッターを押してあげてから、ついでに僕も一枚お願いした。
 横浜からの一人旅だそうで、髪が長くて若々しくも見えるが、40代の半ばくらいだろうか。女性の年齢を判断するのは難しい。
 そこへ新たな3人連れの旅行客がやってきて、岬の下の磯はちょっとだけ賑わったが、僕以外はみな中年以上ばかりだ。3人連れはすぐに立ち去り、またふたりだけになった。

(車石と灯台) 
 ところで、「車石」である。案内書によれば、「花咲岬灯台の近くにある珍しい石で、千島火山脈の活動によってできた粗粒玄武岩の柱状節理である」ということで、なんだかさっぱり分からないが、要するに「…車輪の半分が土中に埋まったような形をしているため車石と名付けられ、長径は6メートルもある。天然記念物」というものなのだ。地質学的には貴重なのだろうけれど、さして面白いものではなく、10秒も眺めれば、それで十分だ。しかし、岩場に寄せる波は青く穏やかで、気持ちのよい場所ではある。

 横浜のおばさんは今日は朝早く納沙布岬へ行ってから、こちらへバスで来たそうだが、北方領土の島々は霞んで見えなかったらしい。
「でも、今から行けば見えるんじゃないかしら」
 僕もこの後、納沙布へ行くつもりにしている。

 灯台をあとに、再び雪原の道を戻りながら、いろいろと旅の話をした。「知床半島が大好き」だそうで、スノーモービルに乗った話や宇登呂から眺める夕陽の美しいことなど聞かせてくれた。知床で知り合った女の子がひとりで気ままに旅をしていた、というようなことからユースホステルの話になった。
「ユースは若い人ばかりでしょう?」
 自分はもう対象外、という口ぶりなので、僕は前にユースで会った一人旅のおばあさんの話をした。確か65歳ぐらいだったと思うが、夏はキャンプもするというすごい人だった。
「そういう生き方って素敵だと思うわ…」

 花咲の町の入口で港へ行ってみたいというおばさんと別れ、僕はまた花咲駅に戻った。膝まで積もった雪を再び突破して線路を渡り、ホームに上がろうとした時、ちょうど根室からの列車が見えてきた。もちろん、乗らないので、無人の待合室でその列車をやり過ごす。
 壁に掛かった時刻表を見ると、次の根室行きは12時42分発で、まだ40分近くある。その間、ホームのベンチに座って、暇つぶしに、目の前に広がる風景をスケッチしていた。

(暇つぶしのスケッチ)
 やがて、遠くでタイフォンの音が微かに聞こえた。しばらくすると、数キロ先の森の陰から朱色のディーゼルカーが姿を現わし、だんだん近づいてきた。

根室行きがやってきた)

 12時51分、根室到着。日本の東の果ての終着駅だ。
 列車から吐き出された乗客はザワザワと改札を通り、冷たい風の吹くガランとした街に散っていく。待合室のストーブに心惹かれながらも、彼らのあとを追うように外へ出た。駅前ロータリーからまっすぐに伸びる広い通りに沿って続く街並みを眺めながら、根室は北海道の各都市の中でも最果ての印象が一番強い街だなぁ、と思う。稚内や網走でももう少し活気があるような気がする。

 根室駅前13時発の納沙布岬行き根室交通バスに乗車。数人の旅行客と地元客で半分ぐらい席の埋まったバスは市街地をはずれると、根室半島の南岸に沿って岬への一本道をひた走る。右手には寂しい海岸、左手には牧場や原野がどこまでも続く。
 一方、車内は途中で乗ってきた中学生で満員。男子はわりと大人しいのだけれど、女子の方は賑やかというか喧しいというか…。みんな全国共通の制服の上にグレイ系のジャンパーを着て、男女とも白い鞄を肩に掛けている。きっと校則の服装規定を全員が忠実に守っているのだろう。
 バスは友知(ともしり)、沖根婦(おきねっぷ)、歯舞(はぼまい)、珸瑶瑁(ごようまい)…と物凄い名前の小さな集落を結んで走る。これらの地名はいずれもアイヌ語の地名に無理やり漢字を当てはめたものだが、なかには「フラリ」と片仮名表記の停留所もある。漢字だと「婦羅理」と書くらしい。一体誰がこんな漢字表記を考案したのだろうか。
 花咲岬で会ったおばさんは納沙布岬への道沿いの集落を目にすると、胸が締めつけられるような思いがすると言っていた。こんな最果ての荒涼として寂しい風景の中で生きる人々がいるのだということを思うと、確かにそんな気持ちにもなる。

 ほとんどの乗客を途中で降ろして、40分ほどで納沙布岬に着いた。数人の旅行者とともにバスを降り、北方領土は見えるだろうかと思いながら岬へ急ぐ。

 花咲の海は青かったのに納沙布の海は白い氷に埋め尽くされていた。流氷だ。
 そして、白い水平線上には平らな島々が横たわっている。それが初めてこの目で見た北方領土歯舞諸島の島々であった。根室の街にもこの岬にも領土返還を求めるスローガンを掲げた看板が目につくが、現実には異国ソヴィエト連邦(当時)の支配下にある島々。それだけに目の前に厳然と存在する「国境」の緊迫した空気が冷たい海風に乗ってピリピリと伝わってくる。しかし、海鳥の群れがその上を自由に飛び回っているのを見ると、人間というのは面倒くさい生き物だなぁ、と思う。

 
(流氷の納沙布岬

 寒風を避けて「望郷の家」という建物に入った。その2階が展望室で、無料の望遠鏡が据え付けられているので、早速覗いてみると、見える、見える。ここから3.7キロと最も近く、海中から灯台だけ出ている貝殻島、その向こうに水晶島、さらに秋勇留(あきゆり)島、勇留(ゆり)島などの島々が手に取るように望まれる。雪に覆われた平坦な台地上の島にはソ連軍の兵舎などがあり、また、海上にはソ連国境警備隊の監視船もじっと睨みを効かせていて、近いはずの島々がまさに手の届かぬ遠い存在に感じられた。
 氷の海には赤く錆つき大きく傾いた難破船も2隻見えるが、これもソ連側にあるため、引き揚げられずに放置されているそうだ。そんな何もかもが凍りついたように静止した風景の中で、人間の支配を受けない流氷だけが根室海峡から太平洋へと流れ出ていくのが実に印象的だった。

納沙布岬の望遠鏡を使ってスケッチした北方領土。原画をもとに描き直したもの)