藤蔵と勝五郎の道を歩く(3)

 今から200年以上前の江戸後期、多摩地方で実際にあった話と伝わる勝五郎生まれ変わりの物語。その舞台を歩いているわけだが、京王相模原線の南大沢駅を起点に八王子市下柚木の古刹・永林寺を訪れ、まずは小谷田勝五郎(1815.10.10-1869.12.4)の墓にお参りし、野猿街道を歩いて、勝五郎が生涯を過ごした昔の中野村、現在の八王子市東中野までやってきて、往時の面影を残す風景の中を散策。いよいよ勝五郎が自分の前世だと語った須崎藤蔵(1805-1810.2.4)の暮らしていた程久保村へ向かう。

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 昔の中野村の北西部に位置する谷津入(やついり)地区の現在のメインルートは野猿街道の「中央大学南」交差点から北へ入る2車線道路だが、これはいうまでもなく新しい道で、野猿街道を下柚木方面から来ると、一つ手前の「堀之内駐在所前」交差点を過ぎて、すぐ左に分かれる旧道に入り、すぐまた北へ折れる道が昔の谷津入のメインの道だった。

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野猿街道から左へ分かれる旧道)

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野猿街道旧道からすぐ左に折れる道が程久保方面への道)

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 この道沿いに谷津入地蔵堂や塞ノ神、御嶽神社がある。地蔵堂の先で道は二手に分かれ、左へ行くとかつて勝五郎の生家があった千谷戸に通じるが、今は途中で消え、生家跡もニュータウン開発で跡形もない。右へ行くと、田んぼの中を突っ切って、現在の2車線道路にぶつかるが、これを越えると旧道が残っている。

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地蔵堂を過ぎて、直進すると、勝五郎の生家があった千谷戸。右へ折れるのが程久保方面。現在は中央大学の学生の通学路になっている=下写真)

 下の写真で自転車が走っているのが昔の道。みんな中央大学の学生である。向こうに江戸時代から残る小谷田家の本家が見える。

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 丘陵に囲まれた谷戸の田園風景の中を北へ伸びる2車線道路の東側に残る旧道を行く。

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 谷戸の東側の山裾を行く道で、こちら側にも小さな谷戸が入り込んでいる。谷津入(谷ツ入と書いたりもする)は元は八つ入で、八つの谷戸があることにちなむ地名だという。

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 谷津入バス停のある信号から左へ入る細道があり、これを行くと、奥に谷戸田が残り、山林の中に小さな祠がある。これはかつて程久保へ通じる山道の途中にあったという大石蚕影神社。中央大学の造成でここへ遷座したのだろう。草が生い茂っていて、手前で写真だけ撮って引き返してきた。ちなみに谷戸の一番奥は埋め立てられて、築堤の上に中大の野球場がある。

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 さて、谷津入の信号からさらに旧道を行く。

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 ほとんどの家は建て替えられているが、谷津入地区はニュータウン開発区域からはずれているのか、旧家が多く、裏山に墓地を持つ家も多い。

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(民家の裏山の墓地。勝五郎の墓も集落の西側の山の中にあったが、開発区域に入り、永林寺に改葬された)

 道端に咲く彼岸花

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 自分の前世の記憶を語った勝五郎は程久保村の藤蔵の家へ行ってみたい、藤蔵の父親の墓参りがしたいとせがむようになり、文政6(1823)年1月20日に祖母のつや(当時72歳)に伴われて、この道を歩き、寂しい山道を越えて、程久保村へ向かった。

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 いい雰囲気の里山の道だが、やがて中央大学のキャンパスが現れ、そこで道は途切れてしまう。大学構内に古い道が一部残っているそうだが、通り抜けはできない。

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中央大学正門。右手の林の中に古道が一部だけ残っているらしい)

 ということで、大学正門前を左へ行く。

 中大の西側を迂回する2車線道路をどんどん登っていくと、まもなく山を越えて、八王子市から日野市程久保に入る。昔の程久保村である。

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 坂を下ると、上程久保

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 突き当りを右へ行くと多摩動物公園正門前だが、道路の手前側、光塩女子学院幼稚園の入口付近から昔の道が山裾に残っている。

 そして、幼稚園入口のそばには草に埋もれかけた石仏もある。

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 びっしりと篠竹が生えている。この竹を利用した目籠作りは多摩地方の地場産業で、勝五郎の父・源蔵も農業の傍ら、目籠を作り、周辺からも買い集めて、江戸で売る商売をしていた。勝五郎も少年時代から目籠作りを手伝っており、後には父と同じように農業と目籠の仲買を兼業していたと思われる。

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 中大キャンパス北側の谷戸へ入っていく道。勝五郎たちはこんな道を歩いて程久保へやってきたのだろうか。

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 いま歩いてきた上程久保への旧道と中央大学北門へ通じる道の分岐点。

