藤沢から茅ヶ崎まで石仏をみて歩く(1)

 9月に信州安曇野道祖神めぐりをして以来、図書館で道祖神関係の本を何冊か読んだ。道祖神は塞ノ神などとも呼ばれ、村の入口や辻などに祀られ、災厄や疫病が村に入り込むのを防ぐ神とされたが、その後、道中安全、無病息災、五穀豊穣、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄などさまざまな願いが込められるようになった。

 こうした神々は全国各地に見られるが、特に関東甲信地方に多いという。なかでも神奈川県には多く、歴史も古いらしい。道祖神は東京都内でもいくつか見たことはあるが、庚申塔などに比べるとずっと少ないのに対して、確かに神奈川県では多く見かける印象だ。

 図書館で手に取った本の中に『石仏地図手帖・神奈川篇』(日本石仏協会編、1990年)というのがあり、その中に道祖神ではないが、心惹かれる石仏がいくつかあり、それを現地に見に行くことにした。今回は藤沢市から茅ヶ崎市にかけての内陸部を歩いてみようと思う。

 

 ということで、先日、小田急江ノ島線善行駅で下車。西の方へ歩く。手には『石仏地図手帖』の「藤沢の石仏」と「寒川から茅ヶ崎の石仏」のページのコピー、A4で10枚。

 「藤沢の石仏」では大庭地区の石仏が紹介されており、イラストマップもある。ルート上の石仏には①~⑫まで番号が振られ、大庭地区を一周するようになっているが、今日はそのうちの半分⑥以降をめぐるつもり。今いる善行駅は地図の範囲外なので、勘を頼りに歩いて行ったら、想定していた場所より北で引地川に出た。

 火の見櫓発見。

 引地川左岸の古い道を南へ向かうと、やがて聖ヶ谷(ひじりがやと)に通じ、そこに藤沢市教育委員会の立てた説明板がある。

 この一帯を聖ヶ谷といいます。『吾妻鏡』に建長六年(一二五四)北条時頼が大場の地に聖福寺を創建したのがこの地であるとか、明治期に台地上の堂明から出土した聖天像に由来するとか、大場の念仏聖が小庵を編んだことによるとか、言われていますが確かなことはわかりません。厚木から南下する道はここで別れます。文政十一年(一八二八)に建立された庚申供養塔が道標となっていて、塔身左側面に「右ひき志」「左ふじ沢」とあるように、南へは引地川に沿って引地道、東へは今のガスタンク脇から荏原製作所内を通って藤沢本町駅脇へ通じる藤沢道でした。

 説明板にある通り、ここで道が分かれ、そこに庚申供養塔が立っている。「庚申塔」の文字の下に三猿。

 『石仏地図手帳』には「塔の左側に『右ひきじ道、左ふじ沢道」とあるが、たしかに道しるべの通り、右の里道は引地へと、左は山みちで昔の厚木道、今の県道藤沢厚木線を経て藤沢に至る。石塔も道も昔のままである」と書かれている。

 ここには双体道祖神もあるはずなのだが、見当たらないな、と思ったら、左手の斜面下で草に隠れるようにあった。「道祖神」と彫られた文字塔と双体像。文字塔は嘉永二(1849)年、双体像は宝暦十一(1761)年のもの。

 安曇野道祖神花崗岩でできていて、年月を経ても傷みがほとんどないが、神奈川のは石の材質のせいか、年代的には同じようなものでもかなり風化が進み、損傷が激しいものが少なくない。また、安曇野では男女神が手を握り合ったり、抱き合ったり、といった像が多いが、神奈川では男女神がともに合掌しているものが多いようだ。

 

 さて、引き続き引地川沿いの「引地道」を行く。600メートルほどで左折すると、成就院。その境内を回り込むように坂を上っていくと、台地上に持瀬日枝神社があり、境内に庚申塔が4基並んでいる。

 三猿がなかなか味わい深い。

 再び坂を下り、成就院の石仏や五輪塔なども拝んで、引地道に戻る。すぐ先に大庭神社があり、百余段の石段を登って台地上の神社を参拝してきた。大庭神社は平安時代の『延喜式神名帳』にも記載された古社で、主祭神は神皇産靈神。ほかに大庭氏の根拠地ということで大庭景親を祀り、さらに菅原道真を祀って、江戸時代には天神社と呼ばれていたという。

