茨城県のローカル線旅(その1)

 9月3日、上野6時31分発の常磐線に乗り、茨城県ひたちなか市にある勝田駅に8時32分着。ここから14.3キロのローカル線「ひたちなか海浜鉄道」に乗るのが今日の目的である。

 この路線には過去に一度乗ったことがあるが、その時は茨城交通湊線といった。その後、廃線の危機に陥りながら第三セクターとなって生き残り、現在の名前に変わったのである。前回はただ一往復しただけだったが、今回はこの魅力的なローカル鉄道をじっくりと味わいたい。

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 勝田駅の1番ホームへ行くと、そこに切符売り場があり、1日フリー切符を購入。1,000円のはずが、ただいま割引キャンペーン中で600円だった(ひたちなか市の補助事業によるそうだ)。勝田から終点・阿字ヶ浦までの片道が570円だから大変お得である。

 さて、どんな列車がやってくるか、と思っていたら、パッと見ただけではなんだかよく分からない奇抜なデザインの車両が1両で到着。どうやら、ひたちなか市にある小松製作所茨城工場とタイアップしているようだ。

 キハ3710-02。この車両には前回も乗ったが、外観がまったく変わっている。ちなみに車両形式の3710はミ・ナ・トに由来する。

 僕のようないわゆる「乗り鉄」や親子連れ、そして、地元の客を乗せて、8時42分に発車。

 常磐線から分かれて、左へカーブすると、すぐに工機前に到着。この駅はかつては日工前だった。日立工機の工場前に従業員専用駅として設置されたのが始まりで、その後、一般客も利用できるようになり、会社名が工機ホールディングスに変更されたことで、2019年から現在の駅名になったとのこと。

 次の金上(かねあげ)までは住宅街を走り、そこから林の中を抜け、坂を下って田園風景の中へ。田んぼはすっかり色づいて、稲刈りも行われている。

 中根を過ぎ、「高田の鉄橋」という名の新しい駅を出て、まもなく中核駅の那珂湊に8時56分頃到着。駅構内には古い車両がいろいろあり、前回も降りてみたかったのだが、時間の都合もあり、下車できなかった。一度降りてみたかった駅である。

 駅員にフリー乗車券を提示して、改札を出る。

 古い木造駅舎で、大正2(1913)年の開業時からのものだそうだ。

 線路に沿って阿字ヶ浦方面に歩き、踏切を渡って、駅の裏側に回り込むと、そこにお目当ての車両がいた。

 日本初のステンレス製のディーゼルカー、ケハ601。1960年にデビューして、1992年に引退。すでに台車も外され、線路の上ではなく地面に車体が置かれているだけだが、何とも言えない愛嬌のある顔だ。前面の二枚窓の上の眉毛のような小窓がいい味を出している。

 そのそばにはこれも古い車両。塗装が剥げて、かなり痛々しい姿の旧国鉄キハ20-429。1961年に製造され、主に広島県内の国鉄路線で走った後、1984年に鹿島臨海鉄道に譲渡され、1991年に茨城交通にやってきた。茨城交通ではキハ203として走っていた。鹿島移籍時にライトの位置が変更されている。

 駅のまわりを一周して、次の阿字ヶ浦行きに乗るため、改札を通り、ホームに横付けされている車両もチェック。

 ミキ300-103。兵庫県三木鉄道で走っていた車両で、1998年製造。2008年に三木鉄道が廃止され、その翌年、ここへやってきて、塗色も車番も変えずに走っているという。

 そのミキ300に連結されているのが、キハ205。1965年に製造された旧国鉄キハ20-522で、1989年、水島臨海鉄道に譲渡され、1996年に茨城交通にやってきた車両。今も現役で走る貴重な旧国鉄キハ20である。今日はお休みのようで、乗れないのが残念。

 9時48分の列車で阿字ヶ浦へ向かう。今度の車両はキハ11-5。JR東海から移籍した車両で、1989年製造。

 この車両、地元名産の干し芋にちなんで「ほしいも列車王国」と銘打ったラッピングトレインで、車内には干し芋の製法やサツマイモの品種についての解説などの掲示があり、なんとつり革が干し芋になっているのだった。

 触ってみると、ちょっと軟らかくて、本物の干し芋のような触感だった。

 列車は那珂湊を出ると、左へカーブして北へ向かい、台地上へと上っていく。車窓にはサツマイモ畑が広がる。

 ほしいもの王様?

