ひたちなか海浜鉄道の旅(その4)

 8月6日に茨城県のローカル線、ひたちなか海浜鉄道沿線を旅した話の続き。

 那珂湊おさかな市場で昼食をとり、那珂湊駅に戻る。

 110年前の大正2(1913)年に湊鉄道の駅として開業して以来の木造駅舎が修繕を重ねながら今も残り、ちゃんと駅員もいて、古き良き時代の鉄道駅の雰囲気が保たれている。待合室では弾き語りのコンサートが開かれていて、「22才の別れ」を当時まさにその世代であったであろう男女デュオがギターを弾きながら歌っていた。

 昔懐かしい国鉄気動車がいる構内。

 14時11分発の勝田行きに乗車。発車してすぐ、車窓にちらりと日本初のステンレス製気動車ケハ601が見えた。

 このまま帰ってもよかったが、もうひとつ見てみたい場所があり、二つ目の中根駅で下車。この駅には去年も降りた。

 蝉時雨の駅。いい雲が湧いている。ホームの花壇は地元の人たちにより手入れされているようだ。

 去年、この駅で印象に残った花。ハイビスカスに似た花で、帰宅後に調べて、モミジアオイという名前だと知った。

 さて、この駅で降りた目的。この駅名標にヒントがある。古墳である。虎塚古墳。東日本では珍しい彩色壁画のある古墳だという。去年も行ってみようかと思ったが、遠いので、やめたのだった。

 駅から1,930メートル。歩いて20分以上はかかるかな。遠いし、暑いし、どうしようか、と思ったが、とりあえず行ってみることにした。ついでに2,250メートル先の「十五郎穴」とやらも見てこよう。

 それにしても、ひたちなか市駅名標も案内標識も文字のデザインが斬新で、「虎」とか「墳」とか元の漢字からずいぶんかけ離れている。中根の「根」と古墳の「墳」のつくりの部分が全然違うのに同じデザインだ。「古墳」は雰囲気で読めるが、木へんに古墳の形で「根」と読めるかどうかは微妙かも。

 とにかく、道しるべの矢印に従って北へ向かって歩き出す。緑の田圃を風が走り、青空には雲が湧き立ち、ほれぼれするような風景。サングラスのおかげで白い光がカットされて、実際の風景以上に色鮮やかに見える。


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 セッカの声がする田圃を突っ切り、台地への坂を上ると、さつまいも畑が広がる。

 庚申塔馬頭観音

 1キロほど歩いて右折。さらに数百メートル歩いて右折すると、やがて駐車場があり、左側に埋蔵文化財調査センターの建物があり、駐車場の奥のウグイスとヒグラシが鳴く林を抜けると草地に小高い丘があった。それが虎塚古墳。国指定史跡の前方後円墳である。

 ひたちなか市教育委員会が立てた説明板。

虎塚古墳は、大字中根指渋(さしぶ)に位置し、本郷川右岸台地上に築かれています。全長56.5メートルの前方後円墳で、後円部は直径32.5メートル、高さ5.7メートルで前方部は幅38.5メートル、高さ5.2メートルを測ります。前方部が発達した後期古墳の特徴を持っています 

 昭和48年(1973)の発掘調査により、後円部南側に凝灰岩製の横穴式石室が発見され、石室内には、東日本でも珍しい保存状態が良好な彩色壁画が見られました。壁画は、凝灰岩の表面に白色粘土を塗り、ベンガラ(酸化第二鉄)で連続三角文や環状文などの幾何学文と靭(ゆぎ=弓矢を斬れて背負ったかご)・槍・楯・太刀などの当時の武器や馬具・装身具などの文様が描かれています。天井や床面も赤く彩色されています。

 石室の内部からは、成人男子一体の遺骸と、黒漆塗太刀・刀子(小刀)・鉄鏃(鉄の矢じり)などが出土しました。墳丘の特徴や出土異物から7世紀前半頃に造られたと考えられます。

