嘉陵紀行「半田いなり詣の記」を辿る(その3)

 江戸の侍・村尾嘉陵が江戸の浜町の自宅から今の葛飾東金町にある半田稲荷に参詣した日帰り旅の道筋を辿る話のつづき。

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 飯塚村(今の葛飾西水元)にあった夕顔観音堂を訪れた後、嘉陵は地元の人に教えられた道を通って、当初の目的地であった半田稲荷へと歩く。

 半里ほど畦道を行って、後を振り返ってみると、夕顔観音、富士浅間の森が遥か遠くに見える。なお少し行くと、半田稲荷の社の南側に出る。(阿部孝嗣訳)

 当時は見渡すかぎりの田圃で寺社の森だけが目についたようだが、今はすっかり宅地化され、農地はまったく見られない中を歩いて僕も東金町四丁目の半田稲荷に到着。ただし、僕は南側ではなく、神社の北側に出た。浜町から歩いてきた嘉陵ほどではないが、僕も浅草から歩いてきたので、けっこうな距離である。しかも、嘉陵は途中で舟に乗ったが、僕は全部徒歩である。

 ところで、嘉陵はなぜこの辺鄙ともいえる場所にある神社への参詣を思い立ったのだろうか。創建は和同四(711)年とも永久年間(1113-17)とも伝えられ、はっきりしないが、相当な古社であることは確かなようで、中世には古河公方足利成氏の祈願所にもなったという。特に江戸時代の享保の頃から信仰が広まり、武家から町人まで江戸から参詣に訪れる者が増えたようである。また、「願人坊主」という者が真っ赤な法衣に真っ赤な頭巾など赤ずくめの扮装で「半田稲荷大明神」と書かれた赤い幟を手に江戸の町に出没し、「葛西金町半田のいなり、疱瘡も軽い、麻疹も軽い、運授安産御守護の神よ」と妙な節をつけて謡い踊りながら練り歩いたのが人気を呼び、その宣伝効果もあって疱瘡、麻疹、安産に霊験ありとして信仰を集めたという。願人坊主は歌舞伎や狂言でも演じられたといい、役者からも信仰されたようだ。そのため、『江戸名所図会』でも取り上げられている。

(『江戸名所図会』より「半田稲荷社」)

 社の前に朱の玉垣、瓦葺きの門があり、社頭は東に向かっている。拝殿の広さは六間に三間、幣殿は三間ほど、本社は二間ほどの大きさである。拝殿の天井に墨絵の龍が描かれている。その筆勢といい墨色といい、なかなかの出来である。よく見ると知り合いの香取栄広が描いたものである。牧谿の図に倣って六間三間の際に頭と手とをただ三つ、所狭しと描いてある。尾張紀伊両藩の士、その他の諸侯の家士、江戸の町々、品川辺りの者などが、ここまで月詣でするという。人の名前などを書いて拝殿に掛けてある。今日初めて詣でた者にとっては、月ごとに詣でる者がいるということに驚かされた。

 当時の社殿は幕末に再建され、それも昭和の戦災で焼失し、今の社殿は戦後に再建されたものである。当時は東向きだったというが、今は南南東を向いている。当時と同じ向きかどうかは分からない。

 境内には願人坊主が水垢離をしたという神泉の遺構があり、それを囲む石の柵には市川團十郎尾上菊五郎など役者の名前も見える。

 境内には神の使いである狐が多数。かなり古いものもある。

 前庭から拝んで門を出て東に行くと、北に岩附慈恩寺道がある。先に進み利根川端堤の上に登る。ここに「左正一位半田稲荷大明神」と彫り付けた石の標示がある。

 半田稲荷を出て、都道を渡り、そのまま東へ行くと江戸川の土手にぶつかる。嘉陵が利根川と書くのは江戸川のことである。もともと利根川東京湾に注いでおり、江戸時代になって現在のように銚子で太平洋に出るように付け替えられた。利根川の旧流路にあたる江戸川も利根川と認識されていたということだろう。

 堤の上を通る道は旧水戸街道で、そこに半田稲荷の道標があったようだ。現在、半田稲荷の参道入口にいくつかの道標が集められているが、そのうちのひとつだろうか。

(「正一位半田稲荷大明神」と刻まれた道標)

 とにかく、東京と千葉の都県境を流れる江戸川までやってきた。対岸は千葉県。江戸時代には武蔵と下総の国境だった。

 現在の堤防より一段低い道が旧水戸街道で、これを南へ行く。

 堤の上を左に行くと松戸に出る。堤の上を南に少し行くと札の辻に出る。ここから西の方に堤を下りて行くと新宿(にいじゅく)に出る。

 ここが「札の辻」で、右へ行くのが旧水戸街道の新宿方面。堤の道は左へ続く。

 なお堤の上を南に向かうこと二丁ほどで、香取の社に着く。堤の東側、利根川の岸にある。

 香取の社とは今の葛西神社(東金町六丁目)である。堤よりも川側の堤外地にあったわけだ。今も町より一段高い堤道の反対側に境内があるが、その背後に現代の高い堤防があって、川とは隔てられている。