 殿山、平磯と停まり、その次に美乃浜学園という新しい駅ができていた。この地域の小中学校が統合されて、市立の小中一貫校が新設され、その最寄りとして昨年3月に開設されたそうだ。その新駅を過ぎると、磯崎、そして終点の阿字ヶ浦には10時ちょうどに到着。

 駅は台地の末端に位置し、駅からは木立に遮られて見えないが、すぐ下に阿字ヶ浦海水浴場がある。かつて国鉄時代には夏に上野から直通の臨時急行「あじがうら」がここまで乗り入れていたこともあり、長いホームがあるが、今はその一部が使用されているだけだ。

 ところで、春のネモフィラや秋のコキアが丘一面を彩り、今や大変な人気観光地となっている国営ひたち海浜公園は阿字ヶ浦のすぐ北側にある。車窓からもサツマイモ畑の彼方に大観覧車が見えた。そこでこの鉄道も阿字ヶ浦から公園までの延伸が認可されたらしい。この鉄道斜陽の時代に、こうした新線計画が現実化するとすれば、異例中の異例といえる。

 

 さて、阿字ヶ浦駅にも貴重な車両が保存されている。キハ222とキハ2005。そして、紺と白に塗られたキハ222の前にはレールで作られた鳥居が立ち、「ひたちなか開運鐡道神社」の赤い幟がはためいているのだ。うーむ。

 この「御神体」となっているキハ222は1962年に製造され、北海道の羽幌炭礦鉄道で走っていたのが、1970年の同鉄道廃止により翌年、茨城交通が購入。以来、2015年まで無事故で走り続けたものだという。寒冷地向け車両ならではの円形の旋回窓がついているのが貴重だろう。

 その後ろには旧国鉄準急色に塗られたキハ2005。1966年製造で、北海道の留萌鉄道で使われ、1969年に茨城交通に転入。2015年に廃車となっている。

 さて、車両見物はこれぐらいにして、阿字ヶ浦海岸へ行ってみよう。

 

 

第1回アルゴグラフィックスカップ

 北海道カーリングツアーの第3戦、アルゴグラフィックスカップが北海道北見市で9月1日から今日まで行われた。この大会は女子のみで、8チームがエントリーしていたが、2チームが出場辞退となり、6チームが2組に分かれて、予選が行われた。辞退チームはすべて不戦敗の扱い。

 その結果、ツアー3連勝を狙うフォルティウス、この大会から今シーズンのスタートを切ったロコ・ソラーレ、その妹分のロコ・ステラ、そして、世界ジュニア優勝メンバーを中心とする大学選抜が予選突破。

 今日は午前中に準決勝が行われ、フォルティウスがロコ・ステラを破り、3連覇に王手をかけ、もう一戦は大学選抜がロコ・ソラーレを5-3で破り、決勝進出。

 そして、午後に行われたフォルティウス対大学選抜は6-4で大学選抜が勝利。第一回大会のチャンピオンとなった。ロコ・ソラーレフォルティウスと強豪を連破しての優勝は価値がある。

 大学選抜はユニバーシアードの日本代表に選ばれている。

 今週はツアー最終戦アドヴィックスカップ常呂で木曜日から。今大会と次大会に中部電力が出ていないのが、ちょっと寂しい。

下北沢に原っぱ出現!

 今日から9月。東京は朝晩雨が降ったが、日中は晴れて、蒸し暑く感じた。

 気象庁は今年の夏の異例の早さで明けた梅雨の期間を修正し、関東・甲信地方は6月27日の梅雨明け発表が実際は7月23日ごろに梅雨明けと改められた。6月末から7月初めにかけて記録的な猛暑となったが、その後、また雨の日が続いたため、これも梅雨の雨と判断した。たぶんそうなるだろうとは思った。

 下の写真は下北沢駅の近くに出現した原っぱ。空き地に雑草が生い茂っているわけではない。

 ここは地下化された小田急線の線路跡。東北沢~下北沢~世田谷代田の間の線路跡が再開発されて、さまざまなお店が並ぶ散歩道が整備されたが、下北沢駅の世田谷代田寄りに小田急と世田谷区が共同で整備した緑の広場「ののはら」がこれである。

