大山(その4)~日向の里

 11月3日に神奈川県の大山に登った話の続き。

 大山の東麓の日向(ひなた)に下ってきたのが12時半。朝からずいぶん山の中を歩いた気がするが、まだ昼を過ぎたばかりか、と思う。

 案内板をみると、有名な日向薬師のほかにも見どころがありそうなので、のんびりと散策しよう。

f:id:peepooblue:20211105230514j:plain

 舗装された道を歩いていると、林の中に古い道標を発見。日向から大山へ登る古道沿いにあったのだろう。

f:id:peepooblue:20211106173210j:plain

 日向渓谷と呼ばれる渓流沿いの道を下っていくと、すぐに「浄発願寺奥の院」というのがある。

 無常山浄発願寺は尾張国出身で、穀物を断ち、草や木の実を食しながら遊行する木食僧の弾誓上人が慶長13(1608)年に開いた天台宗寺院。弾誓上人は徳川家康の帰依を受け、幕府から16万5千坪の山林を寺領として寄進され、また尾張徳川家や藤堂氏、佐竹氏、黒田氏などの大名の尊崇も集めたという。

 さらに四世空誉上人の時代に罪人53名を幕府より乞い受けて改心させ、寺領の開拓や諸堂の建築などを行い、罪滅ぼしのために一人一段ずつ石段を築かせたと伝わる。それ以来、浄発願寺は罪人の駆け込み寺としても知られ、殺人や放火などの凶悪犯以外の罪人が寺に逃げ込めば罪が許されるということが公にも認められたそうだ。

 そのような歴史を持つ浄発願寺だが、昭和13年秋の台風により山津波が発生して、本堂をはじめ諸堂が泥流にのみ込まれ、壊滅的な被害を受ける。そして、昭和17年に日向川の1キロ余り下流の地に再建されたとのこと。

 いま僕がいるのは旧境内の跡地の前であり、日向川に橋が架かっているが、対岸の山の奥に弾誓上人が修行した岩屋があり、「奥の院」と称している。そこへは罪人たちが築いた53段の石段が通じているという。また、岩屋の内部には諸大名家の女性たちの墓石や石仏、仏塔などがあるという。

 行ってみようかとも思ったが、山を下ってきたばかりで、また山に登る気にはならず、ここはパスした。

 下るにつれて、食事や入浴ができたり、マス釣りやバーベキューが楽しめる施設などがあり、登山客とは違う観光客が増えてきて、行楽のクルマも多くなってきた。バイクや自転車ツーリングの人もいる。

f:id:peepooblue:20211106213406j:plain

 そして、まもなく左手に石雲寺がある。山号は雨降山(うこうざん)。雨降山とは言うまでもなく大山のことである。ここには立ち寄ってみた。

f:id:peepooblue:20211106211844j:plain

 このお寺の歴史は大変古く、寺伝によれば、奈良時代の養老2(718)年に華厳妙瑞法師により大友皇子の菩提を弔うために創建されたという。大友皇子天智天皇の子で、壬申の乱(672年)で天智の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)に敗れた人物である。その大友皇子が東国へ逃げ延びて、この地で没したという伝承があるらしい。近くには大友皇子の墓もあるという。

 なお、華厳宗寺院として開かれた石雲寺は長禄年間(1457-60)に中興開山の天渓宗恩和尚により曹洞宗に改められている。

f:id:peepooblue:20211106212250j:plain

 境内には石造りの五層塔がある。「日向渕ノ上石造五層塔」として伊勢原市有形文化財に指定されているものであるが、これが通称「大友皇子の墓」だという。しかし、石塔そのものは鎌倉末~南北朝初期(14世紀前半)のもので、大友皇子との関連は一切不明だという。以前は寺から400メートル下流の御所の入橋を渡った日向川右岸にあったのを昨年、この場所に移設したそうだ。

f:id:peepooblue:20211106212928j:plain

f:id:peepooblue:20211106213310j:plain

f:id:peepooblue:20211106213550j:plain

 この石雲寺で、五層塔よりも興味を惹かれたのは石段を上がって、すぐ左手にあるお堂。扉が開かれており、中を覗くと円形の鏡が置かれ、仏堂ではなく、神様を祀ってあることが分かる。しかも、ご神体は石である。

f:id:peepooblue:20211106214146j:plain

 大山は遠い昔から祭祀の場であったと考えられ、神仏習合時代には「石尊大権現」と呼ばれ、そのご神体は山頂にある霊石だったという。この雨降山石雲寺もその石尊信仰と深い関係があるのだろう。

 調べてみると、この石尊宮はかつては日向川の対岸にあり、雨乞いの信仰があったという。

 

 石雲寺をあとにさらに下る。山からエナガの声が聞こえてくる。

f:id:peepooblue:20211106220013j:plain

 「大友皇子の墓」への入口を過ぎて、まもなく浄発願寺。三重塔があるが、これは2000年11月に落慶法要が行われたというまだ新しい建築だ。

f:id:peepooblue:20211106220628j:plain

 境内には延命子易地蔵菩薩像があり、これは宝暦5(1755)年に造立されたもの。

f:id:peepooblue:20211106220702j:plain

f:id:peepooblue:20211106220748j:plain

 さらに里山の風景を楽しみながら歩く。こんな掲示があった。猿、出てこないかな。

f:id:peepooblue:20211106221040j:plain

 こんな道路標識もあった。

f:id:peepooblue:20211106221314j:plain

 このシカの標識のところで、左に入る道があり、そちらへ行けば今日の最終目的地の日向薬師まで15分とあった。

f:id:peepooblue:20211106221708j:plain

 大山山頂をあとにしたのが10時20分、現在の時刻が13時10分。気分的にはもう夕方が近いように感じるのだが、まだ1時過ぎだ。

 里山の風景をあとに林道は山の中へと入っていく。

f:id:peepooblue:20211106222357j:plain

 登っていくと、こんな標識もあった。この写真の中にある生き物が写っているのだが、分かるでしょうか?

