大山(その1)

 神奈川県の大山へ登ってきた。もう何度も登っているが、今回は紅葉を期待して、混雑は覚悟の上で行ってきた。

 朝早くに張り切って出かけたのだが、地元の駅のポスターで大山の紅葉ライトアップ、11月20日~28日などと書いてあるではないか。まだ紅葉には早いということか。でも、大山は標高1252メートル。ケーブルカーで行ける標高700メートル付近の阿夫利神社周辺の紅葉はまだこれからかもしれないが、山頂はもう終わっているかもしれない。その中間のどこかで紅葉が楽しめるだろう。そう期待しよう。

 小田急の急行で伊勢原まで行き、駅前から7時05分発の大山ケーブル行きのバスに乗る。僕は何とか座れたが、通路までぎっしり人が立つほどの満員だった。終点の手前で降りるつもりだったが、通路の人をかき分けて降りるのも面倒なので、終点まで行く。終点の手前にはいくつか滝があり、昔の登山者はそこで禊をしてから登ったのだ。僕は滝に打たれるつもりはないが、そうした滝を観てから登りたかった。

 バスを降りると、すぐにジョウビタキの声。電線に止まっていたが、逆光でシルエットになり、オスかメスかの判別はできなかった。今回初めて気がついたのだが、ここからも相模湾が望まれ、正面に逆光に霞む江ノ島が見えているのだった。

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 ケーブルカーの乗り場へ続く「こま参道」を登っていく。昔から大山の土産物だった独楽を描いたタイルを埋め込んだ石段で、両側に宿坊や旅館、豆腐料理屋や土産物店などが並んでいるが、まだほとんど開いていない。ケーブルカーも9時が始発で、まだだいぶ時間があるので、同じバスで来た人たちはみんな歩いて登るようだ。

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 大山ケーブル駅を過ぎ、すぐに八意思兼(やつごころおもいかね)神社前で男坂と女坂に分かれる。女坂の方がたぶん面白いので、こちらを選ぶ。男坂には江戸時代まで仏堂や神社が立ち並び、女坂との再合流地点付近には仁王門があったそうだが、安政年間の大火で悉く焼失してしまったという。今は見どころは少ないらしい。

f:id:peepooblue:20211103203226j:plain(急な石段が続くらしい男坂

 前回はこのルートで登りも下りもシカに遭った。今回も期待しているが、今日は人も多いし、出てこないかな、と思ったら、すぐ左手の斜面にシカがいた。しかし、足元に気をつけながら登らねばいけないので、みんな気づかずに素通りしていく。

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 1頭だけかと思ったら、そばにさらに3頭。

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 野鳥はヤマガラシジュウカラ、ヒガラ、メジロヒヨドリなど。ミソサザイの声も聞いた。

 この女坂には「七不思議」が次々と現れるが、これは「子育て地蔵」。最初は普通のお地蔵さんだったが、いつのまにか童顔に変わっていたという・・・。

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 「爪切り地蔵」。弘法大師が一夜のうちに手の爪だけで彫ったという・・・。

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 あと五つあるが、まあいいですね。2017年12月の登山記録では七不思議をすべて紹介している。

peepooblue.hatenablog.com

 かつては八意思兼神社の場所にあったという前不動堂、さらに大山に現存する最古の建築という龍神堂(かつては二重滝のそばにあり大火による焼失を免れた)の前を過ぎ、急な石段を登ると、プォーッという法螺貝の音色が聞こえて、雨降山大山寺に着いた。修験者らしき先導師に率いられた白装束の団体が来ている。もちろん、カラフルなウエアを身につけた登山客も大勢いる。

 そもそも大山寺は奈良・東大寺の開山として知られる良弁(ろうべん)僧正(689‐773、相模国出身説あり)が天平勝宝7(755)年に入山して不動明王を本尊として創建したと伝わる古刹である。

 しかし、大山そのものは山頂から縄文時代の土器片が見つかっているなど、それ以前から祭祀の場として信仰の対象になっていたと思われる。大山寺の創建後は神仏習合して修験道の霊山となり、ご神体である山頂の霊石にちなんで「石尊大権現」と称されるようになった。