 さらにその先には道路を挟んで、世田谷区立の「シモキタ雨庭広場」。オープンは7月23日だから、東京の梅雨が正式に明けた日である。

 ここはもともと窪地というか谷になっていて、水が溜まりやすい地形。大雨に備えて、降った雨を地下に貯留させる仕組みになっている。シオカラトンボが飛び回っていた。

 この区間は歩いても大した距離ではないし、地下を電車で移動してしまうのはもったいない。

 都心上空を飛んで羽田へ降下中の飛行機。

(きょうの1曲)PFM / Impressioni di Settembre


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8月の終わりはもうオレンジ色

 8月も今日で終わり。すっかり日も短くなったし、暑さも和らいで、このところ夏の終わりを感じさせる日が続き、一昨日は東京都心の最低気温が20℃を下回ったりもしたが、今日は4日ぶりに真夏日が戻ってきた。都心の最高気温は32.5℃。最低は22.3℃。西日本方面では猛暑日。そして、沖縄方面には猛烈な台風11号が接近している。

 街では早くもオレンジ色が目立ち始めた。ハロウィン関連の商品が並び始めたのだ。毎年のことだが、まだ2カ月もある。

 これからハロウィン、クリスマス、年末の三段跳びで1年が終わるのだ。

 

 群馬県土合駅でみつけた小さい秋。

(おまけ)日本平動物園のオニオオハシ

(きょうの1曲)STELLA LEE JONES / Mirror


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地底駅とループ線(その3)

 上越線湯檜曽、土合の両駅を訪ねる旅の話の続き。

 土合駅から再び電車に乗って、上越国境を越え、新潟県まで足を伸ばそう。

 川端康成が小説『雪国』を書くきっかけとなった越後湯沢逗留の際はまだ上越線は単線で、新清水トンネルは開通していなかったから、土合駅も普通の山間の駅だった。調べてみると、1931年に水上~越後湯沢間が開通した時に土合は信号場として開設され、翌年12月からスキーシーズンのみ旅客扱いが始まり、正式な駅に昇格したのは1936年12月のことだから、川端が『雪国』を書き始めた頃の土合はまだ信号場で、それでも雪の季節には列車が停車していたと思われる。とにかく、列車は土合を出て、すぐに「国境の長いトンネル」である清水トンネル(9,702m)に入り、これを抜けると「雪国」だったわけである。もっとも、トンネルの上州側も関東有数の豪雪地域ではあるけれど・・・。

 ちなみに当時非電化だった上越線で最後に水上~越後湯沢間が開通した時に水上から越後湯沢の次の石打までが電化され、この区間だけ蒸気機関車ではなく、電気機関車が列車を牽くようになった。長さ10キロ近い狭いトンネルにSLを走らせたら機関士も乗客も煙に巻かれて大変なことになるからである。当然、『雪国』に出てくる「汽車」も上野から水上までは蒸気機関車、水上からは電気機関車が牽いていたのである。

 とにかく、再び地底へ続く長い階段を下る。途中で何枚か写真を撮りながらではあるが、やはり改札からホームまで10分ぐらいかかる。

 改札といっても無人駅だし、券売機もなく、IC乗車券も一切使えない。土合から乗る客は乗車証明書発行機で土合からの乗客であることを示す券を取り、これを提示して車内または到着駅で運賃を支払うシステムである。湯檜曽も同じだった。僕は「青春18きっぷ」を所持しているので、フリーパスである。

 こんなに長い階段は滅多にないが、こんなに人が嬉しそうに上り下りしている階段も珍しい。何人もの小学生が息を切らせながら上ったり下りたりしていて、階段の下で引率らしい男性が「はい、あと一本!」などと言っている。トレーニングか?

 ところで、湯檜曽~土合間は上下線が全く別のルートを通るので、この区間の距離も上下線で全く違うはずだ。運賃の計算はどうなっているのだろうか。

 運賃計算の根拠となる営業キロを見ると、湯檜曽~土合間は6.6キロである。しかし、新清水トンネルの入口から土合駅までは3.9キロで、下り線だと湯檜曽~土合の距離はそれより短いはずだ。つまり、この区間営業キロはループがあって、より長い上り線の距離を採用していることが分かる。運賃は3.9キロなら190円のはずだが、実際は200円である。ちなみに湯檜曽~土合の所要時間は下りが概ね4分なのに対して上りは9分かかる。

 さて、13時49発の長岡行きに乗車。今度の電車は2両編成で、けっこう混んでいて、僕は2両目の最後部に立っていた。土合から新清水トンネルの出口までは9.6キロで、非常に長く感じる。