f:id:peepooblue:20211106222453j:plain

 ヤマカガシ。

f:id:peepooblue:20211106222739j:plain

 すぐそばではジムグリが車に轢かれていた。

 日向薬師の裏手の駐車場に出て、お寺には裏口から入ることになった。時刻は13時21分。

 拝観する前に無料休憩所があったので、そこでようやく昼食タイム。伊勢原駅のコンビニで買ったおにぎりを食べていたら、向かい側の売店のおじさんが温かいお茶を持ってきてくれた。椎茸茶だそうだ。紙コップを戻すついでに大福を購入。

 ところで、日向薬師は日本三薬師の一つに数えられ、寺伝によれば、霊亀2(716)年、行基により開かれたという。日向山霊山寺といい、薬師如来霊場として信仰を集め、鎌倉時代には源頼朝北条政子もたびたび参詣している。最盛期には多くの僧房を有する大寺院だったが、明治の廃仏毀釈で破壊され、唯一残ったのが現存する宝城坊だという。一般には日向薬師と呼ばれ、本尊である平安時代のノミの彫り跡が残る鉈彫りの薬師三尊が知られている。僕も一度上野の国立博物館で展示されているのを見たことがある。

 本堂より先に宝殿(収蔵庫)の前に出たが、まずは本堂(薬師堂)を拝観。立派な茅葺の建物である。近年、大修理を終えたばかりだそうだ。

f:id:peepooblue:20211106225250j:plain

f:id:peepooblue:20211106232759j:plain

 堂内にも入ることができて、薬師如来十二神将、千手観音、行基菩薩、弘法大師役行者などを拝み、御朱印もいただいた。

f:id:peepooblue:20211106225741j:plain

 それから拝観料300円を払って宝殿へ。入ると、右手に薬師三尊、左手に阿弥陀如来。どちらも大きな像である。ただ、本堂の薬師如来も、ここの薬師如来も鉈彫りではない。博物館で見た鉈彫りの薬師三尊像は正面中央の大きな厨子の中に納められているようで、扉は閉じられていた。

 鉈彫りと呼ばれる、あえてノミ目を残す仏像は東日本だけにみられるもので、素朴な表現形式と思われがちだが、展覧会の時に霊木から仏が姿を現す様子を表現したものという解釈に接し、妙に納得したのを覚えている。

 厨子の両側には四天王、さらに顔に鮮やかな赤や青、緑などの彩色を残す十二神将がずらりと並び、ホレボレする。ずっと見ていられる。これらの仏像はいずれも鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されている。廃仏毀釈の嵐の中で、よくぞ残ったと思うが、失われてしまったものもあるのかもしれない。

 日向薬師の公式ホームページのギャラリーで、これらの仏像の写真が見られる。

hinatayakushi.com


 境内にそびえる「幡かけの杉」。推定樹齢800年。鎌倉公方足利基氏足利尊氏の子)が平和と幸福、五穀豊穣を祈願して幡を掛けたと伝えられる。その幡は宝殿に保存されている。

f:id:peepooblue:20211106233122j:plain

 寺をあとに参道を歩く。本当ならこの参道を通ってお参りしたかったが、これがまたいい感じの道である。

 途中から本堂の方を振り返る。

f:id:peepooblue:20211106233824j:plain

 あたりではヒヨドリのほか、ガビチョウがさえずっている。

f:id:peepooblue:20211106233856j:plain

 露出した岩には大山の牡丹岩をさらに大きくしたものがあった。

f:id:peepooblue:20211106234051j:plain

 仁王門。

f:id:peepooblue:20211106234142j:plain

 石段を下ったところに「衣裳場」の説明板がある。これで「いしば」と読み、頼朝が参詣した際に旅装から白装束に着替えた場所だという。

f:id:peepooblue:20211106234244j:plain

f:id:peepooblue:20211106234531j:plain

 バス通りに出る寸前で、30分に1本のバスが発車していった。次のバスは15時05分。

 でも、バスに乗り遅れたおかげで、いろいろなものを見ることができた。

 モズ。

f:id:peepooblue:20211106234743j:plain

 白髭神社熊野権現を合祀している。

f:id:peepooblue:20211106235126j:plain

 白髭神社の祭神は高麗王若光。唐と新羅に滅ぼされた高句麗の王族で、日本に亡命し、大磯に上陸したという。大磯には高来神社(高麗神社)があり、大磯町と平塚市の境には高麗山があり、伊勢原市の隣には渡来系の秦氏が開拓したという秦野市がある。

 若光たちはその後、武蔵国に土地を与えられ、彼らの居住地に高麗郡が置かれている。

 また、行基がこの地で薬師像を彫ろうとした際に熊野権現と白髭明神が現れ、霊木を与えたという伝説がある。

 

 白髭神社の西側の道が日向薬師への昔の参道だという。

f:id:peepooblue:20211107001426j:plain

 その入り口にある道標と庚申塔

f:id:peepooblue:20211107001511j:plain

f:id:peepooblue:20211107001543j:plain

 双体道祖神

f:id:peepooblue:20211107001622j:plain

 集落の中にもこの標識。

f:id:peepooblue:20211107001706j:plain

 そして、バス停前には・・・。

f:id:peepooblue:20211107001821j:plain

 15時05分のバスに乗り、伊勢原駅まで25分ほど。

 夕刻、地元から望む大山。

f:id:peepooblue:20211107001921j:plain