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 中大方面へ行ってみる。恐らく、この道が中野村から勝五郎たちが歩いてきた道だと思われる。

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 ただ、大学の造成時に大幅に改修され、往時の面影は薄れているはず。

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 やがて、トンネルが現れる。その名もヒルトップ隧道。もちろん、昔はトンネルがあるはずもなく、古道は山を越えていた。

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 トンネルを抜けると、中央大学の北門。閉鎖中。

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 このあたりの標高は158メートルほどあるようだ。

 さて、ここで引き返し、さらに進むと、多摩動物公園前に出るが、その前に上程久保方面に少し戻って、秋葉大権現社に参拝。

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 石段の脇に庚申塔が2基(1724年、1745年)、その上に赤い祠。

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 祠の中には双体道祖神(1781年)。一度盗難に遭っているので、厳重に保管されているようだ。

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 長い石段を登ると、秋葉大権現。火伏の神で、上程久保には火災が少ないと言われている。

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 秋葉神社をあとに多摩動物公園前までやってきた。ここがちょうど標高100メートル。

 山を越えて程久保村に入り、祖母のつやが「藤蔵の家はこのあたりか」と問い、「いや、もっと先だよ」と勝五郎が答えたのが、ちょうどこの辺だろうか。

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 多摩動物公園は旧程久保村で最大規模の谷戸の地形を利用して造成されている。

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 多摩動物公園前を過ぎて、坂を下っていくと、モノレール通りから左に旧道が分かれ、すぐに程久保の鎮守・神明神社

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 さらに下っていくと、長屋門のある旧家があり、さらに行くと桜の木が生えた庚申塚。

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 このうち舟形後背をもつのが、藤蔵の父、須崎藤五郎(久兵衛)が建立した馬頭観音。安永9(1780)年のもので、「奉拝西国三十三カ所霊場」と刻まれているので、藤五郎が西国観音霊場巡拝を達成した記念に造立したものか。藤五郎は藤蔵が生まれた翌年、文化3(1806)年8月27日に48歳で亡くなっているので、この馬頭観音を建てた時は22歳だったことになる。富裕な農民だったのだろう。ちなみにこれは日野市内に現存する最古の馬頭観音でもある。

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 庚申塚を過ぎると、まもなく須崎藤蔵の生家である。建て直されてはいるが、同じ場所にあり、勝五郎から聞き取った話を国学者平田篤胤がまとめた『勝五郎再生記聞』に記されている「三軒並んだ真ん中の家で裏が山に続く・・・」という当時の景観はそのまま残っている。ただし、明治時代に養子が家督を継ぎ、その際に実家の小宮姓に改められている。

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 勝五郎はこの家の前にやってくると、迷うことなく家の中に駆け込んでいったという。

 家の前には寛政7(1795)年に程久保村女念仏講中が造立した六地蔵があった。藤蔵が生まれる10年前である。幼い藤蔵もいつも手を合わせていたのではないかと想像するが、今は家の向かい側に向きを変えて立っている。

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(石垣のあるお宅が藤蔵の生家を継承する小宮家)

 

 また、藤蔵が生きていた頃は向かいの家のあの木はなかった、と勝五郎が言い当てて、みんなを驚かせたという向かいの須崎家(屋号は「たばこや」)も今も健在だ。

 藤蔵が文化7(1810)年2月4日の朝、疱瘡でわずか6歳(満年齢なら4~5歳)で短い生涯を閉じると、亡骸は生家から程久保川をはさんだ対岸の現在は京王動物園線の線路が中腹に敷設されている山の上の墓地に葬られた。この時に彼の魂は抜け出して、5年後に勝五郎として生まれ変わったわけだ。

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程久保川やモノレールをはさんだ向こうの山の上に藤蔵の墓があった)

 

 藤蔵の墓は昭和40年代に宅地開発されることとなり、昭和47年に高幡不動金剛寺の墓地に改葬されている。

 最後に高幡不動尊へ行ってみよう。開創は奈良時代以前ともいわれるが、遅くとも平安初期には存在した真言宗智山派の古刹である。

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 その境内の奥にある大日堂の左脇の山裾に六地蔵があり、その並びに「藤蔵・勝五郎生まれ変わり ゆかりの地記念碑」がある。

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 その先に藤蔵の墓の案内板があり、それに従っていくと、墓地の中に藤蔵の墓がある。

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 藤蔵の墓。

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 「文化庚午天 頓悟童子位 二月四日 半四良建之」と刻まれている。「半四良」は継父の半四郎である。「頓悟童子」の文字で短い生涯だったことが分かるが、彼の魂が本当に勝五郎に生まれ変わったのだとしたら、その命は必ずしも短かったとは言えなくなるし、亡き我が子の生まれ変わりだという勝五郎に会った藤蔵の母・しづや継父・半四郎も大いに慰められたことだろう。ふたりはそれ以後、勝五郎を我が子のように可愛がったという。

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(昭和41年の地図)