 そして、ついにトンネルを抜けると、そこはもう新潟県で、電車の窓が一斉に曇る。長いトンネルで冷えた車体に高温多湿の夏の空気が接することで、水滴がつくのだ。水滴は窓の外側なので、内側から拭くことはできない。さすがに運転席の窓は曇らなかった。特殊な工夫がなされているのだろう。

 ちなみに『雪国』でも鏡のように車内を映す夕暮れ時の汽車の窓が印象的に描写されるが、冬は外が寒く、車内が暖かいので、窓の内側に水滴がついている。

 新清水トンネル清水トンネル新潟県側の坑口はほぼ隣り合っていて、すぐに土樽に着く。13時57分着なので、土合から8分かかった。

 土樽駅は『雪国』の冒頭に出てくる「信号所」だったところである。この駅も1931年に土樽信号場として開設され、1933年12月からスキー客の乗降ができるようになり、1941年に正式な駅に昇格している。作品で、この「信号所」に駅長以下複数の駅員が勤務していたことが分かる。ポイントの切り替えなど多くの人手が必要だったのだ。今は当然ながら無人駅である。

 土樽駅を知っている人は少ないかもしれないが、関越自動車道の土樽パーキングエリアは東京でも交通情報などでよく耳にする名前である。

土樽駅。運転席の窓は曇っていない)

 上下線の間に溝があり、冬に流雪溝として使うのだと思うが、流れている水が列車の進行方向と同じである。つまり、ここからは水はすべて日本海に向かって流れるわけだ。この先、上越線に寄り添うように流れるのは信濃川の支流・魚野川である。

 ところで、乗っていて気づいたのだが、駅発車時に車掌が吹き鳴らすホイッスルの音が耳に馴染んだものと違う。高くて鋭い音がする笛である。降雪時でもよく通るように、ということなのだろう。列車の警笛も雪国では高くて鋭い音がする。

 

 土樽を出ると、しばらくは並走していた上下線がまた離れて、上り線はどこかへ行ってしまった。この区間、上り線はまたループしているのだ。通称「松川ループ」と呼ばれる。

(上下線が別々で、単線のような区間を行く)

 地図を見ると分かるが、北から来た上り列車は越後中里を出ると松川ループにさしかかり、時計回りで一周する。ただ、ループした線路が交差する地点ではどちらもトンネルの中なので、湯檜曽ループと違って、ループ線であることに気づきにくい。というか、ほぼ気づかない。

 下り線はループの外側を迂回するように馬蹄形のカーブを描いて、この区間を通り抜けている。 

 面白いのはループ線が時計でいえば11時の位置で下り線と寄り添う区間である。ここで上りと下りの列車がすれ違うのではなく、同じ方向に走るということが起こりうるわけだ。今はそういうことはないようだが、新幹線開通以前は列車本数が多く、この区間で列車がすれ違うこともあったらしい。ただ、地図上では線路が寄り添って見えるものの、実際には上り線の方が高い位置にあり、しかも、樹林に視界が遮られて、お互いの線路は見えないらしいけれど。

 そして、このループの円の真ん中の地下を上越新幹線は長大なトンネルで貫いている。在来線だといろいろと面白いが、新幹線だとひたすらトンネルの闇で、何の面白みもない区間である。ただ、冬に乗ると、カラカラに乾いた関東平野から長大なトンネルが連続する暗闇を一気に駆け抜け、いきなり豪雪地帯に飛び出すのはかなり劇的ではある。

(越後中里の手前で再び上下線が出合う。直進の上り線は松川ループへ。上は関越道)

 越後中里からはスキー場のある駅が続く。山間にホテルやリゾートマンションが林立する独特の景観だが、夏だからひっそりとしている。

 中里のスキー場には緑のゲレンデに古い客車が15両ほど並んでいた。休憩所として利用されているらしい。

 山が大々的に開発されたスキー場だらけの風景の中、杉林に囲まれた田んぼに目を和ませつつ、14時13分、越後湯沢に到着。新幹線の停車駅というのは大体味気ないものだし、もう少し先まで行ってもいいかな、と思ったが、ここで下車。

 温泉地らしく、駅前には足湯があったが、靴下を脱ぐのも面倒なので、足を浸けるのはやめ、駅ビルの新潟県の物産を扱うお店の中を一巡しただけで、15時08分発の水上行きに乗る。あとは帰るだけだが、上り線にはふたつのループがある。雨が降り出した。