(昔の堤道で町と隔てられた葛西神社。堤から石段を下ると境内である)

 葛西神社は元暦二(1185)年に葛西三十三郷の総鎮守として下総国香取大神宮の分霊を勧請して創建されたと伝わる古社で、当時は香取宮と称した。ちなみに江戸初期までは隅田川以東は下総国だった。香取宮は明治初めに香取神社と改称し、さらに明治十四年に葛西神社と改められている。

 境内には見どころが多く、貴重な文化財もあるが、神様に手を合わせただけで先を急ぐ。

 ここの岸から北を望むと、松戸の辺りをはるかに望むことができる。一里ほどもあるであろうか。江戸は五月十九日から雨が降っていないが、この川の水量が減っているとは見えない。青く渦巻きを作りながら流れているのは、上流では雨が降っているからだと思う。

 こうした記述から嘉陵はふだんから日記をつけて、毎日の天気なども記録していたのだな、ということが想像できる。

 常磐線と現代の水戸街道(国道6号線)の下をくぐり、江戸川の土手を南へ向かう。

 スカイツリーがすっかり遠くなった。

 そこから半里ほど行くと、堤の西側に、「江戸道」と彫り付けてある石が建っている。ここから江戸の方に堤を下ること二、三丁で、道の南側に帝釈天がある。

 矢切の渡し。ほぼ観光用だが、こうした渡し場の風景は現代では貴重である。

 ここで土手を下る。嘉陵によれば「江戸道」の道標があったというが、見当たらず。西へ行くと新宿へ出られる。

 その江戸道の南側に映画『男はつらいよ』でおなじみの柴又帝釈天がある。

 道の南側に帝釈天がある。経栄山題経寺という。堂の大きさは六間ほど、西に向いており、そばにも堂があり、日蓮を安置してある。帝釈天本体は、厨子の戸を建ててあるので見えない。前に別の一体があるのは、この宗門の徒が尊ぶ日蓮の直筆と言われている建幅である。上の方にさまざまな仏名を書き、下に鐘馗らしき姿が描かれている。世に日蓮帝釈天降魔の姿に化身した形を、自ら筆にしたものに基づいて造られた像が建っている。天明三年(一七八三)の道しるべの石などが見えることから、その頃から日蓮宗の徒はここに詣で始めたのであろう。

 寺の房に、子どもが本を読んでいる声がするので聞いていると、『大学』であった。ここら辺りの子どもらに主の僧が読み書きを教えているのであろう。今の世にあって、この宗門の僧には珍しいことである。

 寺中にもその周りにも別に見る所はない。

 

 柴又は古墳もある大変古い村落で、奈良時代の養老五(721)年に作成された戸籍「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記載された「嶋俣里」が柴又のことだと考えられている(「刀良(とら)」という男性と、「佐久良賣(さくらめ)」という女性の名が載っているそうだ)。

 日蓮宗の題経寺は寛永六(1629)年の開創と伝えられるが、墓域の内外からは中世の題目板碑が多数見つかっており、それ以前から日蓮宗の仏庵のようなものはあったとも考えられている。古来、日蓮自刻という帝釈天像の板木(板本尊)が伝わっていたが、一時所在不明となり、安永八(1779)年、本堂改築に際して梁の上から発見され、それが庚申の日であったことから、庚申の日が縁日となり、「柴又の帝釈天」として江戸や近郷から多くの参詣者を集めるようになったという。とはいえ、現代ほどの賑わいはなかったのだろう。

 嘉陵はここから新宿へ出て、山王権現の祭礼を見物し、また新宿の渡しで中川を越え、亀有から引き舟で四ツ木で出て、渋江村の西光寺に立ち寄った後、同じ渋江村にある客人(まろうど)大権現(四つ木2-18,現・白髭神社)にも立ち寄っている。江戸の花柳界に信者が多く、特に文化文政の頃は参詣者が絶えなかったという。

 客人の神は、もとは越の白山から比叡の山に飛び移ったことから、まろうどの大明神と称していたのであるが、権現と唱えているとはどういうことであろうか。我が先祖が代々住んでいた本国周防の岩国関戸の村の鎮守がこの御神なので、よその神という感じなく拝むことができる。ここからもとの用水の橋を渡って、今朝来た道を帰る。五つ(午後8時)の鐘が打つ頃に、家に帰り着く。(阿部孝嗣訳)

 

 僕は柴又から電車で帰った。嘉陵には及ばないが、よく歩いた。