 また、本古墳は、石室内調査に先立って、石室内の科学調査(温・湿度、空気組織、微生物等)を日本で最初に実施した古墳であり、公開保存にあたっては、これらの重要な記録をもとに施設の設計・施工がなされ、昭和55年(1980)に完成しました。

 春と秋には壁画の一般公開が行われています。

 前方部は墳丘に道がついているが、後円部は史跡保護のため立ち入り禁止で、木も生えていない。

 春と秋に一般公開される石室の入口。 

 解説板にあった石室内の写真。

 埋蔵文化財調査センターに展示された石室のレプリカ。

 墳丘北側。周溝部が散策路になっている。

 十五郎穴にも行ってみた。薄暗い林(サングラスのせいでもある)を通り抜け、クモの巣に顔を突っ込んだりしながら進むと、台地の端の崖にいくつもの横穴が口を開けていた。

 十五郎穴横穴墓群は奈良時代に造られたもので、凝灰岩の崖に掘られた横穴墓は玄室、玄門、羨道、前庭部からなる古墳の横穴式石室と似た構造になっているという。この一帯には群集墳がいくつかに分かれて分布し、十五郎穴横穴墓群全体では数百基が存在すると考えられている。また、横穴墓からは須恵器、直刀、装飾品など多数の副葬品が出土し、ここ館出(たてだし)地区にある横穴墓34基が茨城県の史跡に指定されている。

 なお、十五郎穴という名称は鎌倉時代の仇討ちで有名な曽我兄弟の十郎、五郎が隠れ住んだという伝説にちなむという。

 この凝灰岩はこの地がまだ海の底だった時代、海底噴火で噴出した火山灰や火山礫などが海の底に堆積してできたもので、平磯の白亜紀層よりはずっと新しい新生代の地層で、阿字ヶ浦層と呼ばれる。虎塚古墳の石室に利用された凝灰岩も同じものである。

 虎塚古墳、十五郎穴を見て、埋蔵文化財調査センターの展示室(入館無料)も見学。というより、冷房で涼む。女性職員に「外は暑いんですか?」と聞かれた。クルマ通勤で、一日中、冷房の効いた館内にいると、暑さ知らずなのかもしれない。

 埋蔵文化財調査センターの虎塚古墳石室のレプリカ。

 このような壁画がある装飾古墳は全国に600基ほどあるそうだが、その大半は熊本県や福岡県で見つかっている。茨城県内にもいくつかあるそうだ。古墳の壁画で有名なのは高松塚古墳キトラ古墳だが、虎塚古墳は九州北部との共通点があるといい、九州から海路でやってきた人々がいたのではないか、という説もある。酒列磯前神社の祭神が海から渡来したとの伝承と符合すると言えなくもない。

(虎塚壁画擬人化キャラクター虎塚ちゃん。こういう発想は日本ならでは、という気がする)

 ひたちなか市・鉾の宮古墳群2号墳出土の埴輪。虎塚古墳では埴輪は見つかっていない。埴輪の代わりとして壁画が描かれたのだろう。

 

 さて、再び中根駅まで2キロ近く歩く。

 往路に気になった巨石。調査センターの展示で、虎塚古墳群第4号墳といい、墳丘の盛り土が失われ、石室だけが露出したものだと分かった。これも凝灰岩。

 台地の端まで来て、眼下に田んぼが広がる。ツクツクボウシが鳴いている。

 阿字ヶ浦行きの列車が来た。

 中根駅近くまで戻ったところで、目の前を何か咥えたイタチが横切る。
 さて、帰るか。

 16時18分発の列車で勝田に戻り、常磐線で帰る。

 常磐線の車窓から眺めた日没。利根川を渡って、千葉県内に入ると、ホームに水たまりができていて、局地的に夕立があったらしかった。

 20時20分頃、帰宅。30,992歩も歩いてしまった。