 松川ループは右へ右へとカーブしているのは何となく分かったが、ほとんどトンネルばかりで、どこからどこまでがループ線なのか分からなかった。

 清水トンネルを抜けて、相変わらず観光客の多い土合の地上ホームに停車し、この先が湯檜曽ループである。雨は何時しか止んでいる。

 トンネルを二つ抜け、湯檜曽川の谷が右手に開けると、線路左側に昔の湯檜曽駅のホーム跡が草に埋もれていた。

 そして、まもなく眼下にこれから走る線路と湯檜曽駅が見え、それが見えなくなると列車はまたトンネルに入る。左へ左へとカーブして、一度、外に出て再びトンネルへ。

 このトンネルを抜けると午前中に見た湯檜曽川の鉄橋を渡り、土合から9分で湯檜曽駅に停車。

 湯檜曽を出れば、すぐ新清水トンネルの坑口が見えて下り線と一緒になって、そのまま水上へ。

 水上には15時48分着。5分後に高崎行きがあり、高崎からは八高線経由で拝島から青梅線、立川から南武線と乗り継ぎ、登戸から小田急で帰る。21時半頃、帰宅。

高麗川駅に着いた八高線ディーゼルカー・キハ110-222)

 

(おまけ)過去の上越線方面の旅の記録

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地底駅とループ線(その2)

 上越線湯檜曽、土合の両駅を訪ねる旅の話の続き。

 水上で約1時間、時間つぶしをして、11時40分発の長岡行きに乗車。先ほど湯檜曽から乗った電車の折り返しで、これも臨時列車である(越後湯沢からは毎日運行)。

 昼食にはまだ早いが、少しお腹が空いたので、駅前のお店でこの辺の名物であるらしい生どら焼きを買った。小倉や抹茶のほか、チョコ、イチゴ、栗、マンゴーなどがあり、栗を選ぶ。

 冷たいどら焼きで、中身は生クリームに栗。美味しかった。

 さて、電車はたくさんの客を乗せて、水上を発車。今日2回目の新清水トンネルに入って湯檜曽に停車し、さらにトンネル内を4分ほど走って土合に着いた。まさに地底駅である。こんな駅で降りると、周囲の乗客から物好きな奴だと思われるのではないか、と想像していたが、驚いたことに、ホームに大勢の人がいる。物好きな人は自分だけではなく、しかも予想以上にたくさんいたのだった。もちろん、下車客も僕だけではなかった。ちょっと前ならこのような駅を訪れるのは鉄道マニアに限られ、それは大体男であったが、今は女性もいるし、家族連れもいる。老若男女、各種揃って、みんなカメラやスマホで写真や動画を撮影している。


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 あちこちから「寒い、寒い」という声が聞こえる。確かに冷凍庫の中とまでは言わないが、冷蔵庫の中ぐらいの寒さに感じる。それでもみんな嬉しそうだ。

土合駅から湯檜曽方面を見る。かつては線路が2本あったことが分かる)

 ところで、土合駅は過去の記憶とは様子が少し違っていた。本来のホームからせり出すように新しいホームが設置されているのだ。昔は本線(通過線)と待避線があり、待避線にホームがあった。つまり、ここで特急・急行の通過待ちができたが、今は普通列車しか走らないので、待避線の線路を撤去して、旧待避線上に本線に沿うホームが新設されたわけだ。

 土合駅は新清水トンネルの入口から3.9キロ、出口まで9.6キロの地点にある。トンネルの長さは13,490メートル。

 旧ホームには待合室があり、その壁面にはびっしりと来訪者のメッセージその他が書かれた紙片が貼り付けられている(上写真)。そして、その並びの旧事務室はビールの熟成に利用され、貯蔵タンクが並んでいる。このホームの低温で、一年中気温が変わらない環境がビールの熟成に適しているらしい。このビールは毎年秋に駅で開催されるイベントで提供されるとのこと。

土合駅より新潟方面を望む。トンネル出口は9.6キロ先)。

 さて、トンネルの中の地底駅から地上に出よう。湯檜曽と同じようにホームと直角に地下トンネルが掘られ、湯檜曽の場合は通路はほぼ水平だったが、土合では階段になっている。これが有名な階段である。

 階段の登り口に「ようこそ日本一のモグラ駅へ」という説明板がある。

 この階段は、338メートル、462段あります。階段を上り、143メートル(階段24段)の連絡通路を経て、改札口になります。
 また、この下りホームの標高は海抜583メートル、駅舎の標高は、653.7メートルあり、駅舎と下りホームの標高差は70.7メートルあります。
 改札口までの所要時間は、約10分要します。
 足元にご注意してお上がり下さい。

 

