大山(後編)

 神奈川県の大山(標高1,252m)に登った話の後編。
 標高700メートルほどの場所にある阿夫利神社の下社にお参りしたところから。



 拝殿の地下に湧く御神水をペットボトルに汲んで、いよいよ山頂をめざして登り始める。山頂まで90分だそうだ。ただいま正午前。
 神仏習合だった江戸時代、この下社の場所に大山寺の不動堂があり、ここから「石尊大権現」と呼ばれたご神体の霊石が祀られた山頂までは禁域とされ、登拝門は固く閉ざされていた。門が開かれ、山頂の石尊に参拝できるのは旧暦6月27日から7月17日までの間に限られ、しかも女人禁制だった。この夏山の時期の大山は特に賑わったという。
 現在は女性も含め、通年、登ることができるが、登拝門の前にお祓い所があり、入山料100円を納めて、自分でお祓いをして、門をくぐることになっている。

 登拝門には「奉納 東京日本橋 お花講」と書かれている。江戸時代には日本橋界隈の職人たちが組織した「お花講」がこの門の鍵を預かっており、毎年6月27日に集団で大山に参詣し、登拝門の鍵を開ける夏山開きの儀式を行うのが習わしになっていたという。

 現在でも新暦7月27日から8月17日までを夏山の期間として、開山前日にお花講は先導師の宿坊に集合し、全員が白装束に身を固めて午前2時に宿を出発し、「散華、散華、六根清浄」などと唱えながら登頂し、山頂の阿夫利神社本社に参拝して下山後に夏山開きの儀式を執り行うそうだ。
 昔だったら、冬に大山山頂まで行くことは許されなかったわけだが、今は門が開いている。ただ、僕のほかに登ろうという人は見当たらない。
 門と鳥居をくぐると、いきなり急な石段。しかも、段が水平ではないところもあり、うっかりバランスを崩すと、そのまま転落しそうで、怖い。老朽化しているという手すりにつかまりながら、慎重に登る。
 石段を登り切り、少し行くと白山神社がある。といっても、説明板と「阿夫利大神」と彫られた石塔があるだけで、祠らしいものは見当たらない。昔、修験者(山伏)たちは修行の過程で白山神社を拝することになっており、大山寺が開かれるよりも前に白山神社が建立されたそうだ。

 この先、大小の岩や石を階段状に配した、急峻で足場の悪い登山道が続く。けっこうハードだ。修験の山なのだから、険しいのは当然か。なるべく段差が小さく登りやすいルートを探しながら、石や木の根につまずかないように注意しつつ登っていく。
 山頂までは28の区間に分けられており、一丁目、二丁目・・・と標柱があるので、これがいくらか励みになる。


 八丁目には二本の幹が並んで聳える「夫婦杉」。樹齢五、六百年という。

 時折、木々の合間から眺望が開け、江ノ島が見えたり、真鶴半島から伊豆半島初島などが望まれたりする。

(真鶴半島)
 シジュウカラヤマガラコゲラなどの声が聞こえたり、姿が見えたりするが、人の姿はまるで見当たらない。僕以外に誰もいないのか、と思ってしまうが、そんなはずはない。しばらくすると、ようやくひとり、おじさんが下ってきた。それから、少しずつ老若男女とすれ違うようになる。途中で休憩している人を追い抜いたりもする。でも、数は少なく、静かだ。
 十四丁目には「牡丹岩」。足元に球体の岩がいくつかあり、それが牡丹の花に見えることからの命名

 十四丁目ということはちょうど中間地点あたりか。
 続く十五丁目には「天狗の鼻突き岩」。岩に穴が開いており、それが天狗が鼻を突いて開けたものというわけだ。

 十六丁目には「十六丁目追分の碑」がある。ここで秦野市の蓑毛から登って来た道が合流する。高さ3.68メートルもある石標の正面には「奉献石尊大権現(大天狗・小天狗)御寶寺」と彫られ、右側には「是右富士浅間道」となっている。山頂から下ってきた人への道しるべで、蓑毛方面へ下れば、富士山へ行けることを意味する。富士山をご神体とする浅間神社の祭神は「木花開耶姫コノハナサクヤヒメ)」であり、それが大山の「大山祇神オオヤマツミ)」の娘であることから、大山の後に富士山へ登拝する人、富士登山の後に大山へも参詣する人が多かったのだ。

