八王子城跡探訪(1)

 高尾山の北方にある戦国時代の山城、八王子城の趾を訪ねる。小田原を拠点に関東一円を支配した北条氏の4代目当主、北条氏政の弟、氏照が築いた城である。

 高尾駅からバスがあるが、歩いても大したことはないだろう、と駅から歩く。

 高尾駅京王線ホームから見た八王子城山(別名・深沢山、標高446m)。

 駅前から甲州街道を突っ切り、高尾街道を北へ行く。南浅川を渡り、すぐに丘陵地への上りとなる。このあたりは八王子市廿里町で、廿里は「とどり」と読む。かなりの難読地名だろう。昔は十々里、戸取などとも書いたようだけれど。そして、この一帯が永禄十二(1569)年、武田信玄の軍勢と当時、滝山城を拠点としていた北条氏照の軍勢が戦い、北条軍が敗北を喫した廿里古戦場である。当時、北条方では武田軍は当時のメインルートであった檜原経由で攻めてくるものと想定していたが、武田勢のうち小山田信茂の率いる部隊がそれより南の小仏峠を越えて攻め込んできたのだった。この想定外の攻撃に対して、急遽、北条軍は廿里で迎え撃つことになったわけだが、鉄砲で優位に立つ武田軍に撃破され、滝山城が落城寸前まで追い詰められてしまう。武田方が途中で退いて、小田原攻撃に向かったため、辛うじて落城は免れたものの、氏照は滝山城のもつ弱点を悟り、新たに八王子城の築城を構想したという。ただ、その後、武田とは和平が成立しており、八王子城の築城が本格化したのは天下統一をめざす豊臣秀吉軍の鉾先がいよいよ関東に向けられてからだった。

 左手に森林総合研究所多摩森林科学園、右に大正天皇昭和天皇とそれぞれの皇后の陵墓がある武蔵野御陵の鬱蒼とした森を見ながら、山を越え、城山大橋で高尾街道から左に分かれて美山通りに入る。この付近には大きな霊園が多く、石材店や花屋が目につく。

 中央自動車道の高架をくぐると、「八王子城跡入口」の信号で、ここを左折。あとは一本道だ。

 まもなく宗関寺。平安時代に創建された牛頭山神護寺を前身とし、北条氏照が再興したという曹洞宗の禅寺である。八王子城の落城の際に焼失したが、氏照が帰依した高僧で百二十歳まで生きた随翁舜悦禅師が再建し、氏照の法名から宗関寺と寺号が改められている。ただし、往時は今よりも北西の谷奥に位置し、現在地に移転したのは明治二十五年のことだという。

 左右に低い山並みが続く明るい道を行く。ここからはもう城下町の根小屋地区で、すでに国の史跡「八王子城跡」の一部である。ガビチョウやウグイスのさえずりに交じって、ホトトギスの声が聞こえる。

 「イノシシ危険・注意」などという物騒な看板もある。

 「北条氏照及び家臣墓」という案内に従って脇道に逸れる。天正十八(1590)年、豊臣秀吉の天下統一に最後まで抵抗した北条氏に対し、豊臣軍が総攻撃を仕掛け、激戦の末に八王子城は陥落し、当時、城を留守にして小田原城にいた氏照は兄・氏政とともに降伏。秀吉に切腹を命じられた。氏照の墓は小田原市内にあるが、ここには氏照の百回忌を機に建てられた供養塔があるという。徒歩3分というからすぐかと思ったら、最後に長い石段が現れた。

 百六十余段の石段を登った先に墓地はあった。「青霄院殿透岳宗関大居士」「天正十八庚寅年七月十一日」と刻まれた中央の大きな石塔が北条氏照の供養塔だ。

 氏照の供養塔の背後にも傾いたり倒れたり壊れたりした石碑や石塔、石仏があり、これは八王子城で討死した家臣団の墓だという。

 ここは宗関寺の観音堂跡であり、寺はもともとすぐ下の谷合にあったという。

 秀吉による天下統一を目前にして事実上、最後の戦いとなった八王子城の攻防戦は両軍に多大な犠牲者を出した悲惨な戦いであった。 

 さて、城への道に戻って、八王子城跡のガイダンス施設で八王子城や北条氏に関する解説をひと通り眺め、パンフレットをもらって、いよいよ八王子城へ。ここから山登りだ。

 登山道の入口にいきなり「ツキノワグマに注意」の文字。この付近でクマの目撃情報があったそうだ。僕以外にも登山者はいるから大丈夫だろうとは思うが。

 すぐに新道と旧道に分かれるが、とりあえず旧道に入る。そちらからキビタキの声が聞こえたので。

 八王子城は険阻な城塞であったから、登山道もそれなりにハードだった。高尾山ほど観光地化されておらず、登山者も少ないので、本当にクマが出たらどうしようか、と少しドキドキしながら歩く。実際にはキビタキヤブサメの声を聞いたほかはトカゲが一匹いただけだった。テンらしき動物の糞はいくつか見た。ほかに陰気なヒカゲチョウの仲間など。

 谷の斜面をしばらく登ると、柵門跡という尾根上の平坦地に出て、ここで尾根筋をきた新道と合流。八合目の標識がある。

 さらに登ると、九合目を過ぎて、八王子市街、さらに都心方面の風景が広がった。

 天正十八年六月二十三日の決戦を前に、城兵たちは攻め寄せる敵勢をここから見下ろし、決死の覚悟を固めたのかもしれない。八王子城を攻めた豊臣方の兵は前田利家上杉景勝の連合軍で、すでに降伏した北関東の北条勢も加わっていたという。いま歩いている道でもすさまじい戦いが繰り広げられ、多くの血が流れたのだろう。城主不在の中、家臣たちは奮戦したが、城は一日で陥落し、炎上している。八王子城はそれ以来、四百年近い間、ほとんど手つかずの状態で放置されたので、戦国時代の城の遺構がそのまま保存されることになったのだ。

 スイカズラがひっそりと咲いていた。

 まもなく山頂が近くなって、石段を登ると八王子神社牛頭天王とその眷属神である八人の王子を平安時代の延喜十六(916)年に華厳菩薩妙行が祀り、それを北条氏照が城の守護神としたもので、八王子の地名の由来となったという。

 八王子神社の隣にある祠は横地社。氏照の重臣八王子城代を任された横地監物吉信は城が落ちると、檜原村から奥多摩へ落ち延びて、北条の再興を図ったが果たせずに自決し、それを村人たちが祀ったもの。小河内村にあったが、小河内ダムの造成で湖底に沈むこととなり、ここへ遷されたのだそうだ。

 八王子神社の裏手に登ると、そこが山頂の本丸跡。周囲を急な崖に囲まれたほぼ円形の狭い土地で、本丸といっても大きな建物はなかったと考えられている。今は祠と石碑があるのみ。クロアゲハがひらひらと舞っていた。

 つづく