10月31日(土)に奥多摩むかし道を歩いた話の続き。
昔、街道を行く馬方衆が馬に水を飲ませ、カイバを与えて、自分たちも茶店で一服した立て場の跡を過ぎて、さらに行くと路傍に牛頭(ごず)観音というのがあった。馬頭観音はこれまでにもたくさん見てきたが、牛頭は初めてだ。
荷物を運ぶのに馬だけでなく、少数ながら牛も使役されていたことから、その息災を祈願して牛頭観音が造立されたということのようだ。確かによく見ると観音様の頭に牛頭がのっている。
続いて、むし歯地蔵尊。次から次へといろいろ出てくるものだ。
少し開けたところに出て、休憩用のテーブルとベンチもあったので、少し休みたいところだが、先客がいたので、休憩できず。
そこに川合玉堂の歌碑があった。
「山の上のはなれ小むらの名を聞かむやがてわが世をここにへぬべく」
川合玉堂(1873-1957)は僕の好きな画家のひとりだが、奥多摩の自然を愛し、晩年は奥多摩で過ごした人である。この歌は玉堂が29歳の時に小河内に写生に出かけた際に詠んだものだという。
「人里離れた山の上で息をひそめるように生活しているあの集落は、何というところだろう。私もいつか、きっと、あのような場所で余生を送りたいものだ」といった意味らしい。
玉堂の作品には日本の美しい自然とその中でつつましく生きる人々を描いたものが多いが、馬子に引かれ背に荷を積んで細々と続く山路をたどる馬の姿もしばしば登場する。たとえば、「峰の夕」や「山雨一過」などが思い浮かぶ。
「峰の夕」は甲州御坂峠の夕景を描いたものと言われるが、この奥多摩むかし道を歩いていても、玉堂の描いた風景を思わせる場所は随所にある。とにかく、この道を敬愛する川合玉堂も歩いたのだと思うと、深い感慨を覚える。
急斜面を耕して、ささやかな畑が作られている。時代は変わっても、奥多摩の山村の暮らしは今でもつつましいものに感じられる。
民家の軒先に・・・。
また吊り橋があった。道所橋。先ほどの「しだくら橋」よりはしっかりしているようだが、やはり一度に3人以上で渡るな、と書いてある。
やがて、簡易トイレのある休憩所があり、その先にダム関連施設のゲートがあって、立ち入り禁止となっており、そこでスイッチバックみたいに折り返し、坂を登っていく。
恐らく、古道はこのまま谷沿いに直進していたはずだが、小河内ダムの建設により、行く手を巨大なダムサイトで遮られ、その先は小河内村などとともに湖底に沈んでしまったのだ。
この道路をまっすぐ行けば青梅街道に出るが、その途中で再びスイッチバックして、登山道に入る。奥多摩湖まであと3キロである。時刻は12時24分。本当なら、そろそろお昼にしたいのだが、休憩所のベンチにはすべて先客がいて、休むことができない。リュックにはおにぎりがあと2個残っているが、食べるのは奥多摩湖に着いてからになりそうだ。
いきなり山道になった。
どんどん登っていくと、陽あたりのよい山上の集落に出た。中山集落というそうだ。歌碑にあった玉堂の歌は「奥多摩中山郷付近」で詠んだということなので、まさにこの場所だ。本当に人里離れた山の上にある。
民家の庭先を進む。
ここでジョウビタキとモズの声を聞く。
まもなく浅間神社がある。そして、そのあたりからついに小河内ダムと奥多摩湖とが眼下に見え始める。
道はさらに登っていく。かなり険しい山道だ。エナガの声が聞こえる。
カモシカやシカ、サルなど何か動物が出てこないかな、と思うが、気配はない。でも、いろいろいることは間違いないのだ。ビジターセンターで得た知識によると、奥多摩では44種類の哺乳類が生息しているという。
いったん下って、滝のり沢。
沢を過ぎると、また登り。そして、青目不動尊の前に出るが、門が閉ざされており、迂回路を行く。
ちなみに青目不動尊は昔、修験法印の奥平家で一堂に不動明王、薬師如来、弘法大師の尊像を祀り、その霊験のあらたかさにより、近郷の人々の信仰を集めていたのだそうだ。不動明王は目が青いのだろうか。
ここからは奥多摩湖へ向かって下るだけだ。あと1.3キロの標識がある。
傾斜地にジグザグにつけられた道をぐんぐん下っていく。
水根沢。
二宮金次郎も座って休む急勾配。
そして、ついに奥多摩湖に到着。時刻は13時半。標高は530メートルである。
まず「奥多摩水と緑のふれあい館」(水道局のPR施設)をざっと見学し、それからダムサイトへ。
眼下に見える道が「むかし道」の名残だろうか。
ダムは高さが149メートル、長さが353メートル。有効貯水量は1億8540万立法メートル。東京都民の水がめとして重要な役割を果たし、ダム直下の多摩川第一発電所の水力発電にも使用されている。
そもそも小河内ダムは大正時代から計画され、昭和13年に着工。戦時中に工事が中断し、昭和23年に工事再開。昭和32年11月26日に完成。水没地域の移転住民945世帯、工事による殉職者87名を出した末の完成だった。瓜生卓造『奥多摩町異聞』(1982年)には小河内ダムの工事に携わった人たちの生々しい証言が多く記録されているが、想像を絶する過酷な現場だったようで、死亡事故も悲惨なものが多かったらしい。なかには膨大なコンクリートを流し込む際に逃げ遅れて、埋まってしまった人もいたそうで、助けようがなかったというから、今もそのままなのかもしれない。犠牲者の数も公式には87名となっているが、実際にはそれよりもはるかに多かったという。小河内ダムに限らず、全国各地の土木工事現場で似たような話があるのだろう。
さて、園地でおにぎりを食べた後、奥多摩湖畔の道を散策。ジョウビタキ♂の姿を確認。ほかにハクセキレイ。
あとで知ったことだが、今年の8月4日、5日にダム周辺でツキノワグマが出没したそうだ。今日はたまたま動物には出会わなかったが、クマも含めて、どこで遭遇しても不思議ではないのだろう。
中学1年の時の遠足で奥多摩湖に来て、確かこの辺でクラス写真を撮ったはず。
15時の奥多摩駅行きのバス(混雑していた)で帰る。駅まで360円、あっというまだった。