 隣の湯檜曽駅には海抜555メートルとか557メートルとか書いてあったから、下り線では標高差は30メートルほどだが、上り線だと100メートル近い標高差ということになる。それだけの標高差を下ると、かなりの急勾配になってしまうので、ループ線にする必要があったわけだ。

 階段は1段ごとに数字が書かれ、5段ごとに約3歩分の踊り場がある。長い階段ではあるが、山登りだと思えば、まあ大したことはない。

 階段の脇には浅い溝があって、地下水が沢のように流れている。これはエスカレーターの設置を見込んだスペースだったらしい。もちろん、実際に設置されたことはないし、今後もないだろう。下りのための滑り台にしたら、どうだろうか。

 途中で壁面から地下水が勢いよく落ちているところがあり、また休憩用のベンチもあったが、休むことなく462段を上りきる。最初は寒かったが、だんだん体が温まり、気温もどんどん上昇して、すっかり夏の気温に戻った。

 上から振り返ると、いかにも地底に通じる階段という感じ。

 階段の続きは連絡通路で、湯檜曽川を越える。ひどく汚れた窓越しに美しい渓谷が見下ろせた。

 トンネルを通過する列車が巻き起こす風圧を左右に分散させるためと思われる、上から見るとV字形の衝立の向こうに扉があり、その先にさらに通路が続いて、今度は国道を越える。そして、12段ずつの階段を2度上って右に折れるとようやく改札口に到着。階段は462+12+12で合計486段。僕のように興味本位でやってきた人間はいいとしても、この駅を日常的に利用するとなると、やはり大変だし、高齢者や体の不自由な人はほとんど利用できない。土合駅前には水上方面と谷川岳ロープウェイの駅を結ぶ路線バスが通っており、こちらの方が運行本数も多いし、便利なので、自家用車のない地元の人は鉄道よりはバスを利用するのだろう。

 さて、土合駅も今は無人駅。駅員がいた頃は下り列車の改札は列車の発車時刻の10分前に打ち切ると時刻表の欄外に書かれていたのを覚えている。その改札口から左へ行くと下りホームで、右へ行くと、すぐに上りホームに出られる。あまりにも雰囲気が違って、同じ駅とは思えない。

 ススキに囲まれた山間の小駅である。そして、架線柱やビーム(架線を支える梁)が緑色に塗装されているのを見ると、上越線だな、と思う。

 何やら水音がするので、ホームの水上寄りの先端まで行くと、線路の向こうに滝が見えた。

 さて、このあとは13時49分発の長岡行きに乗る予定である。まだ時間はたっぷりあるので、土合駅の外へ出てみよう。駅前に立つと、正面に山がある。あの山の地下深くに下りのホームがあるのだ。

 右手には国道と渓谷を跨ぐ連絡通路が見える。

 山小屋風の駅舎。谷川岳の登山基地に相応しい駅でもある。登山者にとっては長い階段がよいウォーミングアップにはなるのだろう。こんなところで無駄なエネルギーを使いたくないと思うのかもしれないが。列車を降りたところからが登山なのだ。ゼロからの出発ではなく、マイナス70メートルからの出発である。

 駅前に車がたくさん止まっているのは、鉄道を使わず、車でトンネル駅見物に来る人が多いということか。

 谷川岳の一ノ倉沢から流れてくる湯檜曽川。

 近くにドライブインがあったので、そこで昼食。

 エンマコオロギやキリギリスの声を聞きながら、駅に戻る。相変わらず赤トンボが多く、草むらからカンタンらしきルルルルルルルル・・・という声も聞こえた。

 実は計画段階で土合から谷川岳ロープウェイで天神平まで登ってみるのも一興かな、と考えていたのだが、昨日の天気予報では群馬県北部に雨雲がかかるような予報だったので、今日は雨を覚悟していて、それなら山に登っても何も見えないだろうと思い、山登りは取りやめたのだった。しかし、天気は予想ほど悪くない。雲は多いが、青空も見える。リュックに折り畳み傘は入っているが、長い傘を持ってこなくてよかった。

 とにかく、一度上越国境を越えるべく、再び地底駅に下って、長岡行きの電車に乗ることにする。次の目的は上り線にある二つのループ線を通ることである。

 さらにつづく。

 

地底駅とループ線(その1)

 昨日(8月27日)、庭の朝顔が花を開くより早く5時前に家を出て、8時前に群馬県高崎駅までやってきた。今日は上越線湯檜曽、土合の2駅を訪れるのが目的。いずれも下りホームが長大な新清水トンネルの中にある駅である。