 大山寺は江戸時代までは現在の阿夫利神社下社の位置にあったが、明治初期に廃仏毀釈の狂乱によって破壊され、その後、現在地に再建された。本尊の鉄造不動明王像(鎌倉期)はあまりにも恐ろしい形相に変じていたために誰も手出しができなかったとの伝説があり、今も本堂に奉安されている。

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 今日は本尊の御開帳日で、白装束の一団はお堂の中へ入っていったが、僕は前回拝観したので、今日はパス。あたりは紅葉がきれいだった。

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 ここからも江ノ島がよく見えたが、ちょっと霞んでいる。

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 江戸時代に流行した大山参りでは、大山に登った後、江ノ島、鎌倉へ回り、遊んで帰るのが定番コースだったらしい。

 

 大山寺をあとにさらに登っていくと、またシカがいた。

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 1頭かと思ったら、子連れだった。

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 夫婦らしき二人連れがやってきた。シカなんて珍しくないと思われるかもしれないが、一応教えてあげると、予想以上に喜んでスマホで写真を撮りだした。

「一緒に撮れるかしら」

 こういう時、とくに女性はシカの写真を撮るのではなく、シカを背景に入れて自分の写真を撮るという人が多い。

 

 女坂といっても、けっこう険しくて、息が切れてきた。まだ朝食もとっていないので、エネルギーが不足気味でもある。

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 それでも、本当にハードなのは阿夫利神社下社から山頂までなので、こんなところでバテている場合ではない。

 ケーブルカーの終点がある下社になんとか到着。観光で大山を訪れる人の中にはケーブルカーでここまで来て、神社に参拝して、またケーブルカーで下るという人も多いのだが、この時間帯はまだケーブルが動いていないし、ほとんどの人はさらに山頂をめざすようだ。

 すっかり色づいた木もあって、紅葉もそれなりに見事だ。

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 江戸時代まではこの場所に大山寺があったが、神仏分離廃仏毀釈の結果、山頂の阿夫利神社の下社が寺の跡地に建てられたわけである。

 平安時代の『延喜式神名帳』(927年)にもその名がある阿夫利神社は社伝では創建が紀元前にまで遡るとされているが、神社があったかどうかは別にしても、丹沢山系の南東端にそびえる大山はピラミッド形の山容がひときわ目につき、古くから崇拝の対象になっていたのだろう。また、相模湾からの湿った風を受けて雲や霧が生じやすく、多くの雨を降らせることから雨乞い信仰が盛んにもなったともいう。そのため大山は雨降(あめふり)山とも呼ばれ、それが転じて「あふり」または「あぶり」になったと一般にはいわれる。また、アイヌ語の「アヌプリ」(偉大なる山)が語源とする説があったりもする。アイヌの祖先も縄文人であるとすれば、アイヌ語の「カムイ」と日本語の「カミ」は縄文人が使っていた同じ言葉に由来すると考えられるし、大山が縄文時代から信仰対象だったとすれば、山の名をアイヌ語で解釈することもできるのかもしれない。さらに、地元の郷土史家・宮崎武雄氏が朝鮮語が由来である可能性を指摘しているのが個人的には興味深い(『相州大山今昔史跡めぐり』、風人社、2013年)。僕も角川の朝鮮語大辞典で調べてみたが、「ア・ブリ」には巫女の言葉として「我が家の代々の祖先の魂(の守り神)」という意味があるようだ。相模国武蔵国とともに高句麗など朝鮮半島から渡来した人々が多く移住して開拓した地域であるから、そういうこともありうるのかな、とは思う。

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 さて、ここで朝食をとるつもりだったが、ベンチやテーブルはほとんど先客に占拠されており、一休みする場所もない。

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 ということで、神社を拝み、拝殿の地下に湧く御神水などを見ただけで、さらに山頂をめざして登る。この先は神域で、かつては限られた時期にしか立ち入ることができず、また女人禁制でもあった。今はもちろん、誰でも登れるが、登拝口では自分でお祓いをするようになっている。

 まだまだ話が長くなりそうなので、続きはまた明日。