 ちなみに藤沢市大庭は古くは大庭御厨(おおばみくりや)と呼ばれ、現在の藤沢市から茅ヶ崎市に跨る伊勢神宮領だった土地の中心地である。平安末期に桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景正(景政)が開発し、その子孫は大庭氏と称した。領地は伊勢神宮に寄進され、その保護下に入りつつ、大庭氏が荘官下司)として荘園の管理にあたり、一定の権益を掌握していた。源頼朝が伊豆で挙兵した直後、その軍勢を石橋山の戦いで破った大庭景親はこの大庭氏の一族である。景親はのちに頼朝に降伏し、斬首されるが、兄の景義は早くから頼朝に臣従したため、大庭氏は大庭御厨の権益を引き継ぐことができた。

 しかし、鎌倉幕府に対して和田義盛が反乱を起こした和田合戦(1213年)で大庭景義の嫡男・景兼が反乱軍に連座したことで大庭御厨は三浦氏、さらに北条得宗家の手に渡り、鎌倉幕府滅亡後は関東管領・上杉氏が領有し、戦国時代に小田原北条氏が手中に収めている。その中心地である大庭城は大庭神社から引地川の対岸の小山にあった。

 

 さて、大庭神社の手前を右折して、引地川親水公園の中を抜け、天神橋で引地川を渡る。欄干に蛙。

 田んぼにはワシかタカを模した凧が風でくるくると飛び回っている。夏に上越線を旅した帰り、高崎からの八高線沿線でたくさん見たが、動きがあるぶん、案山子よりは効果があるのかもしれない。

 樹上でモズが鳴いている。

 引地川右岸の県道を南へ下ると、「舟地蔵」がある。バス停と交差点の名前にもなっていて、近くに舟地蔵公園もあるので、地元では有名なのだろう。

 その名の通り舟の形をした台座に乗った、ふくよかな地蔵尊

 年代は不詳ながら、この地蔵尊にはある伝説がある。地蔵尊の背後にあるこんもりとした山は大庭城址で、今は公園になっているが、古くは大庭氏の館があり、のちに扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が城を築造し、上杉氏の居城となったという。引地川とその支流の小糸川に挟まれた天然の要害である。永正九(1512)年、この地に侵攻してきた北条早雲の軍勢は沼地に阻まれて城を攻めあぐね、地元のぼた餅売りの老婆に城の秘密を聞きだして、ようやく攻め落とすことができた。この際、早雲は口封じのために老婆を斬り殺し、のちにこの哀れな老婆を供養するために地元の人々が地蔵尊を建立したと言い伝えられている。建立時期は江戸中期だという。地蔵尊は城の近くに建立されたというが、開発により何度か移転した後、現在地に落ち着いたとのこと。

 

 ところで、『石仏地図手帖』には舟地蔵が二つ紹介されている。いま拝んだばかりの地蔵尊ともうひとつはもっと小さなものらしい。この本では石仏を写真ではなすべてイラストで紹介しており、僕はこれから訪ねる小さなほうの舟地蔵に強く心を惹かれた。

 こんなイラストである。

 このイラストを見た時、芦奈野ひとしの漫画『ヨコハマ買い出し紀行』に出てくる「水神さま」(第21話)を思い出した。謎の海面上昇により水没しかかった三浦半島とその周辺を舞台に文明が滅びゆく「夕凪の時代」を生きる人々と人の姿をしたロボットの交流を描く作品だが、その中で内陸まで海が入り込んだ埼玉の「見沼入江」のほとりに存在する水神の話がある。まるで生きた人間が少し前傾して座っているような姿で、体は白い綿のようなもので覆われ、顔はビロードっぽい細かい起毛で白く光っている。決して動かないが、生きていて、脳波もある。でも、年を取らない。「さわらないほうがいいだろう」ということで、地元の人たちがよそ者は近づけずに大切に番をしながら守っているあまりにも不思議な存在。その水神さまを舟地蔵のイラストから連想したわけだが、実際に見比べたら、全然違う。

 

 

 でも、これはぜひ実物を拝んでみたい。ネットで検索しても、有名なほうの舟地蔵はたくさん出てくるが、小さいほうは見つからない。これは現地へ行ってみるしかない、ということで今回わざわざ出かけてきたのである。

 さて、めざす舟地蔵はどんな場所にあって、どんな姿なのか。 

 

 つづく

peepooblue.hatenablog.com