 高崎8時23分発の電車で久しぶりの上越線を北上し、水上には9時31分に到着し、44分発の長岡行きに乗り換える。

 水上までの211系はステンレス車体にオレンジとグリーンの帯が入る、関東地区ではおなじみのカラーだが、ここから乗るE129系は同じJR東日本でも新潟地区で走る電車で、帯の色は濃い黄色とピンク。新潟を象徴する稲穂の実りと朱鷺をイメージしているそうだ。

 もともと関東と新潟地区を結ぶ鉄道路線としては高崎から長野、直江津、長岡を経て新潟へ通じる信越本線があった。しかし、遠回りであるうえ、途中に急勾配の難所、碓氷峠が控えているため、より距離の短い上越線の建設が大正時代から始まり、南は高崎から、北は長岡の一つ手前の宮内から順次、路線が延長されて、大正末の時点で未開通だったのは水上~越後湯沢の上越国境越えの区間だけだった。この区間に立ちはだかるのが険しい谷川連峰がそびえる三国山脈で、難工事の末、その下を貫く9,702メートルに及ぶ清水トンネルが9年の歳月をかけて1931年9月1日に開通。当時の日本最長トンネルで、この結果、上越線は全線開通し、東京と新潟を結ぶ短絡ルートが完成したのだった。上野~新潟間の距離が98キロ短くなり、所要時間は4時間も短縮されたという。その清水トンネルの着工が1922年なので、ちょうど100年前ということになる。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 これは川端康成の『雪国』のあまりにも有名な冒頭部分であるが、この「国境の長いトンネル」が清水トンネルであることは言うまでもない。

 川端がこの作品の一部を最初に雑誌に発表したのが1935年で、その後も断章が複数の雑誌に断続的に掲載され、それが長編小説にまとめられ、『雪国』として最初に刊行されたのが1937年であるから、まだ清水トンネルが開通して、まもない頃であった。ちなみにトンネルを抜けた汽車が止まった「信号所」とは土樽信号場のことであり、信号場とは主に単線区間に設けられる、旅客扱いはせず、ただ列車の追い抜きや行き違いのための施設である。今は土樽駅に昇格している。新潟県に入って最初の駅である。

 また、この区間には清水トンネルの前後にループ線が設けられているのも大きな特徴といえる。山をトンネルで貫く場合、麓からトンネルを掘るよりも、山の高い位置に掘った方がトンネルが短くて済む。清水トンネルもなるべく短いトンネルにするため(それでも9.7キロあるのだが)、出入り口が山の高い位置にある。それだけ列車は登らなければいけないわけだが、トンネルに通じる線路の勾配を少しでも緩和するために線路がぐるりと輪を描くことで距離を延ばして高度を稼ぐループ線が建設されたわけである。

 いま乗っている電車の車内に掲出された路線図にも「国境のトンネル」とともにループが描かれている。

 ところで、開通当時、上越線はすべて単線であったが、輸送力増強の必要から複線化が進められ、昭和38年から単線の清水トンネルと並行して、もう1本のトンネル工事が始まった。掘削技術の進歩により、麓から長いトンネルを掘ることができ、4年後の昭和42年9月に開通している。それが13,490メートルにも及ぶ新清水トンネルである。この結果、二つのループを通る清水トンネル経由は東京方面へ向かう上り線専用となり、新潟方面へ向かう下り線が新清水トンネルを利用している。

 そして、この区間にある湯檜曽、土合の両駅は旧線経由の上りホームは地上にあるが、新線経由の下りホームは新清水トンネル内に建設され、まさに地底駅となっているのだ。湯檜曽はトンネルに入ってすぐの場所にあるが、土合駅はトンネルの奥深くにあり、地上の改札口とは長い長い階段で結ばれているというので、「もぐら駅」として有名である。この区間は何度も通ったことがあり、トンネル駅の記憶もあるが、もちろん降りたことはない。そこで、このトンネル駅に降りてみようというのが今日の旅の目的である。

 ということで、水上を発車した長岡行きは数分走ると、上下線が分かれ、下り線だけがトンネルに突入する。これが新清水トンネルである。そして、すぐに湯檜曽駅に停車。ここで下車。9時49分着。列車はすぐにトンネルの奥へ姿を消した。


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湯檜曽駅下りホームから新清水トンネル入口を望む)

