宮沢賢治記念館

 旅の最終日は薄曇り。
 朝食後、散歩がてら志戸平温泉まで2キロほど歩き、ついでにそこで露天風呂にもつかって、9時半のバスで花巻駅へ。
 花巻からは10時12分発の釜石線に乗り、2つ目の新花巻下車。新幹線との接続駅であるが、花巻市街から離れているので、周辺には何もない。整備された道路の両側には枯れススキが揺れている。

 閑散とした駅前広場には宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の碑があり、近づくとチェロが奏でるトロイメライのメロディが流れ出した。

 さて、めざす「宮沢賢治記念館」は胡四王山という山の上にあるらしい。普通の人はバスかタクシーを利用するようだが、僕は歩いていこう。せいぜい2キロ程度であるから大したことはない。
 案内地図に従って釜石線の踏切を渡り、緩やかな坂道を登っていく。周囲は冬枯れの田園。雪は日陰にわずかに残るばかり。黒々とした杉木立に囲まれた農家が点在して、静かな農村の風情を今に伝えている。

 しばらく歩くと、道端に背の高い道標が立っていた。てっぺんに麦わら帽子のかかった支柱に赤、青、橙のプレートが下がり、それぞれが「宮沢賢治記念館」や「イギリス海岸」や「羅須地人協会」の方角を指している。

 記念館の方向を示す青い標識に従って雑木林の間の急な坂道を登っていくと、途中に小さな蒸気機関車があった。銀河鉄道をイメージしたものだろう。運転席には路面凍結時の滑り止め用の砂と融雪剤が入っていて、「御自由に使用してください。花巻市土木課」と書いてある。役所が先頭に立って宮沢賢治の作品世界を演出しているようだ。

 さて、宮沢賢治記念館である。瀟洒な建物で、なかなか広い。客も適度に入っている。展示室に入ると、すぐに大きなガラス板に描かれたイーハトヴ=岩手県の地図。「イーハトヴ」とは宮沢賢治岩手県の実在の山や川や森や野原をイメージの源泉として心の中に思い描いたドリームランドのことである。その岩手県地図にはイーハトヴのさまざまな地名が書き込まれている。今回は時間がないけれど、いつかイーハトヴの旅をしてみたいと思う。
 それにしても、ここの展示物の多彩さとその充実ぶりは大したものである。賢治の生涯を写真、その他の資料で辿るコーナーや文具などの遺品、自筆原稿…とここまでなら、そこらの文学館と同じだけれど、それだけにはとどまらない。元来、宮沢賢治は童話や詩のほかにも教育、農業、宗教、天文、化学などさまざまな分野に幅広い関心を寄せ、実践的活動に力を注いだ人である。そうした賢治の全体像に迫るため、ビデオやスライドなどの視聴覚資料も駆使した多角的な展示がなされている。鉱物標本や神秘的な化学実験ビデオ、美しい星空を映し出す「大銀河系図ドーム」、童話の幻燈、愛用のチェロや顕微鏡、花壇の設計図などなど…。とにかくいろいろあって、宮沢賢治という不思議な人物の多面的な魅力を再認識させられた。いずれもじっくり時間をかけて見る価値が十分にある。いつかまた来よう。

注文の多い料理店・山猫軒)
 記念館を出て、眼下に北上川花巻市街を見渡し、古い腕木信号機や文学碑の散在する林の中の小道をめぐり、賢治設計の日時計と花壇を回った後、敷地内にあるとんがり屋根のレストランへ。「注文の多い料理店・山猫軒」の看板が出ている。
 玄関には金文字で「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」と書いてある。中へ入ると「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」とある。さらに奥へ進むと「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」と断り書きがあって、「ここで髪をきちんとして、それから履き物の泥を落としてください」だの「壺の中のクリームを顔や手足にすっかり塗ってください」だの「あなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください」だのと次々注文がある。そして、一番奥の部屋では巨大な山猫の親方がナイフを持って舌舐めずりして待ち構えていた。もちろん嘘である。でも、途中までは本当だったような気もする。

 さて、あとは帰るだけだ。再び新花巻駅まで歩いて戻り、14時12分発の列車で花巻へ。ホームで乗り換えの東北線一ノ関行きを待っていると、ちらちらと牡丹雪が落ちてきた。
 花巻を14時40分に出た列車は雪の中、北上川に沿って南へ下り、15時36分に一ノ関着。
 ここからは新幹線で帰る。今度の東京行きは15時48分発の「やまびこ48号」。これに乗れば東京までわずか2時間44分である。速すぎるのではないか。東北地方は何度も旅しているが、在来線にばかり乗っていたので、僕の感覚では一ノ関・東京間は6、7時間はかかることになっている。
 ほぼ満席の列車は凄まじいスピードで狂ったように突っ走る。東北線の風景というのは平凡な中に素朴な味わいがあって、そこが魅力なのだが、まるで好きな映画を早送りで見せられているようである。もっとも、一般の人には新幹線こそノーマルで、在来線に乗るとビデオの遅回しに見えるのかもしれないけれど…。
 雪は南へ行くほど激しくなり、仙台は真っ白に雪化粧していた。東京は雨だろうか。この旅ももうすぐ終わる。