 この石碑は1716年に初めて建てられたといい、強力たちが麓から担ぎ上げたものだそうだ。
 この追分にはベンチもあり、ここでおにぎり休憩。伊勢原方面の見晴らしがよく、横浜の市街も見え、ランドマークタワーがハッキリとわかる。その向こうには東京湾アクアライン、さらに房総半島の工業地帯の煙突が望まれる。東京都心の高層ビル群も見えている。

(横浜方面)

(東京方面)

 二十丁目が富士見台。標高1,062メートル。西側の眺望が開ける富士山の展望地で、浮世絵にも描かれ、かつては茶屋があったという。でも、富士山は見えないことが多いそうだが、今日は見えた。山頂に雲がかかり、北風のせいで南へ棚引いている。富士山だけでなく、箱根から伊豆の山並み、伊豆半島方面の海岸線も見える。


 しばらく待てば、雲が切れて全容が現れるかな、と思ったが、なかなか雲が切れる気配がないので、また歩き出す。
 このコースの前半は杉などの針葉樹が多く、薄暗い森だったが、上に行くにつれて落葉樹が多くなり、すでに木々は葉を落としているので、明るい雰囲気になってきた。

 さらに登ると、格子状の階段を通る。グレーチング階段と呼ばれるもので、蹄のある動物は格子状の構造物の上を歩くことを嫌がるという習性を利用して、シカの山頂部への侵入を防ぎ、植生保護に役立てるそうだ。周辺には植生保護柵も張られて、シカだけでなく、人間が登山道からはずれて植物を踏み荒らすことも阻止できるようになっている。

 ヤビツ峠からの道と合流し、時折、富士山を左に見ながら登っていくと、まもなく鳥居が現れた。もうすぐだ。


 すぐにもう一つ鳥居があり、ついに山頂に到着。

 そこにあるのが阿夫利神社の前社で、祭神はタカオカミ。神仏習合時代には小天狗が祀られていた。

 その上には大山祇神を祀る本社。昔の石尊大権現だ。その脇に茶店があるが、閉まっていた。



(ご神木)
 振り向けば、ドーンと絶景が広がる。江ノ島がよく見え、三浦半島の反対側の東京湾まで見える。

 本社の上に奥の院があり、ここが本当の山頂である。標高1251.7メートルが正確な高さ。奥の院には大雷神(オオイカツチ)が祀られている。昔は大天狗。狛犬の台石に「石尊大権現、大天狗、小天狗」と彫られているのが神仏習合時代の名残だ。


 霜の下りた地面がまだ凍っていたり、解けてぐちゃぐちゃになっていたり。


 少し休憩して、下りにかかる。帰りは見晴台経由の別ルート。最初は尾根筋の明るく気持ちのよい道だった。

 実のなった木がたくさんあって、カラ類やエナガコゲラなどを見かける。
 やがて、また針葉樹や常緑広葉樹の森に入り、モミの木が目立つようになる。モミの赤ちゃんもあった。

 若木はネットで囲って、シカに食われないように守られていた。
 50分ほどで見晴台。東京方面の眺望が開けているが、もうこのぐらいでは感動しない。

(だいぶ下ってきた)

 江戸時代にはここから江戸の町はどんな風に見えたのだろう。江戸は何度も大火に見舞われているが、たまたま大山に出かけて留守をしている間に江戸で大火が発生し、燃える江戸の町を山上から目撃した、なんていう人もいたのかもしれない。そんなことを想像してみた。江戸の市内で大山講を組織したのは大工や鳶などの職人が特に多かったというが、彼らは町火消の役割も担っていた。




 見晴台から20分ほど下ると、「二重の滝」がある。しかし、水量はきわめて少なく、ちょろちょろと岩の間を水が流れている程度。

 二重の滝からは5分ほどで下社に帰り着いた。帰路は男坂を下るつもりだったが、まだシカがいるかもしれないと思い、再び女坂を下る。

(登山道から見たケーブルカー)
 同じ場所にシカが1頭いた。しかも、登山道のすぐ脇だ。近くを通ったら逃げるかな、と思ったが、逃げるそぶりは見せず、降り積もった落ち葉を掻きわけるようにして餌を探している。


 斜面の上にもう1頭出てきた。



 明らかにこちらを警戒しているようだが、それでも餌を探しながら、少しずつ斜面を下りてきた。

 そのまま大山ケーブル停留所まで下ると、ちょうど16時発のバスに間に合い、山を下ってきた。