 降りたのは僕だけだった。ホームの中ほどに線路と直角にトンネル通路が設けられ、これを歩いていくと、右に上っていく階段があり、その先には地上の上りホームがある。その階段を過ぎると、駅の外へ出られる。無人駅で改札口はない。

 駅を出ても、そばに郵便局があるぐらいで、特に何もない。物好きな旅行者以外で、この駅を利用する地元の人はどれぐらいいるのだろう。

 アブラゼミやミンミンゼミが鳴き、キリギリスやコオロギの声も聞こえる。赤トンボがたくさん飛んで、ススキの穂も風に揺れている。まだ暑いが、微かに秋の気配も感じられる山の中の小さな駅。

 北側の山の中腹に架線柱が並び、そこに線路があるのが分かる。ループ線だ。かなり高いところを通っているが、列車はあそこから山を巻くようにぐるりと回りつつ高度を下げ、湯檜曽駅へやってくるのだ。今は普通列車と時折、貨物列車が通るぐらいだが、40年前に上越新幹線が開通するまでは東京と新潟を結ぶ大動脈であり、新潟~上野間の特急「とき」をはじめ、「いなほ」はくたか」「北陸」「佐渡」「能登」「天の川」「鳥海」など夜行列車を含む数多くの特急、急行が昼夜を問わず、あのループを回って、上野をめざしていたわけだ。あの時代にここへ来てみたかったと思う。

 とにかく、あのループ線を下ってくる列車を見たい。湯檜曽に発着する列車は上下5本ずつしかないが、今日は臨時列車が1本運転され、それが10時29分発の水上行きである。それで一旦、水上に戻り、また下り列車に乗って、今度は湯檜曽の次の土合駅で降りるというのが今日の予定である。最初に土合まで行って、湯檜曽まで4キロほど歩くという案もあったのだが、時刻表であれこれ検討した結果、まずは湯檜曽で降りることにしたのである。

 まだ40分ほどあるので、駅前の道(国道291号線)を北へ歩くと、すぐに利根川の支流の湯檜曽川にかかる橋に出た。上越線もそこで鉄橋を渡り、その先にループトンネルが口を開けているようだが、ここからは木々に遮られて見えない。

 国道は川を渡ると、左へカーブして川沿いに遡っていくが、その先に湯檜曽の集落がある。そして、新清水トンネルが開通するまで、湯檜曽駅は山の上に見えている線路沿いにあったらしい。集落からは急坂が通じていたが、大変不便な駅であったようだ。

(列車は山の上の線路を画面左から右へ進み、トンネルに入ると、左へ左へとカーブしてループ線を一周し、この鉄橋へ出てくる。上の線路の左の方に旧湯檜曽駅があった)

湯檜曽川の渓谷を背にした湯檜曽集落)

 さて、湯檜曽駅へ戻り、階段を上がって上りホームへ。階段を上がったところに海抜557.43メートルと書いてあるが、駅名標の支柱には海抜555.65メートルと書いてある。どちらが正しいのだろう。あるいは、計測地点の違いだろうか。

 とにかく、ここからはループ線がよく見える。181系や183系の特急「とき」が走るのを眺めたかったと改めて思う。

 架線に赤トンボがたくさん止まっているし、上空にもたくさん飛んでいる。ホオジロやカケスの姿も目にした。ホームの柵に絡まるクズには赤紫の花が咲いている。

 ホームの待合室には机と筆記具とノート(とアルコール消毒液)が置かれ、駅の訪問者の言葉やイラストが残されていた。

 

 列車発車時刻が近づくと、少し緊張してくる。向こうの山の中腹の線路に列車が姿を現すのは湯檜曽到着の3分ぐらい前だと思われる。その瞬間をカメラに収めたい。そのためにこの駅に降りたのだ。それでも急に出てきたので一瞬遅れた。

 とにかく、山の上に現れ、ループ線をぐるりと回って、湯檜曽駅に入ってきた電車に乗り、再び水上に戻る。


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 水上到着10時34分。次の長岡行きは11時40分である。同じところを行ったり来たり、一体何をやっているのだか・・・。 

(飲食店や土産物屋が軒を連ねる水上駅前)

水上駅前の火の見櫓)

上越線の高崎~水上間にはD51の牽くSL列車も運行されている。今日の運転はないが、水上には転車台が健在。そして、D51-745が保存されている。

 水上駅付近を流れる利根川。日本を代表する大河の源流域に近い。

 公園に咲くコスモス。赤トンボやバッタが多い。


 つづく